ヒマジンの独白録(美術、読書、写真、ときには錯覚)

田舎オジサンの書くブログです。様々な分野で目に付いた事柄を書いていこうと思っています。

はるか昔の出来事(「試行」創刊号について)

2018年01月01日 10時30分40秒 | ことば
昨年の暮れまじか、群馬県に住む友人から突然電話があった。
用件は次のようなものであった。
「試行」の復刻版の創刊から第15号までがあるのだが、読んでみる気があるのならそちらに送るとの事であった。

わたくしは「試行」の途中からの読者ではあったのだが、創刊時の物は見たことがない。そこで読んでみようと返事をしたのである。
そして、その雑誌は今私の手元にある。

目次の巻頭言に「試行のために」という文章がいきなり目に付く。
この雑誌の刊行の意義を表明した文章なのである。

谷川雁、村上一郎、吉本隆明の3名の連名であった。そして文責者名として谷川雁とあったのだ。
この3名の各氏は私などにとっては懐かしい方々の名であった。

この巻頭言の内容は後に譲るとして、この方々の当時の年齢は幾つであったかを調べてみました。

谷川雁  (1923-1995年) 38歳 
村上一郎 (1920-1975年) 41歳
吉本隆明 (1924-2012年) 37歳

文責者である谷川氏は当時、38歳であり、他の各氏の年齢はそんなに違わぬ世代であった事が解る。
いずれも少壮気鋭の方々であった。この中で最も早く鬼籍に入られたのは村上一郎氏であった。
その時の年齢は54歳であった。
一方、長生きをしたのは吉本氏であり、亡くなった時の年齢は88歳であった。
わたくしは吉本隆明が亡くなった時の報道を見た記憶を今でも覚えている。

その時の吉本氏のプロフィールの紹介には戦後日本で思想や文芸評論の分野で独自の理論と思索を貫いた思想家、詩人であった、と言っていたのを思い出しました。

若い時、何かに行き詰まった時など吉本氏の書いたものを読んで、助けられたことを思い出します。

吉本が東大全共闘かの集会で講演をした時の講演録の中にあった文章であったように記憶しているのだが、ある学生に「東大解体」はどのようにすれば可能かと問われた時の発言と記憶している。
吉本は其の学生の問いに次のように答えたそうである。「東大を解体する一つの方法は、きみがこの東大の建物のガラスをすべて一人で壊し続ける事である。もう一つの方策はこの東大の存在を支えている仕組みが何であるのかを自分の手で解明することである」
この二つの方策には何の差異もない。
このような内容であったと記憶しています。

そしてさらに、吉本氏に助けられたことがあります。
氏は「転向」に関して、次のように発言していました。
「政治を志した人間がそれをやめたからと言って、思惟の変化と捉える必要は、何もない。だって彼は政治に関する事柄をただやめたに過ぎないのだから」

吉本は自分に向けられる論敵や既存の権威あると思われる思潮に対しては、容赦ない批評をした人でしたが、また一方で、今述べたような「やさしさ」を備えた人であったように思います。

これは彼は自身の思想も含めて、「思想が持っている相対性」を何よりも理解していた思想家であったと思われるからです。

その意味において、わが国では非常に稀な思想家でした。

1960年~70年以降、わが国の思想・言論界は、この「試行」の営みを超える地平からは明らかに退行をしてきているように思われます。
この先、彼らの目指したものを超える営みが表れることはないでしょう。

今回は「試行」の創刊号を手にして、改めてそのようなことを感じたのでした。

今一度、吉本さんたちが目指したものが何であったのか、そしてそれは今、どのように結実されてきているのか、いないのかをもう一度考えて行きたいと思う次第です。

ことしのわたくしのブログの年頭は、古い事柄の回顧となったしまいました。
古希を過ぎ残りの時間の限りあるのを自覚すると、ますますこのように思えるのです。





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