唐木田健一BLog:絶対的な基準を排したとき,《真理》および《正義》はどんな姿を現すのか

「理論科学」と名づける学問分野を提案し,理論や思想の成立根拠およびそれらの変化のメカニズムを考察します.

ルイ・アルチュセール『資本論を読む』と「理論変化」の問題

2021-12-14 | 日記

1.はじめに:新理論形成のメカニズム

 私はこれまで,自然科学の基本理論を中心として,科学史での新理論の形成(「理論変化」の問題)について考察してきた[1].その結論に関する私の第一のポイントは,新しい理論は既存の(諸)理論〔以下「古い理論」〕のただ中に生まれるということである.クーンの「パラダイム論」[2]などでは,新しい理論は古い理論の外で生まれ,それと競合しそれに取って代わるということになっているが,そうではないということである.

 新しい理論をつくり出す人―発見者―は,古い理論とそこにおける諸概念・諸道具に精通し熟達し,それに馴染んでいる.彼/女は,古い理論内部での仕事を通じ,そこにおける否定的要素(欠如,矛盾・不整合)を発見する.彼/女はそれをのりこえることによって新しい理論をつくり出す.したがって,ここには確かに一つの飛躍が存在するのであって,新しい理論は,古い理論から演繹することも,また古い理論へ還元することもできない.両者の間には,理論的にも自然観のうえでも,明らかな断絶が存在する.

 新旧両理論の間の断絶をもって,クーンらは「通約不可能性」―すなわち両理論の間は言葉が通じ合わない―といった議論を展開した.これにより,どちらの理論が優れているかという考察は(曖昧さのうちに)無意味ということになり,その後の「ポストモダン」的思潮における《真理》や《進歩》といった概念の蹂躙に大いに貢献した.

 両理論の間の関係は,実際はクーンらが考えたような平板なものではない.古い理論から新しい理論へは確かに断絶がある.しかし,新しい理論においては古い理論が理解できるのである.すなわち,古い理論は新しい理論において初めてその限界が明らかにされ,それがいかにして不整合を生じたのかが理解できる.私はこの関係を「通約不可能性」と呼んだ.私はこの関係を科学史における基本理論の変化の考察から抽出したが,あとになって,この関係は「非還元的層構造」として,きわめて重要かつ一般的な意味のあることがわかった[3]

 新理論の形成に関する以上のようなメカニズムは,もちろん自然科学の領域に限られるものではない.本稿では,ルイ・アルチュセールの新理論形成の理論を取り上げ,私の提案するメカニズムとの関連を考察したい.実は,私はすでに別の所[4]で,「若きマルクスの問題」として,「青年期」から「成熟期」,さらには「円熟期」に至るマルクスの思想変化について,アルチュセールの論考(『甦るマルクス』)[5]を紹介したことがある.そこに描かれたマルクスの姿(思想状況およびそれとの理論的格闘の様子)はそのまま,私が科学史において見出した発見者たちを彷彿させるものであった.本稿では,主としてアルチュセールの『資本論を読む』[6]にもとづき,マルクスにおける新しい歴史的=経済的理論(『資本論』)の形成について具体的に議論する.

 

2.「労働力」

 アルチュセールは『資本論』(フランス語版)第十九章から,次の部分を引用する[7].ここでマルクスは古典経済学について論じている:

a)「古典経済学は,あらかじめ吟味することなしに,日常生活から《労働の価格》範疇を借りたために,後になって,この価格がどう決定されるのかを自問した.他のすべての商品にとってと同様に労働にとっても,供給と需要が特定量の上方または下方への市場価格の変動以外のものは説明しないことを,古典経済学はただちに気づいた.供給と需要が均衡するやいなや,需給が引き起こした価格変動は停止するが,供給と需要の効果もまたすべてそこで停止する.需給の均衡状態では,労働の価格はもはや需給の働きには依存せず,したがってあたかも需給が存在していなかったかのように規定されなくてはならない.このように,市場価格の重心であるこの価格は,科学的分析の真実の対象になった.」

b)「さらにひとは,数年の期間を考察し,高低の交替運動が連続的相殺作用によって帰着する平均を計算することによっても,同じ結果に至るであろう.このようにして,市場価格の変動そのもののなかで明確な姿を見せて,市場価格の内在的な規制因になる平均価格,つまり多少とも恒常的な大きさが見いだされる.この平均価格,フィジオクラート〔重農主義者〕の《必要価格》―アダム・スミスの《自然価格》―は,他のすべての商品にとってと同じく,労働にとっても,貨幣によって表現される価値でしかありえない.スミスは言う,《そのとき,商品はちょうど価値どおりに売られる》と.」

c)「古典経済学は,このような仕方で,労働の偶然的価格からその現実的価値まで遡ったと信じた.ついでこの価値を,労働者の維持と再生産に必要な生活手段の価値によって規定した.このように知らぬ間に古典経済学は地盤を変更して,それまでその探究の外見的対象であった労働の価値を,労働力の価値をもって置き換える.この力は労働者の人格のなかにしか存在せず,機械がその働きから区別されるのと同様に,その機能である労働から区別される.したがって,分析の歩みは必然的に労働の市場価格からその必要価格と価値へと至ったばかりでなく,いわゆる労働の価値を労働力の価値に解消させたので,労働の価値は今後は労働力の価値の現象形態としてのみ扱われなくてはならなかった.したがって,分析が到達した結果は,出発点で提示された問題を解決するのではなくてその問題の用語を完全に変更することであった.」

d)「古典経済学は,労働の当座の価格とその価値との差異,労働の価値と諸商品の価値,利潤率,等々との関係ばかりに関心を寄せていたので,この取り違え(quiproquo)に決して気づくことはなかった.古典経済学が価値一般の分析を深めれば深めるほど,いわゆる労働の価値は経済学を解きがたい矛盾のなかに巻き込んでいった.」

 上の引用文c)にある「労働力」という用語は,マルクス経済学の鍵概念のひとつである.マルクスはこれを,古典経済学のなかに読み取っている.

 古典経済学の最初の問いは,「労働の価値とは何か」というものであった〔a〕.これに対し,「労働の価値は労働者の維持と再生産に必要な生活手段の価値に等しい」〔c〕 というのが答えである.アルチュセールは,「この答えは,提起されなかったという特異な欠点を示すひとつの問いに対する正当な答え」であって,「彼〔マルクス〕はこの答の奇妙な特性についてむずむずする目と呼びたいようなものをもって」いると指摘する[8]

 この答えのなかには空白が存在する.「労働の価値は労働者の維持と再生産に必要な生活手段の価値に等しい」といっても,労働者は労働ではない.すなわち,「機械がその働きから区別されるのと同様に,〔労働者は〕その機能である労働から区別される」〔c〕.そして,経営者が買うのは労働者ではなく,その労働である.アルチュセールは,「“労働”という用語のレベルに欠如した何ものかがあり,この欠如は厳密には文章全体のなかで用語そのものによって指示されている」とする.すなわち,この空白をわれわれに示すのは古典派のテキスト自身である.マルクスは,この空虚に対して「労働力」の概念を導入し,答えの連続性を確立=再建したのである.「労働力の価値は労働者の維持と再生産に必要な生活手段の価値に等しい」.

 マルクスは「〔古典経済学の〕分析が到達した結果は,出発点で提示された問題を解決するのではなくて,その問題の用語を完全に変更することであった」と書いている〔c〕.古典経済学の最初の問いは,「労働の価値とは何か」であった.しかし,答えから,《逆算》した問いは,「労働力の価値とは何か」であったということになる.

 労働を労働力に置き換えることによって,マルクスはリカード学派が沈没するもとになった諸困難のひとつを一挙に解決した.その困難とは,資本と労働の相互交換と,労働による価値決定というリカードの法則を調和させることが不可能であるということであった[9].引用文d)における「解きがたい矛盾」というのは,これに関連するものであろう.

     *

 上に出現した「テキストにおける空白」という概念は重要である.アルチュセールが指摘するように,この空白(欠如)をわれわれに示すのは古典派のテキストそれ自身である.そして,その空白を読み取ったのが,発見者=マルクスである.われわれは発見者におけるこのような特性に注意すべきである.

 たとえばアインシュタインは,特殊相対性理論の最初の論文の冒頭において,「マクスウエルの電気力学は,現在の普通の解釈によれば,運動物体に適用した場合現象に固有とは思われない非対称を導くことが知られている」〔下線引用者〕と書いている[10].これは,ニュートン力学の方程式はガリレイ変換に対して不変であるのに,マクスウエル方程式では形が変化してしまうことに対応するのであるが,私はアインシュタイン以前にこの「非対称」(対称性の欠如)が問題にされたという例を知らない.これはアインシタインが発見したものである.そして彼の特殊相対性理論は,この「非対称」の解消をめざすものであった.

 

3.「剰余価値」

 剰余価値の概念はマルクスの経済理論の核心である.これこそが理論の革命的性格を表現するものである.しかしながら,マルクスによれば,古典経済学のスミスやリカードはいつも利潤,利子,地代の形式をとった「剰余価値」を分析した.ただ,剰余価値は決してその名前で呼ばれることはなく,いつも別の名前で偽装されていた.すなわち剰余価値は,利潤,利子,地代といった「実在形式」から区別された「一般性」では把握されなかった.マルクスは,古典経済学における剰余価値とその実在形式との混同を,簡単に訂正できる言葉上の不十分さとみなしているかのようである[11]

 前節でみたように,マルクスの思考のベースは古典経済学であり,彼はそこにおける諸概念・諸道具に精通し,それに馴染んでいる.そのため彼は事実上,古典経済学の遺産継承者,しかもかなり裕福な継承者でしかないかのようである[12].古典経済学とマルクスの対象の連続性というこの仮説は,マルクスの論敵だけがつくったのではなく,マルクス自身の明示的言説からも生まれたものである[13]

 しかしながら,古典経済学に欠けていたのは,「剰余価値」という単なる言葉ではない.それはひとつの理論的概念なのであって,新しい対象の出現と関連する新しい概念的体系を代理するものである[14].それは資本主義的生産関係の事実を経済的事実自体のなかに表出する.その本性は,生産過程をその展開と実在の全体にわたって支配する構造そのものである[15].マルクスは古典経済学をベースとした理論的実践により,古典経済学からは切断された新しい理論を形成したのである.

 古典経済学に対するマルクスの新しさを擁護し,エンゲルスは『資本論』第二巻への序文におもしろいことを書いている[16].簡略化して紹介すれば,プリーストリー,そしてそのあとシェーレは酸素をつくり出したが,彼らはそれが何であるかわからず,それぞれ「脱燃素気体」あるいは「火の空気」などと名づけた.ラヴォアジエはこの新しい事実をもとに,燃素化学を全面的な吟味にさらし,「燃素の形式では頭で立っていた化学全体を足で立つようにした」.すなわち,「剰余価値の理論に関して,マルクスと先行者たちとの関係は,ラヴォアジエのプリーストリーとシェーレに対する関係に等しい」というのがエンゲルスの主張である.

 私としては,たとえば,一般相対性理論における「等価仮説」が思い起こされる.「慣性質量」と「重力質量」はニュートン力学において定義される二つの独立な物理量である.また,それらが実験的に等価であることはすでに知られていた.アインシュタインは,この等価性は「つねに厳密に成立する自然法則であり,これは理論物理学の基礎として当然,公式化されるべきものである」と確信し,一般相対性理論の構築に向かったのである[17].すなわちアインシュタインは,(上のマルクスの表現を借りれば)慣性質量と重力質量という「実在形式」を「一般性」で把握したのである.

 

4.理論的実践の過程

 アルチュセールは,「理論的実践」なるものの過程を考察する.彼のいう実践とは一般に,所定の素材を所定の生産物へ変化させるいっさいの過程のことである.ここでは,所定の生産手段を用いた所定の人間労働がおこなわれる[18].アルチュセールによれば[19],理論的実践における素材にあたるのが「第一の一般性」(G-I)と呼ばれるものである.このG-Iに働きかけ,それを生産物である「第三の一般性」(G-III)に変えるのは「第二の一般性」(G-II)の仕事である.G-IIは一般には労働手段および労働者から構成される.理論的実践の場合では,独特の「問題意識」を有する科学者(私のいう「発見者」)がG-IIにあたる[20]

 ここでG-I,G-II,G-IIIとして「一般性G」が強調されているのは,「科学的認識は現実の具体的なものからはじまる」という《イデオロギー的思弁》を排除するためである.科学はつねに「一般的なもの」に働きかける.ある科学がつくり出されるとき,科学は過去の理論的実践によってすでに練りあげられた「事実」(これは一般的なものである)の批判を通じて,それ固有の新しい事実を練りあげるのである.新しい事実を練りあげることは,同時に新しい理論を練りあげることである.

 この理論的実践の過程から明らかなことは,G-I とG-IIIの間には決して本質的な同一性はないということである.これは,両者の間に断絶がある場合(「革命」の場合)はもちろん,G-IIIがG-Iを包含する場合(私のいわゆる[21]「革新」の場合)でも同様で,ここにはつねに現実の変化が存在する.理論的実践がG-I をG-IIIに変えることであばき出し除去するのが,G-I のテキストにおける空白や「一般性」の欠如である.

 

5.おわりに

 アルチュセールがマルクスのテキストから読み解く理論革命は,本稿の「はじめに」に要約した私の「理論変化の理論」の枠内に位置づけられることが明白である.また,マルクスによる古典経済学における「空白」や「欠如」の発見は,本ブログ記事「新理論の形成:首尾一貫性の追求,欠如,矛盾,そして弁証法」に記述されたプロセスそのものにあたる.さらに,アルチュセールが描く理論的実践の構造は,(同じく「はじめに」で言及した)「非還元的層構造」のひとつの場合として,サルトルが『方法の問題』(1960)において論じた「行動の構造」[22]と完全に一致する.

 また,本稿では触れなかったが,マルクス主義においては支配的構造と従属的構造という概念が存在する.すなわち,法的=政治的ならびにイデオロギー的上部構造は社会の経済的土台である下部構造により規定される.ただし,両者は相対的に独立した関係にある.このとき,支配的構造による従属的構造の規定はどのように思考することができるのかという「構造因果性の問題」[23]が存在する.実はこれもサルトルの『方法の問題』において「意味のピラミッド」としてすでに論じられたものである.アルチュセールは比較的にサルトルの近くにおり,また著書においてもしばしば,敬意を込めてサルトルを批判しているが,ここに私が指摘したことについてはいっさいの言及がない.他の人なら知らず,アルチュセールほどの哲学者においてなぜこのようなことが起きるのか.私にはまったく理解不能である.

 

唐木田健一


[1] 唐木田健一「“パラダイム転換”からの転換の必要について」『化学史研究』2001,171-174頁およびそこでの引用文献.さらには,本ブログ記事,渡辺慧教授の論文「求む:理論変化の歴史的・動的見解」に答える.

[2] Thomas S. Kuhn, The Structure of Scientific Revolutions (1962, 1970)/中山茂訳『科学革命の構造』(みすず書房,1971).

[3] この関係は,サルトルの「行動の構造(投企)」あるいは「意味のピラミッド」,またマイケル・ポラニーの「非還元的層構造」といわれるものに対応する.それは,人間(一般的には生命)およびその生み出すものの理解を可能にする.唐木田『理論の創造と創造の理論』(朝倉書店,1995),3章.

[4] 注3の文献,4章.

[5] Louis Althusser, Pour Marx I, II (1965)/河野健二・田村俶訳『甦るマルクスI, II』(人文書院,1968).以下の引用においては,『甦るマルクスI』などとして,日本語版での頁を示す.

[6] Louis Althusser et al., Lire le Capital I, II (1965)/今村仁司訳『資本論を読む(上)(中)(下)』(筑摩書房,1996-1997).以下の引用においては,『資本論を読む(上)』などとして,日本語版での頁を示す.なお,本稿ではアルチュセールの論文「序文」〔『資本論を読む(上)』〕および「『資本論』の対象」〔『資本論を読む(中)』〕を対象とした.

[7] 『資本論を読む(上)』,32-33頁.『資本論』の文章はアルチュセール(およびその日本語訳)による.傍点(本ブログでは下線)はアルチュセールによる.各引用文冒頭のa, b, c …は本稿の著者による付加.〔 〕も同様.この引用部分「労働力の価値または価格の労賃への転化」は,ドイツ語エンゲルス版(第一部第四版)では(第十九章ではなく)第十七章である.

[8] 『資本論を読む(上)』,36-39頁.以下の二つの段落はこの文献による.

[9] 『資本論を読む(中)』,178頁.

[10] 唐木田『原論文で学ぶ アインシュタインの相対性理論』(ちくま学芸文庫,2012).

[11] 『資本論を読む(中)』,52頁.

[12] 『資本論を読む(中)』,41頁.これは私がかつて(コペルニクス,プランク,アインシュタインらを「擁護」して)「革命家の《保守性》」と呼んだ事態である:注3の文献,1章の15.

[13] 『資本論を読む(中)』,43-44頁.

[14] 『資本論を読む(中)』,166頁.

[15] 『資本論を読む(中)』,237頁.

[16] 『資本論を読む(中)』,174-179頁.

[17] 唐木田『アインシュタインの物理学革命―理論はいかにして生まれたのか』(日本評論社,2018),III-4章.

[18] 『甦るマルクスII』,61頁.

[19] 『甦るマルクスII』,85-87頁.以下,本節の終わりまではこの文献による.

[20] アルチュセールは「仮に人間を考慮にいれない場合」(『甦るマルクスII』,87頁)としてG-IIを論じている.これは彼において非常に重要な「問題意識」の概念を強調したいためと「一般性」という用語にこだわったためと推測されるが,ここでは人間を含めて考えたほうがよいであろう.人間がいなければ生産はできない.また,「問題意識」は具体的人間がになうものである.

[21] 注1の文献.

[22] 注3の文献.

[23] 『資本論を読む(中)』,248-249頁.


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