カルバヨグから南へバスで2時間ほどで、パラナスという町に着きます。
第2次大戦当時、このパラナスはサマールで最大の激戦地でした。
1944年10月20日、マッカーサがレイテ島に上陸。それから2ケ月もしない12月12日には、このパラナスで、レイテから北進してきた米軍と、迎え撃つ京都・陸軍第16師団第5中隊との間で壮絶な戦闘が行われました。米軍のすさまじい砲撃に、日本軍は塹壕から一歩も出ることもできず、戦死者が相次いだといいます。(サマールの戦記には、このパラナスの戦闘で、ある下士官が、下半身を全て吹き飛ばされたにもかかわらず、それでも「君が代」を全て歌い終えてから事切れたという戦意高揚の逸話が残っています。)
第5中隊は、結局、20名ほどの犠牲者と多くの負傷者を出して壊滅。その後、サマール各地から集結した1000名ほどの部隊も、翌年1月、カルバヨグを前にして米軍の攻勢のため、山中へ逃げ込まざるを得ませんでした。そして、終戦後の9月まで、サマールの鬱蒼とした熱帯雨林の山岳部を、同僚の人肉を食べるというような飢餓の彷徨を強いられたのです。投降した際には、わずか300人ほどに減っていたといいます。(この経過については、拙著『フィリピン・幸せの島サマール』をご一読ください。)
パラナスに来たのは、いくつかの目的があったのです。
まず、京都・同志社大学横のバザール・カフェでフィリピン料理を担当されているサマール出身のアイバさんのお爺さんを訪ねることでした。アイバさんは、私や、サマール会(JAPSAM)の学生らの、ワライ語の先生でもある肝っ玉母さん。京都でもう15年以上も暮らしておられますが、その間、一度も故郷には帰っておられません。
バスを降りて近くの食堂で聞くと、すぐにお爺さんの家が分かりました。ピリモン・カバニエロさん。もう83歳とのことですが、今も元気で田んぼで働いておられるようです。我々の突然の訪問には驚かれたようですが、非常に喜んでいただき、アイバさんへの手紙を託されました。
ピリモンさんに、戦争当時の話を聞いたところ、近くの日本軍のキャンプがあったところに碑が建っているとのことでした。すぐに案内してもらいました。
東サマールへの三叉路を少し北へ行った右手の丘に、元垣6554部隊の慰霊碑がありました。やはり、私が2001年にパラナスに来たときに訪ねた碑でした。「垣兵団」とは、京都の旧陸軍第16師団のことです。
『悲運の京都兵団証言録 防人の詩』(京都新聞社)によると、ちょうどこの辺りは、第5中隊の岡田小隊が塹壕を掘って最前線で米軍に対峙したところです。前述の、下半身を全て吹き飛ばされながらも「君が代」を歌い終えてから死んだという下士官がいた塹壕もこの付近でしょうか。周囲はバナナの木などが茂った静かな丘陵地帯で、61年前、地形も変わってしまうような凄まじい砲撃の戦闘があったとはとても信じられません。
その後、強い雨の中をパラナスの小学校に向かいました。
京都の伊藤さんが建てられたお地蔵さんも、きちんと管理されていました。
パラナス訪問のもうひとつの目的は、ここでもう50年以上も住んでおられる沖縄出身のよし子さんを4年ぶりに訪ねることです。
よし子さんは、居間にベッドを置いて横になっておられましたが、すぐに起き上がって我々を迎えてくれました。4年前よりはむしろお元気そうで安心しました。来年の3月にちょうど80歳になられます。
彼女も、レイテの秀子さんと同じように沖縄出身です。24歳のときに、基地で働いていたババルコンさんと結婚。沖縄に10年ほど一緒に住んでいましたが、1959年に夫の故郷サマールに来たそうです。18年前に夫を亡くされましたが、息子さんがパラナスの町長を3期務められ、今はその奥さんが町長というような家系で、何不自由なく暮らしておられるようです。彼女も、もう日本に帰るつもりはないとのことでした。
それにしても、レイテの秀子さん、トミ子さん、トヨ子さん、そしてこのサマールのよし子さん、皆、沖縄出身という事実には驚きます。フィリピン全体には、おそらくかなりの数の沖縄出身女性が暮らしておられるにちがいありません。戦前、戦後と続く、フィリピンと沖縄のこうした関係をいずれじっくりと調べなおしてみたいと思っています。
第2次大戦当時、このパラナスはサマールで最大の激戦地でした。
1944年10月20日、マッカーサがレイテ島に上陸。それから2ケ月もしない12月12日には、このパラナスで、レイテから北進してきた米軍と、迎え撃つ京都・陸軍第16師団第5中隊との間で壮絶な戦闘が行われました。米軍のすさまじい砲撃に、日本軍は塹壕から一歩も出ることもできず、戦死者が相次いだといいます。(サマールの戦記には、このパラナスの戦闘で、ある下士官が、下半身を全て吹き飛ばされたにもかかわらず、それでも「君が代」を全て歌い終えてから事切れたという戦意高揚の逸話が残っています。)
第5中隊は、結局、20名ほどの犠牲者と多くの負傷者を出して壊滅。その後、サマール各地から集結した1000名ほどの部隊も、翌年1月、カルバヨグを前にして米軍の攻勢のため、山中へ逃げ込まざるを得ませんでした。そして、終戦後の9月まで、サマールの鬱蒼とした熱帯雨林の山岳部を、同僚の人肉を食べるというような飢餓の彷徨を強いられたのです。投降した際には、わずか300人ほどに減っていたといいます。(この経過については、拙著『フィリピン・幸せの島サマール』をご一読ください。)
パラナスに来たのは、いくつかの目的があったのです。
まず、京都・同志社大学横のバザール・カフェでフィリピン料理を担当されているサマール出身のアイバさんのお爺さんを訪ねることでした。アイバさんは、私や、サマール会(JAPSAM)の学生らの、ワライ語の先生でもある肝っ玉母さん。京都でもう15年以上も暮らしておられますが、その間、一度も故郷には帰っておられません。
バスを降りて近くの食堂で聞くと、すぐにお爺さんの家が分かりました。ピリモン・カバニエロさん。もう83歳とのことですが、今も元気で田んぼで働いておられるようです。我々の突然の訪問には驚かれたようですが、非常に喜んでいただき、アイバさんへの手紙を託されました。
ピリモンさんに、戦争当時の話を聞いたところ、近くの日本軍のキャンプがあったところに碑が建っているとのことでした。すぐに案内してもらいました。
東サマールへの三叉路を少し北へ行った右手の丘に、元垣6554部隊の慰霊碑がありました。やはり、私が2001年にパラナスに来たときに訪ねた碑でした。「垣兵団」とは、京都の旧陸軍第16師団のことです。
『悲運の京都兵団証言録 防人の詩』(京都新聞社)によると、ちょうどこの辺りは、第5中隊の岡田小隊が塹壕を掘って最前線で米軍に対峙したところです。前述の、下半身を全て吹き飛ばされながらも「君が代」を歌い終えてから死んだという下士官がいた塹壕もこの付近でしょうか。周囲はバナナの木などが茂った静かな丘陵地帯で、61年前、地形も変わってしまうような凄まじい砲撃の戦闘があったとはとても信じられません。
その後、強い雨の中をパラナスの小学校に向かいました。
京都の伊藤さんが建てられたお地蔵さんも、きちんと管理されていました。
パラナス訪問のもうひとつの目的は、ここでもう50年以上も住んでおられる沖縄出身のよし子さんを4年ぶりに訪ねることです。
よし子さんは、居間にベッドを置いて横になっておられましたが、すぐに起き上がって我々を迎えてくれました。4年前よりはむしろお元気そうで安心しました。来年の3月にちょうど80歳になられます。
彼女も、レイテの秀子さんと同じように沖縄出身です。24歳のときに、基地で働いていたババルコンさんと結婚。沖縄に10年ほど一緒に住んでいましたが、1959年に夫の故郷サマールに来たそうです。18年前に夫を亡くされましたが、息子さんがパラナスの町長を3期務められ、今はその奥さんが町長というような家系で、何不自由なく暮らしておられるようです。彼女も、もう日本に帰るつもりはないとのことでした。
それにしても、レイテの秀子さん、トミ子さん、トヨ子さん、そしてこのサマールのよし子さん、皆、沖縄出身という事実には驚きます。フィリピン全体には、おそらくかなりの数の沖縄出身女性が暮らしておられるにちがいありません。戦前、戦後と続く、フィリピンと沖縄のこうした関係をいずれじっくりと調べなおしてみたいと思っています。