サマール日記(ブログ版)

チョイさんのフィリピン・サマール島での滞在記録

とうとうあの海一望の宿舎を引き上げた!

2011年09月19日 | Weblog

  (私のサマールの宿舎・シーサイドインの屋上は絶好のビヤガーデンだった)

 バイオガス事業を始めた次の年(2005年)の秋、シーサイド・インにできた新築のアパートに引っ越した。窓からは海が一望、朝陽から夕陽まで楽しめる最高の部屋だった。波の音を聞きながら寝つき、深夜に起きると、春には、南十字星が海の上に輝いていた。

  

 最近は、もう年に3~4回しかサマールに行けないので、その度に部屋を引き上げようと思うのだが、この素晴らしい海を見ると、いつもその思いは挫折。とうとう6年間も借り続けてきた。

 今回、夏に体調を悪くしたこともあって、今回、とうとう部屋を引き上げた。今、片づけないと、それこそどうなるか分らないという思いもあった。京都からの友人が荷物を持って帰ってくれたのも助かった。

 次のサマール行からはホテル住まいとなる。以前と違い、カルバヨグにもそこそこの値段で泊まれる快適なホテルがいくつかできているのでもう不自由はしない。それに、どこに泊まっても、時々は、この屋上に上がらせてもらい、夕陽を見ながらビールを飲むことをできるだろう。

    (最後の夜、屋上でしみじみとビールを飲む)


ウィ市長のお墓参りと家族への慰問---そして分った驚く事実

2011年09月18日 | Weblog

 

                            (ウィ市長のお墓)

 今回のサマール行でまずしたかったことは、殺されたウイ市長のお墓参りと、家族への弔問だった。私とウィの関係、そして、ウィが殺された時の状況については、このブログの本年5月1日版を見てほしい。

  ・フィリピン・サマールから衝撃の悲報--ウィ市長が殺されてしまった(2011.5.01)

  ・ウィ市長が殺された状況が判明(2011.5.3) 

 フィエスタの日(9月8日)の夕刻、お墓参りに行くことができた。まるで御殿のような立派なお墓の建物に、彼は眠っていた。棺の上に飾られた写真を見ながら、1994年以来の彼とのつきあいを思い出し、さすがに胸が熱くなった。こんなに早く殺されてしまって---、かわいそうで仕方がない。

 翌日、市役所に息子のジムジムを訪ねた。ウィ市長が殺されたため、アキノ副市長が市長となり、市会議員のトップだった彼は副市長に昇格していた。

  (副市長室でジムジムと。後ろは、ウィの大きな肖像画)

 私は、1995年当時、しばらくウィの家に泊めてもらっていたことがある。当時、ジムジムや長女のアイカは、まだやんちゃでかわいい小学生だった。副市長となったジムジムは、懐かしそうに私を迎えてくれた。彼は、まだ20代のはずだが、すっかり太って、政治家としての風格もついてきている。

 部屋の壁には、ウィの知事選に向けたポスターが貼ってあった。

 

   (ウイと副知事候補のネス)        (知事選には、ウィに代わり、娘のアイカが立つ)

 副知事候補のネスは、ウィが殺された際、彼女も右腕を負傷している。彼女のポスターの経歴などを見ていて、あっと驚いた。サマールのパラナスという町、そしてババルコンという名前には憶えがある。あの、沖縄出身でパラナスに住んでいるよし子さんの息子は長くパラナスの町長をしていたはずだ。あるいは、ネスは、よし子さんの孫ではないのか?

 ジムジムに、ネスのお婆さんは、日本人ではないかと聞いてみたが、彼は知らないという。そこで、パラナスで2回、日本人のお婆さんを訪ねた際の話をすると、彼は、すぐにネスに電話してくれた。やはり、そうだった。彼女はよし子さんのお孫さんだった。

    

    もう50年以上もサマールに住むよし子さん(左は、2001年9月。右は、2005年12月)

 よし子さんは、1926年生まれ。戦後、米軍と一緒に沖縄に来たババルコンさんと結婚し、10年ほど沖縄に住んでいたが、1959年にサマールにやってきた方だ。沖縄には1度帰っただけで、ずっとサマールで暮らされている。

 あのよし子さんの孫娘が、ウィと一緒に副知事に立候補し、ウィが殺された後は、ウィの娘のアイカとコンビを組んでいるのだ。それにしてもなんという偶然だろう。

 

  ジムジムはすでに政治の世界で生きているが、ウィの娘のアイカがまさか政治家を志すとは思わなかった。彼女もそんなつもりは全くなかったという。ところが、銃撃を受け、タクロバンの病院に運ばれたウィが、意識を失う直前、アイカに電話をし、後のことを頼んだのだという。アイカも、父親の最後の言葉を聞き、その遺志を継ごうと決意したのだ。

 それにしても、サマールで政治家として生きていくことはなんと大変なことだろう。ジムジムとアイカの今後の政治家としての人生が、平穏なものであることを願うばかりだ。


ライニングセンターが完成した! 盛大な完成式典

2011年09月16日 | Weblog

               (完成式典を終えて。Yさんを中心に、いっぱいの笑顔があふれる)

 9月7日、カルバヨグのイーパオというバランガイ(村)で、子どもたちのためのラーニングセンター(LC)の完成式典が行われた。ここでは、京都サマール友好協会が、1995年からLCを運営してきたが、建物が老朽化し、どうすればいいのか、途方に暮れていたところだった。

 そんなとき、JAPSAMのOB、HさんからYさんを紹介してもらった。今年1月、YさんとHさんはサマールに来られ、このLCの現状を見て、新築のための費用を全額寄付していただけることになったのだ。

 (すっかり老朽化していた以前のラーニングセンター(本年1月撮影)) 

 完成式典に先立って、神父さんに来てもらってBlessingが行われた。

                (Yさんによるテープカット)

 

 式典には、ちょうどこの日にやってきたJAPSAMの学生ら。福岡のYさん、Hさん。京都のMさん、Hさん、そしてレイテのタクロバンから来られたOさんらも参加され、盛大に行われた。

 (9月12日からは、シワックの授業が始まった。SEの授業は19日からの予定)

 建物は延床面積160㎡の2階建て。1F、2Fにそれぞれ2つずつの部屋がある。1Fの一室は、以前から続いているシワックのLC。それ以外は、ベイビーたちの就学前教育施設(SE)が使用する。

 また、2Fの1室は、地元の住民組織らが、セミナーやミーティングを開いたりすることもできる。周囲は、ニッパヤシの家ばかりなので、災害時の避難施設にもなるだろう。

 このLCは、Yさんの希望で、「テッカ ラーニングセンター」と名付けれた。Yさんと、亡くなられたYさんのおつれあいの名前をあわせたものだという。 

 Yさん、本当にありがとうございました。


Hさん、サマールから帰国

2011年06月18日 | Weblog

   

 京都サマール友好協会が、1995年以来運営してきたイーパオのラーニングセンターが老朽化し、ほとんど崩れ落ちそうになっていて困っていたのだが、今回、福岡のYさんのご厚意で、全面改築ができることになった。3月以来、その工事がすすんでいる。

 この6月、Yさんを紹介してくれた、JAPSAMの初代メンバーであるH君が、工事の進捗状況を見にサマールに行ってくれた。今日(18日)、彼から、帰国したと連絡があった。今現在で、工事はほぼ7割ほど完成しているとのこと。ただ、当初は、7月中旬に完成式典を予定し、私も現地に行く予定をしていたのだが、運動場などの関連工事も全て終了し、子どもたちが遊びまわっているときにYさんにも来てもらって式典をやったほうがいいだろうということになったようだ。

 9月上旬のフィエスタの頃がいいだろうということだが、JAPSAMのこの夏のワークは8月中旬の予定らしいので、私の次回サマール行を何時にするか、今、考えている。


ウイ市長暗殺事件のその後(5日付のマニラ新聞)

2011年05月05日 | Weblog

以下、3月5日付のマニラ新聞です。

「ビサヤ地方サマール州ヒナバガン町で同州カルバヨグ市のウイ市長が拳銃で左胸を撃たれ死亡し、同州のババルコン州議も負傷した事件で、国家警察東ビサヤ地域犯罪捜査隊は4日、目撃者の情報から容疑者の似顔絵を複数作成し公開した。またヒナバガン町のアバルラティゲ町長は、犯人特定、逮捕につながる有力情報提供者に10万ペソの報奨金贈与を決めた。
 うち1人の容疑者は、身長150~160センチ、年齢35~40歳ほどの男性だという。
 同市長らが出席していた同町のイベント開始前に、自治体庁舎にイベントのゲスト名簿を求め、拒否され憤慨した男性や、事件発生直後にイベント会場から逃走する黒いジャケット姿の不審な男性3人組などが目撃されている。
 国家警察は情報提供を呼び掛けている。
 ウイ市長は4月30日夜、同庁でフィエスタ関連の行事に参加中、拳銃で撃たれ死亡した。同市長は2010年5月の就任後、タン同州知事の不正疑惑を公然と避難。リコール運動も主導していた。」


ウイ市長が殺された状況が判明

2011年05月03日 | Weblog

 

       (1994年、初めて会ったウイ市長(右端))

 4月30日の夜、フィリピン・サマールのウイ市長が殺されてしまった。

 このニュースを一昨日にブログに書いて以来、多くの方から、問合せをいただいた。私と一緒にサマールに行き、ウイ市長を知っている人は多い。 彼とは、1994年以来のつきあいだから、残念でならない。今すぐにでも、サマールに飛んで行き、彼の葬儀に参列したいが、今は、どうしても日本を離れることができない。

 その後、彼が殺されたときの状況が次第に分ってきた。

 彼は、カルバヨグ市長の後、3期続けた国会議員から、昨年、再度、市長に当選して以来、タン州知事の不正疑惑を追及し、リコール運動をすすめていた。昨年の秋頃からは、リコールが成立した場合、ウイが知事選に立候補するというウワサが公然と言われていた。ただ、現在、州知事のタンは、もともとは、リベラルパーティの同志で、私も、何回か、ウイの家で会ったことがある。それが、今では、血みどろの争いに突入しているのだから、フィリピンの政治は、まるで分らない。

 その日、ウイは、カルバヨグの南方の町で、副知事に立候補する予定の州議と一緒にフィエスタに参加している時、突然、射殺されたようだ。犯人は逃げたというが、彼は、いつも、多くのガードマンに囲まれていたから、何故、そんなに容易く撃たれてしまったのか、また、犯人を何故、逃がしてしまったのか、全く信じられない。

 いずれにしろ、これから報復が始まり、サマールの治安が悪くなることが心配でならない。

****************

参考までに、以下、2日のマニラ新聞を転載する。

 「 ビサヤ地方サマール州ヒナバガン町で4月30日夜、同州カルバヨグ市のウイ市長が拳銃で左胸を撃たれて死亡した。近くにいた同州のババルコン州議も銃弾で右腕を負傷した。
 ウイ市長は2010年5月の就任後、タン同州知事の不正疑惑を公然と非難。リコール運動も主導し、やり直し知事選が実現した場合、出馬の予定だった。
 同市長は政権与党自由党(LP)の所属。アキノ大統領は1日、バカルゾ国家警察長官に「迅速な逮捕と(報復を含めた)暴力事件の再発防止」を指示した。
 タン知事は、最大野党ラカス・カンピCMD所属。
 国家警察の調べでは、ウイ市長とババルコン州議は事件当時、ヒナバガン町でフィエスタ関連の行事に参加中だった。同日午後9時半ごろ、拳銃で武装した男性が近づき、2人に向けて発砲した。男性は走って逃走したという。
 ウイ市長はレイテ州タクロバン市内の病院へ運ばれたが、1日午前1時ごろ、死亡が確認された。」

 

また、地元紙は、彼の死後の状況を次のように伝えている。

Leyte Samar Daily Express 2011.5.3


思いはつきない ウイ市長との17年

2011年05月01日 | Weblog

                         (カルバヨグのウイ市長と (1996年 市長室で))

 朝、メールを開くと、サマールのレイから、とんでもない衝撃の知らせが届いていた。カルバヨグのウイ市長が昨夜(4月30日)、射殺されたというのだ。あまりのことにもう言葉もない。

 私は、1994年に初めてフィリピン・サマールに行ったのだが、彼とはその時以来の付き合いが続いていた。彼は、1993年から3期(9年)カルバヨグ市長を務め、その後、3期、国会議員。そして、昨年、再び、カルバヨグ市長に戻ったばかりだった。(フィリピンでは、政治家のポストは3期までと決められている。) 現在、確か、59歳のはずだ。

 彼との、この17年間の付き合いの思い出はつきない。

 1995年当時、私は京都市の職員だったが、ウイ市長の招待により、カルバヨグ市役所の都市計画・開発局に1年半、派遣された。その際、彼は、なかなか京都市の決定が出ないことに業を煮やし、なんと、訪日して京都市を表敬訪問し、直接、要請しくれたのだ。彼のそんな熱意もあって、私のカルバヨグ派遣は実現したのだ。

 京都では、私の家にも来てくれたし、当時、私がカルバヨグに行った際には、彼の家に長く泊めてもらっていた。国会議員になってからは、さすがに彼も忙しく、また、ほとんどマニラにいたので、なかなか会えなかったが、フィエスタの時など、よく、JAPSAMの学生などをつれて、彼の家を訪ねていた。当時から、深刻な政争が続き、彼の家もきわめて厳重な警戒態勢がとられていたが、私は、いつもフリーパスで、彼の個室まで、ずかずかと入って行っていた。彼は、酒を飲まなかったが、私が行くと、いつもボディガードにビールを買いに走らせ、カニやエビをご馳走してくれた。

 そんな彼が殺されてしまった。ああ、無念でならない。 

 ただ、心配は、リベラルパーティのリーダーだったウイが殺されたことより、報復が始まるのではないかということだ。

 

 (「謝罪と友好の碑」の除幕式。ウイ市長は左から3人目 (1995年12月))

 (左端は、娘のジェシカ。(2001年9月))

 (私のバイオガス事業の完成記念式典には、忙しい中、わざわざマニラから戻って参加してくれた。(2006年2月))

 (最近も、マニラとの行き来の際、よく一緒になった。(2009年1月))

 


<速報>カルバヨグ市のウイ市長が殺された!

2011年05月01日 | Weblog

 今朝(5月1日)、サマールのレイからとんでもないメールが入ってきました。

 1994年以来、世話になってきたカルバヨグ市のウイ市長が、昨夜、殺されたというのです。

 「 News today in Calbayog is...INING UY was killed last night in Hinabangan..municipal before Calbiga...it was a shocking news we got today...」

  詳しいことはまだ分りませんが、本当にショッキングなニュースです。

 私は、彼が、以前、カルバヨグ市長だったとき、彼の招きで、1年半ほど、カルバヨグ市の都市計画・開発局で働いていまいた。彼は、1995年、来日、私の家にも来てくれたことがあります。

 その後、国会議員になり、3期の任期を終え、昨年から、再度、市長に返り咲いたばかりでした。

 また、詳しい情報が来たら、お知らせします。


やっと見えた南十字星(フィリピン滞在・最終日)

2011年03月05日 | Weblog

 深夜、トイレに起きて海を眺めると、やはり南十字星が出ていた。

 この辺りは、北緯12度。春先には南十字星がよく見える。ここ数日、天気が悪くて星が出なかったが、やっと、暗い海の上に、少し左に傾いた十字が見えた。今夜は、天の川もくっきりと出ている。

 少し眠ってまた目が覚めた。ゴソゴソを置きだして外を見にいく。明け方になると、今度は右に傾いてくるのだ。

 (早朝から漁の準備。はるか見えるのはサントニーニョ、アルマグロの島々)

 

 午前6時に宿舎を出て空港に向かう。

 マニラからの飛行機が着く。JAPSAMのKさんがやってきた。もうフィリピンでの生活が1ケ月にもなる彼女は、さすがに旅慣れた感じだ。同じ飛行機で、私が、入れ替わりにマニラへ。そして午後の便で日本に戻る。

 サマールにもう何回も来ているベテランのKさんの登場で、T君、Y君らもほっとしたことだろう。

 今回は、サマール滞在がわずか3泊。今までの最短記録だ。慌ただしかったが、なんとかラーニングセンター改築の目途もたって良かった。

 


クリスのデモ・ファームへ(4日目)

2011年03月04日 | Weblog

 もうサマール滞在の最終日。

 イーパオのラーニングセンターの改築に関して、市の社会福祉局長のサインも必要なのだが、彼はほとんど外出していてなかなか会えない。今回の滞在中は、無理かもしれない。

 午後、クリスがやってきて、彼が市の正職員になったお祝いのパーティをするからと招待を受ける。

 彼とは、もう16年の付き合い。環境問題等にも造詣が深い優秀な男だが、なかなかふさわしい仕事に就くことができず、今まで、ずいぶん鬱屈した人生を歩んできた。それが、市の有機農業のデモ・ファームの事務所にやっと正職員として採用されたのだ。彼が得意なのは、ミミズを利用した土壌改良。ここでもその施設ができていた。そのうち、私のバイオガスも導入したいと語ってくれた。

 (デモ・ファームの事務所で、手作りの料理でパーティが開かれた。右から2人目がクリス。)

 (デモ・ファームでは、有機農業による野菜作りが進められている。)

 

 そして、大急ぎでソルソゴンの図書館へ。JAPSAMの学生らが、子どもたちを集めて塗り絵をしていた。下絵は、京都のD中学の子どもたちが書き、そこにサマールの子どもたちが色をつけるという、交換授業の試み。学生たちのアイデアが素晴らしい。 

 

 今夜も、ナナイさん宅でご馳走になる。レイテとパナイ島から、Oさんの友人たちがやってきて話が弾んだ。


ラーニングセンターの改築計画がほぼ具体化(3日目)

2011年03月03日 | Weblog

 私の部屋からは、一面の海が見渡せる。内海なので、波ひとつない静かさだ。朝、起きると、いつもまず海を眺める。今日も天気はよくないが、もう数隻の漁舟が漁に出ていた。

 今日も、イーパオのデイケアーセンターの改築に向けた協議を続ける。夕刻には、現地に行き、ほぼ話をまとめることできた。

 JAPSAMの学生らは、リチャードと、図書館の床の改修のための材料購入へ。

 午後、レイテからOさんがやってきた。夜は、ナナイさん宅でご馳走になる。

 ナナイさんは、まだ日本に行ったことがないので、一度、行きたいとしきりに言う。ベイビーも一緒に行きたいとのこと。2人にはずいぶん世話になっているので、今年の秋ぐらいにでも来てもらおうかと思う。


レイテからサマールへ(2日目)

2011年03月02日 | Weblog

 朝、レイテからバンに乗り込み、サマールのカルバヨグに向かう。

 昔と比べて、道路がすっかり良くなり、3時間少しでカルバヨグに着いた。

 さっそく、ソルソゴンの村に行き、図書館へ、。この図書館は、JAPSAMの学生らが建て、運営しているものだ。

  (ソルソゴンの図書館。窓の外の鮮やかな緑が心地よい。)

 私は、イーパオのラーニングセンターの建て替えについての打ち合わせ。今回は、5日までの短い滞在だが、なんとか覚書の調印を終え、来週から工事を始められるようにしたい。

 (宿舎の屋上。サマールの海とカルバヨグの街が一望に広がる。)


初日は、レイテ島タクロバン泊まり

2011年03月01日 | Weblog

3月1日(火)、関空を発ち、マニラに向かう。同行は、JAPSAMのT君、Y君。

 2002年から、毎年、3月、9月に続けられていたJAPSAMの現地ワークが、今回は途切れてしまうかと思ったが、2人が来てくれてよかった。(途中からKさんも合流予定)

 いつもはマニラで1泊するのだが、明日のカルバヨグ便がなくなったので、マニラで国内線に乗り換え、レイテ島のタクロバンへ。

 久しぶりに、ホテル・アレハンドロにチェックイン。このホテルは、第2次大戦当時、日本軍が宿舎に使っていた古い建物をうまく保存し、当時の写真をいっぱいに展示している。激戦の地、レイテならではのホテルだ。

 

 タクロバンのOさんと合流し、港の露店でバーベキューを楽しむ。昼間の暑さも和らぎ、海からの風が心地よい。


3月のサマール行

2011年02月16日 | Weblog

 3月のサマール行の日程が決まった。

 3月1日(火)から5日(土)ときわめて短期間だが、帰国後、すぐに中国・チベットに行かねばならないので、これ以上の日がとれない。(中国・雲南、梅里雪山の麓の村へ)

 JAPSAMのM君、S君らも同行の予定。今回は、就活などで行けなくなった学生が続出、一時は、2002年以来、毎年、春秋の2回続いていた学生らの現地ワークが途切れるかと心配したが、なんとか2人が来てくれることになってよかった。(途中から、もう一人が合流する予定。)

 短い滞在だが、イーパオのラーニングセンターの改築について、最終確認の協議をし、3月中旬ぐらいから工事にかかれるよう準備をしなければならない。


イーパオのラーニングセンターの建替えが具体化!

2011年02月13日 | Weblog

 京都サマール友好協会が、もう15年も運営してきたイーパオのラーニングセンターが老朽化し、地元からは、いつも、なんとかならないかと相談を受けていた。しかし、わが協会にもお金がなく、困り果てていたが、JAPSAMのOBのH君の紹介で、福岡のYさんのご支援がいただけることになった。

 (老朽化し、今にも崩れそうなイーパオのラーニングセンター)

 H君とYさんは、この1月、私と一緒にサマールに来られ、センターの現状を確認してもらった。その後、話は、順調に進み、先日、サマールの担当者から、センター改築の図面等が送られてきた。コンクリートブロック造りで2階建ての立派な建物だ。

                                             (送られてきた改築予想図面)

 この機会に、横の空き地を利用して、子どもたちの遊び場も作りたい。

 話が具体化してきたので、この3月上旬、再度、サマールに行き、最終協議をしてくる予定だ。うまくいけば、4月~5月の夏休み期間に工事を終え、6月中旬の新学期に間に合わせたい。

 Yさんには、お礼の言葉もない。