まず、内田教授は、『民法1-総則・物権総論』で、「暗記か理解か」で次のように書かれています。
「民法の入門書の古典といえる我妻栄博士の『新版民法案内』の第1巻「私法の道しるべ」の冒頭は、「法律を学ぶには、暗記しないで、理解しなければならない」という項目から始まる。このことは、今日でもしばしば授業等で指摘されるし、私自身もそのようなに教わった。しかし、法律学の勉強が外国語の学習にたと得るなら、暗記せず理解せよ、というアドバイスはやや奇異である。外国語の勉強に、暗記せず理解せよ、などと助言する人はいないだろう。」
私は、初めてこの文章を読んだ時、「本当にそのとおりだ!」と、内田教授の見解に賛成しました。さらに、内田教授は、「重要なのは、適切な情報を、その内容を十分に理解したうえで、適切な順序で記憶することである。そのためにも、そのような配慮のゆきとどいた教科書が必要である。」という言葉で結んでおられます。
私は、最後の見解に対しても賛成です。
しかし、「適切な情報」とは何でしょうか? やはり、その説明が必要だと思います。適切な情報とは、法律を適用するための「事実」・・・・すべての事実ではなく、「法を適用すべき事実」に対して、法の何を適用するか、ということでないでしょうか。では、「何を適用」するのでしょうか?それは、法律に規定されている法律用語の意義・要件・効果を適用することだと思うのです。ですから、法律用語の意義・要件・効果をまず、理解して、記憶することが大切です。
しかし、今回のメ-ルの主眼は、上記の「意義・要件・効果」についてではありません。主眼は、内田教授は、我妻博士の見解を誤解されていると知ったからです。どういうことかと言いますと、博士の思いは、次のことだったと考えます。
「みなさんが、私が書いた『民法講義(7分冊)』を記憶しようとして、2~3回ぐらい読むと、もうそれだけで、みなさんは、法解釈の道筋と結論を「暗記」されるだろう。
しかし、大切なことは、私が本に書いた法解釈の道筋と結論を覚えることではなく、その道筋は、ほんとうに正しいのか、他の道はないのか、を考えることが大切なことだ。』と言われたのではないか、と思ったからです。
つまり、我妻博士と内田教授とは、「学生(読者)の読解力・記憶力」という前提条件を大幅に異にしているのではないか、と気づいたのです。そして、結論は、我妻博士と内田教授は二人とも、“同じ内容のことを述べられている”ということです。
ここで、みなさんにお話をしたいことは、上記のことだけではありません。私や他の人たちが、今後、紹介する本等の情報・・・・つまり試験勉強する上での「客体」と、みなさんが、どれだけの勉強時間を費やせるか・・・・つまり「主体」の部分を十分に考えて欲しいからです。特に司法試験を受験を予定されている方は、「いっぱい本を買えばいい。いっぱい本を読めばいい」と想像されているかもしれません。
しかし、それは誤りです。自分自身の身体にしっかりと身に付いていない知識は、“危険”です。また、それを達成するためには、膨大な時間がかかります。遣り遂げられれば、いいのですが、途中で、挫折してしまう可能性があります。これは、司法試験の受験に関わらず、すべての試験について言えることだと思うのです。
「民法の入門書の古典といえる我妻栄博士の『新版民法案内』の第1巻「私法の道しるべ」の冒頭は、「法律を学ぶには、暗記しないで、理解しなければならない」という項目から始まる。このことは、今日でもしばしば授業等で指摘されるし、私自身もそのようなに教わった。しかし、法律学の勉強が外国語の学習にたと得るなら、暗記せず理解せよ、というアドバイスはやや奇異である。外国語の勉強に、暗記せず理解せよ、などと助言する人はいないだろう。」
私は、初めてこの文章を読んだ時、「本当にそのとおりだ!」と、内田教授の見解に賛成しました。さらに、内田教授は、「重要なのは、適切な情報を、その内容を十分に理解したうえで、適切な順序で記憶することである。そのためにも、そのような配慮のゆきとどいた教科書が必要である。」という言葉で結んでおられます。
私は、最後の見解に対しても賛成です。
しかし、「適切な情報」とは何でしょうか? やはり、その説明が必要だと思います。適切な情報とは、法律を適用するための「事実」・・・・すべての事実ではなく、「法を適用すべき事実」に対して、法の何を適用するか、ということでないでしょうか。では、「何を適用」するのでしょうか?それは、法律に規定されている法律用語の意義・要件・効果を適用することだと思うのです。ですから、法律用語の意義・要件・効果をまず、理解して、記憶することが大切です。
しかし、今回のメ-ルの主眼は、上記の「意義・要件・効果」についてではありません。主眼は、内田教授は、我妻博士の見解を誤解されていると知ったからです。どういうことかと言いますと、博士の思いは、次のことだったと考えます。
「みなさんが、私が書いた『民法講義(7分冊)』を記憶しようとして、2~3回ぐらい読むと、もうそれだけで、みなさんは、法解釈の道筋と結論を「暗記」されるだろう。
しかし、大切なことは、私が本に書いた法解釈の道筋と結論を覚えることではなく、その道筋は、ほんとうに正しいのか、他の道はないのか、を考えることが大切なことだ。』と言われたのではないか、と思ったからです。
つまり、我妻博士と内田教授とは、「学生(読者)の読解力・記憶力」という前提条件を大幅に異にしているのではないか、と気づいたのです。そして、結論は、我妻博士と内田教授は二人とも、“同じ内容のことを述べられている”ということです。
ここで、みなさんにお話をしたいことは、上記のことだけではありません。私や他の人たちが、今後、紹介する本等の情報・・・・つまり試験勉強する上での「客体」と、みなさんが、どれだけの勉強時間を費やせるか・・・・つまり「主体」の部分を十分に考えて欲しいからです。特に司法試験を受験を予定されている方は、「いっぱい本を買えばいい。いっぱい本を読めばいい」と想像されているかもしれません。
しかし、それは誤りです。自分自身の身体にしっかりと身に付いていない知識は、“危険”です。また、それを達成するためには、膨大な時間がかかります。遣り遂げられれば、いいのですが、途中で、挫折してしまう可能性があります。これは、司法試験の受験に関わらず、すべての試験について言えることだと思うのです。
日本では、制定法として憲法と法律という二つ“法律”があります。ここでは、条約と地方自治体の条例を除きます。
そこで、憲法は103条から構成されていますが、憲法よりも上位の意思が存在するからこそ憲法は制定されたのであり、憲法よりも上位の規範が存在すると想定できるのではないでしょうか?
また、すべての法律は、憲法の理念を具体化したものであり、国会で議決されて制定されたものですから、“原則として”憲法適合性が存在します。そうすると、憲法と法律の中間には、何らかの規範が存在するのではないでしょうか? ここでは、その規範を“中間規範”と呼びます。なお、中間規範の中には、憲法の規定の基づく中間規範と国会の立法裁量に基づく中間規範の2種類があるでしょう。
以上を図式化すると、次のようになります。
上位規範 > 憲法 > 中間規範(憲法に基づくもの) > 中間規範(国会の立法裁量に基づくもの) > 法律
しかし、この中の上位規範や中間規範は、憲法や法律などの諸事情から判断しなければなりません。ここでは当然に解釈が必要ですから、論者によって異なります。さらに、憲法や法律の解釈に見解の相違があるため、なかなか決定し難いと言えるでしょう。
また、憲法には“法の支配”の原則があると言われています。それでは、法の支配とは何でしょうか?
芦部信喜著『憲法(新版補訂版)』(岩波書店、1998年3月8日発行。現在は、第三版が刊行されています。)では、次のように説明されています。
「法の支配の内容として重要なものは、現在、①憲法の最高法規性の観念、②権力によって侵されない個人の人権、③法の内容・手段の公正を要求する適正手続き(due process of law)、④権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重、などだと考えられている。」(14頁)。つまり、行政機関等の公権力から個人の人権を守ることを意味しています。
そこで、法律(憲法を含む。)が、為政者を統制・拘束することは理解できるのですが、それを担保するのは裁判所だけでよいのでしょうか?
法律は、国民の一般人であれば、原則として読めば理解できる、読んでも理解できなくとも、法律家から説明を受ければ、少なくとその論理的整合性については、理解できる内容でなければならない、のではないでしょうか。つまり、国民の一般人が、その論理性を理解できなければ、法の支配の実効性を担保できない、のではないかと思うのです。
過去に、刑法の口語化、最近では民法の口語化がなされましたが、「法律は、国民の一般人ができるかぎり理解できるもでなければならない。」と、為政者がようやく認識した結果ではないでしょうか。
以上から、憲法は国会に対して、出来る限り分かりやすい法律を制定するよう“要請”していると考えます。
また、解釈によって、安易な“中間規範”の策定は慎まなければならないでしょう。
そこで、憲法は103条から構成されていますが、憲法よりも上位の意思が存在するからこそ憲法は制定されたのであり、憲法よりも上位の規範が存在すると想定できるのではないでしょうか?
また、すべての法律は、憲法の理念を具体化したものであり、国会で議決されて制定されたものですから、“原則として”憲法適合性が存在します。そうすると、憲法と法律の中間には、何らかの規範が存在するのではないでしょうか? ここでは、その規範を“中間規範”と呼びます。なお、中間規範の中には、憲法の規定の基づく中間規範と国会の立法裁量に基づく中間規範の2種類があるでしょう。
以上を図式化すると、次のようになります。
上位規範 > 憲法 > 中間規範(憲法に基づくもの) > 中間規範(国会の立法裁量に基づくもの) > 法律
しかし、この中の上位規範や中間規範は、憲法や法律などの諸事情から判断しなければなりません。ここでは当然に解釈が必要ですから、論者によって異なります。さらに、憲法や法律の解釈に見解の相違があるため、なかなか決定し難いと言えるでしょう。
また、憲法には“法の支配”の原則があると言われています。それでは、法の支配とは何でしょうか?
芦部信喜著『憲法(新版補訂版)』(岩波書店、1998年3月8日発行。現在は、第三版が刊行されています。)では、次のように説明されています。
「法の支配の内容として重要なものは、現在、①憲法の最高法規性の観念、②権力によって侵されない個人の人権、③法の内容・手段の公正を要求する適正手続き(due process of law)、④権力の恣意的行使をコントロールする裁判所の役割に対する尊重、などだと考えられている。」(14頁)。つまり、行政機関等の公権力から個人の人権を守ることを意味しています。
そこで、法律(憲法を含む。)が、為政者を統制・拘束することは理解できるのですが、それを担保するのは裁判所だけでよいのでしょうか?
法律は、国民の一般人であれば、原則として読めば理解できる、読んでも理解できなくとも、法律家から説明を受ければ、少なくとその論理的整合性については、理解できる内容でなければならない、のではないでしょうか。つまり、国民の一般人が、その論理性を理解できなければ、法の支配の実効性を担保できない、のではないかと思うのです。
過去に、刑法の口語化、最近では民法の口語化がなされましたが、「法律は、国民の一般人ができるかぎり理解できるもでなければならない。」と、為政者がようやく認識した結果ではないでしょうか。
以上から、憲法は国会に対して、出来る限り分かりやすい法律を制定するよう“要請”していると考えます。
また、解釈によって、安易な“中間規範”の策定は慎まなければならないでしょう。
「京都府が制定を目指す児童ポルノ規制条例で、学識者らでつくる府の検討会議(座長・土井真一京都大大学院教授)は31日、児童ポルノ禁止法では規制されていない写真や映像の単純所持や取得を禁止し、廃棄命令や罰則を盛り込むとの方向で意見をまとめた。府は意見に沿い廃棄命令を条例案に盛り込む方針で、成立すれば全国初となる。」
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110131000083
http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20110131000083
「京都市は18日、市中心部の道路を指定している路上喫煙禁止エリアについて、新たに清水寺(東山区)や京都駅(下京区)周辺の観光地を指定する方針を固め、学識経験者らでつくる市の審議会に提案した。」
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110118/kyt11011822020054-n1.htm
http://sankei.jp.msn.com/region/news/110118/kyt11011822020054-n1.htm
「大阪府箕面市議会は20日、カラスに継続的に餌をやって周辺に被害を被らせた住民に罰金を科す条例案を可決した。市の是正命令に反したり調査を拒んだりすれば10万円以下の罰金となる。来年7月1日から施行される。」
http://www.asahi.com/national/update/1220/OSK201012200065.html
http://www.asahi.com/national/update/1220/OSK201012200065.html