切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《切れ爺いさんの食道癌闘病記》 No.39 寛解した!がしかし・・・   2023.5.22

2023-05-22 21:50:04 | 闘病記


 前回の CT スキャンから3ヶ月。先週 5月19日 金曜日に第一日赤へ行く。到着してすぐに 採血。続いて胃カメラのコーナーへ行く。数人待っていた。胃カメラはもう何回も行っているのですっかり慣れたものだ。特に不安はないがひょっとしたらひょっとする場合もあるので、今回もできるだけモニターをしっかり見ておこうと思う。しばらくして呼ばれた。いつものように洗浄の薬を飲み、喉元にゼリー状の弱い麻酔を塗る。

 胃カメラ用のブースに入りベッドに横たわる。今回はモニターが見事にこちらの方に向いているので、全部確実に見られそうだ。いよいよ胃カメラが始まると思った時に、見るといつもよりかなり太いものだった。それに気がついた医師がもう少し細いものと交換。ほっとする。あんなに太いものを入れられるといくら何でも慣れているとはいえ、ちょっときつそうだった。口にマウスピースをはめて喉から入っていく。綺麗なカラー画面のモニターが食道の中を進んでいく。やはり綺麗だと言える。特にこれと言って気になるものは見られない。操作する医師の方もモニターを見ながら解説してくれる。食道を通り過ぎ胃の中へ入る。ところが昨夜食べたものが一部、胃の中に残っていた。もちろん前日の夕食は軽めにしておいた。当日の朝は飲み食いは一切していない。こんなこと初めてだ。なんと胃壁の一部にわかめが張り付いていた。胃の下部の方には昨夜の味噌汁の一部が溜まっている。その部分は当然見ることができない。

 さらに胃カメラは十二指腸へ入り込んでいく。非常に綺麗な状態。ここから引き抜きにかかる。こうして無事に胃カメラが抜かれ、撮影は終了。部分的に見られないところがあったが、なぜ一晩経ってまだ胃の中に残っているのか、自分でもわからない。困ったもんだ。診察室の方へ移動しカードを診察ボックスへ入れて椅子に座って待つ。

 いつものことだが診察室のすぐ前に多くの座席があり、大勢の人が待っている。このコーナーは主として 癌に関わる病気の人たちの場所だ。従って中高年以上の人が多いが、中にはやや 若手の人も見られる。こうしてみるといかに癌の人が多いのかということがよくわかる。あるいはこれから入院して手術を受けるという人もいて、看護師さんがその説明をしているのが耳に入ってくる。5年半前の私の姿そのものだ。この日は待ち時間は比較的短くて済んだ。予定時間に呼ばれて診察室に入る。

 主治医は特に暗い表情でもなく、すぐに前回の CT スキャンの結果とこの日の 胃カメラの結果、そして採血の結果を見ながら「食道癌の方はもうこれでいいでしょう。」と言って いわば寛解ということになった。内心ほっとした。食道癌、ステージ2の5年後生存率が、当時の国立がんセンターの公表値で、45%だったということを考えれば、その45%の方に無事入ったというわけだ。幸いにも主治医は癌手術のスペシャリストで、ほとんどすべての手術を腹腔鏡手術で実施しているという。同時に府立医大の講師も務めており、そういった意味ではいい巡り合わせだったと思う。最近でも腹腔鏡手術については、群馬大学で一部の未熟な医師が立て続けに失敗を起こし、 5名以上の死者を出している。これはもう はっきり言って 事件だ。しかし手術中の死亡ということで何とでもなるという実態もあるらしい。手術中に手術失敗ということで死んでしまうというのは、いわば医療ミスということになり、場合によっては裁判沙汰だ。他の大学でも似たような事件は起こっている。そういった意味では 私の場合は、いい医師に巡り合えたということで幸運だったのだと思う。

 医師に聞いてみたところ、再発の心配はほぼないということ。但し癌という病の性質上、 癌細胞が血液に乗って体中のあちこちに移動する。そのことによる転移というのはありうることなのでそれは仕方のないことだと言われた。人によっては一つの癌が治ってもすぐ次の新たな癌。それが手術で治ってまた新たな癌、という人もいる。元歌手の堀川ちえみさんなどもその典型的な例だ。従って私にもその可能性は十分にあるので、今後さらに高齢化していく中で十分気をつけておかなければならない。


   (国立がんセンター資料より)

 一応癌の方は寛解とは言っても、胃潰瘍及び逆流性胃腸炎ということもあるので、しばらくはそのための服薬が続く。これがまた色々と分量が多くて正直、気が滅入る。私にはこれ以外の基礎疾患もあり、そちらの方の服薬も死ぬまで続けなければならない。まさしく擦り付けの日々だ。また年に一度、胃カメラとなる。早々と一年後に予約が入れられた。忘れてしまいそうだ。

 若い頃のあまりにもむちゃくちゃな仕事の実態。休める日もほとんどなく残業も月におそらく100時間はずっとこなしていただろう。今頃文科省は学校教員の残業をなくすよう改めて対策を立てるなどと言っているが、事実上不可能に近いだろう。私の場合などわずか月に4%の特別勤務手当で膨大な残業をしてきたのだ。要はろくに休めない状況の中で体を壊さない方が不思議だった。そういった意味ではある意味、職業病と言っても間違いないだろう。齢を取ってこんな事態になってしまって、今や元にもどることはできない。あちこちボロボロの状態で、このまま齢を取って死んでいくということになるだろう。結局は自分の中にもう少し、いい加減さというものがあって、それをもっともっと行使すれば良かったかと思う。必要だからと言って、かつては日曜日だけが休日だった頃、当たり前のように学校に行ってクラブ指導や教材研究や教材作りなどをしていた。土日が休みになってもほとんど変わらず。ある程度年齢が行くと、さすがに体がきつくなってきて部活指導をかなり減らした。それでも休日に練習試合や公式試合があれば行かざるを得ない。たとえ試合が半日であっても、結局は1日がかりになってしまう。

 今や全国で教員不足が深刻になっているという。当然だろう。マスメディアが教員の仕事の大変さを報道し始め、しかも残業代がないというのが当たり前で、特金手当でごまかされている。いわば教員一人一人の好意を利用して教育が成り立ってるような実態なのだ。当然 若いものは教員を志願しようとする気にはならないだろう。こうして今や教員採用試験の競走倍率は信じがたいほど下がってしまった。私の場合中学校だったが、今や3倍から4倍の競争率。私が採用された年は中学校社会科の分野で、競争率は何と336人受験して採用されたのがたったの2人。実に168倍の競争率だった。よくぞ採用まで行けたと思う。当時は全体的な競争率もかなり高かった。平均すれば10倍以上はあっただろう。

  でも定年まで働いてきてもう体が持たない、などと思ったことも何回かある。あとは周りのサポートもあって、そしてまた生徒たちの応援もあって、何とかやって来れたというのが正直なところだ。または現職中に突然死亡する先生もいたりして、それはそれで大きな衝撃だった。こんな多忙な中で死んでしまうというのも正直わからないではなかった。

 まあこんなことを今更言ったってしょうがないが、それにしても今現在の教員志望離れが非常に気になる。また現職教員が起こす様々な犯罪も間違いなく急増している。明らかに教員の質的な低下があるとしか思えない。神戸市で起こった小学校での、教員による教員へのいじめ問題などというびっくりするような事件さえ起こるんだから、もう何をどう言っていいのかわからないくらいだ。

 とりあえず転移だけ気をつけて、あとは無理をせず心を落ち着けて、ゆったりと過ごせるようにしていこうかと改めて思うところだ。

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