鵺大明神・玉姫大明神・朝日大明神
『鵺(ぬえ) 池伝説 (説明)
ニ条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。 傍らには不鮮明ですが鵺池碑と書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神の祠があり、 そこには新しく復元された碑が建っています。
平安時代、 二条公園を含む付近一帯は、天皇の住まいである内裏や、 現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、 そして今の内閣に相当する太政官など、 国家政治の中心となる官庁街でした。
『平家物語』 巻 4 によると、 院政期とも呼ばれる平安時代後期、 深夜、 天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。 そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、 頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺( とも書く)であったといい、そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています。
この度の再整備において池・流れ施設を整備し、 鵺池碑を移設しました。』
( 説明書より)
鵺大明神は二条城の北側の結構広い二条公園の北端にある。ここには玉姫大明神・朝日大明神の祠もあり、三社が並んでいる。しかし扱いとしてはひとつの明神さんということで長年来たようだ。先日このブログで掲載した「神明神社」のところで、「鵺伝説」の紹介をした。その鵺が射落とされて落下したところが、この場所だと言う。他の説もあるがとりあえず、ここが伝承としては有力だと言われている。
下に神明神社の由緒書きの駒札の内容を再掲載しておく。
『神明神社
当地は平安時代末期、近衛天皇(在位一一四一~一一五五)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と言われた。この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天照大神を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。
社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源頼政は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。
その後、天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎神明」とも言われた。
また、当社には豊園<ほうえん>小学校内(現在の洛央小学校)に祀られている文子天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。
祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。
京都市』 (駒札より)
鵺と言う空飛ぶ怪物が時の天皇を苦しめた、と言う話の根拠がどこから出たのかはわからないが、おそらく当時の世相の中で、夜中に悲しい声で鳴く鳥の声が、天皇には伝説の怪物である鵺ではないかという話が広がったのが、もともとの話だ。多くの学者がその鳴き声を、様々な古文献から類推しているが、おそらく「つぐみ」ではないかというのが最も有力な説だそうだ。夜中に鳴くその鳴き声は、非常に悲しげなもので、平安時代当時は夜中といえば物音ひとつしない静寂に包まれた中に、そのような鳥の声が聞こえてくると更に気持ちも落ち込むというものだ。そこからこのような伝承が生まれたのではないかと考えられている。この話は平安京にかなり広がり、後に平家物語を始めいくつかの物語等の中にも登場するという。
二条公園そのものはかなり広い公園で、ある意味この鵺伝説がアピールポイントにしているようで、その伝説に従って射落とされた場所に「鵺池」が整備され、その前に説明書きが置かれている。すぐ横に三社の祠が並ぶ。公園全体は非常に綺麗に整備されており、天気の良い日には近所のお親子連れなどで賑わうようだ。でもこのように整備されていても、大半の人は鵺の伝説というものについては、私と同様ほとんど知らないだろう。撮影している間に一組のカップルが鵺池説明書きを読んでいる姿が目に入った。
京都というところには、数々のパワースポットといわれる場所もあり、また伝説や伝承あるいは謎に満ちた部分も多いと言われる。このような話が発掘され、こうして少しでも市民や訪れた人々に知ってもらうというのも、積極的ないい取り組みだと思った。
『鵺(ぬえ) 池伝説 (説明)
ニ条公園の北側には鵺池という小さな池がありました。 傍らには不鮮明ですが鵺池碑と書かれた石碑があり、さらにその北側には鵺大明神の祠があり、 そこには新しく復元された碑が建っています。
平安時代、 二条公園を含む付近一帯は、天皇の住まいである内裏や、 現在の国会議事堂に当たる大極殿を正殿とする朝堂院、 そして今の内閣に相当する太政官など、 国家政治の中心となる官庁街でした。
『平家物語』 巻 4 によると、 院政期とも呼ばれる平安時代後期、 深夜、 天皇の住まいである内裏に怪しい鳥の鳴き声がし、近衛天皇が非常に怯えられた。 そこで弓の名手である源頼政が射落とした怪鳥は、 頭は猿、胴は狸、手足は虎、尻尾は蛇という姿の鵺( とも書く)であったといい、そのときに血の着いた鏃を洗ったのが、この二条公園の池だと伝えられています。
この度の再整備において池・流れ施設を整備し、 鵺池碑を移設しました。』
( 説明書より)
鵺大明神は二条城の北側の結構広い二条公園の北端にある。ここには玉姫大明神・朝日大明神の祠もあり、三社が並んでいる。しかし扱いとしてはひとつの明神さんということで長年来たようだ。先日このブログで掲載した「神明神社」のところで、「鵺伝説」の紹介をした。その鵺が射落とされて落下したところが、この場所だと言う。他の説もあるがとりあえず、ここが伝承としては有力だと言われている。
下に神明神社の由緒書きの駒札の内容を再掲載しておく。
『神明神社
当地は平安時代末期、近衛天皇(在位一一四一~一一五五)がしばしば皇居としたと伝わる藤原忠通(近衛天皇妃の養父)の屋敷跡で、「四条内裏」または「四条東洞院内裡」と言われた。この邸内にあった鎮守の社が神明神社で、天照大神を祭神とし、創建年代は明らかでないが、平安時代から今日まで人々の崇拝の社となっている。
社伝によると、近衛天皇の時代、頭は猿、尾は蛇、手足は虎の「鵺(ぬえ)」という怪鳥が毎夜、空に現れ都を騒がせた。弓の名手であったという源頼政は退治の命を受け、神明神社に祈願をこめた後、見事に鵺を退治した。この時使われた弓矢の「やじり」二本が当社の宝物として伝わっており、今でも祭礼の時に飾られる。当社が厄除け・火除けの神と言われるゆえんである。
その後、天台宗の護国山立願寺円光院という寺によって管理されていたが、明治初期の神仏分離令によって神社だけが残され、それ以来、神明町が管理を行っている。榎の大木があったので「榎神明」とも言われた。
また、当社には豊園<ほうえん>小学校内(現在の洛央小学校)に祀られている文子天満宮(菅原道真を祀る)の祭神が戦後合祀されている。
祭礼は九月の第二土曜日とそれに続く日曜日である。
京都市』 (駒札より)
鵺と言う空飛ぶ怪物が時の天皇を苦しめた、と言う話の根拠がどこから出たのかはわからないが、おそらく当時の世相の中で、夜中に悲しい声で鳴く鳥の声が、天皇には伝説の怪物である鵺ではないかという話が広がったのが、もともとの話だ。多くの学者がその鳴き声を、様々な古文献から類推しているが、おそらく「つぐみ」ではないかというのが最も有力な説だそうだ。夜中に鳴くその鳴き声は、非常に悲しげなもので、平安時代当時は夜中といえば物音ひとつしない静寂に包まれた中に、そのような鳥の声が聞こえてくると更に気持ちも落ち込むというものだ。そこからこのような伝承が生まれたのではないかと考えられている。この話は平安京にかなり広がり、後に平家物語を始めいくつかの物語等の中にも登場するという。
二条公園そのものはかなり広い公園で、ある意味この鵺伝説がアピールポイントにしているようで、その伝説に従って射落とされた場所に「鵺池」が整備され、その前に説明書きが置かれている。すぐ横に三社の祠が並ぶ。公園全体は非常に綺麗に整備されており、天気の良い日には近所のお親子連れなどで賑わうようだ。でもこのように整備されていても、大半の人は鵺の伝説というものについては、私と同様ほとんど知らないだろう。撮影している間に一組のカップルが鵺池説明書きを読んでいる姿が目に入った。
京都というところには、数々のパワースポットといわれる場所もあり、また伝説や伝承あるいは謎に満ちた部分も多いと言われる。このような話が発掘され、こうして少しでも市民や訪れた人々に知ってもらうというのも、積極的ないい取り組みだと思った。
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