切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

狛弁財天社・玉台寺~延命寺 京都府木津川市・・・思った以上

2019-07-24 23:19:43 | 撮影

  

狛弁才天社



 弁才天は元来インドにおいて川を神格化したもので、日本でも竹生島など水に関係する地によく祭られています。
 狛弁才天社は、室町時代初め頃に上狛から椿井にかけて広がっていた興福寺領狛野荘の利水や水害に関連して創建されたものと考えられています。十五世紀中頃から後半には、興福寺大乗院や一乗院から門跡が参詣し、拝殿造営のための奉加帳が興福寺内で回覧されている記録が確認されています。
 狛弁才天社は、狛氏の守護神であるとされ、狛山城守秀はその当時狛野荘の荘官(下司)を勤めていたことから、互いの密接なつながりが伺えます。その後、十六世紀後半頃に大規模な再興がなされたと考えられ、天正六年(一五七八)に木造弁才天坐像及びその眷属である十
五童子像が南都寺院の宿院仏師・源三郎らによって製作きれ、天正八年には拝殿が再建されています。こうした一連の事業は西福寺に肖像画を残す狛左馬進秀綱が中心で実施したと考えられています。
 なお、現在の本殿や拝殿は近世後期に再建されたもので、隣接する玉台寺は弁才天社の宮寺として建立されたものと考えられています。
  木津川市教育委員会  (駒札より)

    

 木津川市にある狛弁財天と玉台寺へ行く。
 車では丘陵地に入るとかなり細い道になるので、なるべく軽自動車がいいだろう。鉄道ではJR奈良線の上狛駅から約1km 余り。少し上りになるので15分くらいが目途だろう。
 狛弁財天社の由緒については上記の通り。「狛」というのは朝鮮半島からの渡来人系の氏だ。「高麗」とも表記する。奈良時代前から朝鮮半島との交流があり、多くの渡来人がやってきていたが、特に白村江の戦いで高句麗が滅亡すると、さらに多くの人々が日本へ逃れて渡ってきたと言われている。彼らの持つ高い技術力に対して、大王たちは氏を与え、奈良から京都南部辺りに居住し集落を作って、ここで金属製品の製作加工などにあたり、また優れた土器等も生産していたと言う。
 こうした狛氏の守護神として、この弁財天社があるのだと言う。弁財天社そのものは室町時代に建てられている。そのすぐ近くにある玉台寺は、その宮寺として建てられたものだ。
 車を草むらの中に置いて長い細い道の参道を登っていくと、弁財天社の鳥居が現れる。すぐに本殿も目に入る。やや新しいような感じがするが、再建されたものだと言う。境内全体はよく整備されているとは言い難く、草が境内全体を被っているが、今でもこの地域の祭事を司る大事な神社として扱われているものと思われる。
 歴史的には比較的新しいものの、天平以前の昔から、日本海を渡ってきた渡来系氏族の長い苦労の歴史は、この地だけではなく、全国各地に残されており、一部では今も地名として残されている。木津川市では「狛」という地名はないが、駅の名前や小学校の名前に残っている。


玉台寺



 隣接する玉台寺は、同じく丘陵地の高台にあるので、木津川市から奈良方面が一望できる。
 ちょうど住職さんがハチマキ巻いて、新しくテラスのようなものを作っていた。一般人から見ると結構広いその場で、テーブルを囲んでビールでも飲むような雰囲気のテラス風の台座だったが、もちろんそのようなものではなくて、催事がある時に大勢の人たちが来るので、そういった人たちのために本堂からせり出して座る場所を作っているとのことだった。
 境内は豊かな草木に覆われて、石造十三重塔や石仏なども配置されており、景色と相まって非常に良い雰囲気がある。
 今現在では昔と違って、玉台寺が中心となり、弁財天社はその鎮守社という扱いになっているようだ。このように、そこそこの大きさがある神社とお寺が隣接しているというのは、神仏習合の典型例のような感じがする。しかしそれぞれが建てられた背景からすると、少し違うのかもしれない。

 この弁財天社の画像は前半に、そして玉台寺の画像は後半に配置しておく。
 尚、玉台寺の情報はほとんどなく、手持ちの資料にもネット上にもお墓の宣伝で名前が出てくるくらいで、皆無に等しい状態だった。そんな中、木津川市の古道散策のコース紹介のパンフレットに短い文章ではあるものの、玉台寺の簡単な紹介があったので、それを載せておく。

 玉臺寺はもともと真言系寺院で 、狛の弁才天社の宮寺として、山城国一揆の中心となった国人、狛氏の保護下にあった。江戸時代に入り狛氏がこの地を去ると、廃れてきたが、妙心寺の僧智堪和尚がこの地に入り、荒廃した玉臺寺を再建した。本尊の十一面観音立像は室町時代の作とされる。
 狛弁財天社は、一族の守護神として、狛野荘の荘官をしていた狛但馬守頼久が永享九年(1437年)に造営したものであると伝えられている。
  (山背古道探検コース パンフレットより)
         


延命寺



 撮影し終えて帰る途中、たまたま延命寺があったので寄ってみる。
 残念ながら門そのものは開いているものの、柵がしてあって中に入れない。たまたま誰もいないせいなのかもしれないが、こういうお寺が時々あって非常に残念だ。
 柵から身を乗り出して撮影出来る範囲で境内を何枚か撮る。
 高野山真言宗のお寺で、境内には石像十三重塔が見えた。鎌倉時代のものという。また私には見えなかったが、同じく鎌倉時代の五輪塔もあると言う。
 これからも木津川市へは何度も行くことになるので、寄ってみようと思う。境内に入ることができればラッキーというつもりにしておく。

 

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