切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都府京田辺市 朱智神社・・・牛頭天王とは何や?

2017-09-14 00:03:22 | 撮影

 京田辺市の山間部にある朱智神社へ行く。
 この神社については、ネット上にも多くのブログ記事やホームページで紹介されており、非常に有名だ。また祇園祭との関係についてもそこそこ知られている?
 軽の四駆で向かう。京田辺市西部の山間を走り、次第に道が細くなり、ついには急勾配のかなり細い道で、普通車ならかなり困難だろうと思われる。こういうところでマニュアル車だと、一旦止まってしまうと、再発進はかなり難しいだろう。曲がりくねった極細の道をを上って行くと、眼下に南山城地方の市街地や田畑が広がる。ようやく神社への入り口の道にさしかかり、最後の急勾配を上って鳥居前に着く。
   

 ドアを開けた瞬間、数百匹に及ぶヤブ蚊が襲いかかってくる。久しぶりに格好の餌がやってきたと言うもんだろう。とにかく急いで鞄とカメラを抱えて撮影し始めるが、レンズの前にもヤブ蚊が、止まったり舞ったりしていて、それを追い払いながら1枚1枚撮っていく。非常に厄介だ。
 場所が場所だけに、普段の日は訪れる人もほとんどいないだろうと思う。しかも高い大きな木が周りを取り囲む。日光を遮っていて、境内が全体的にじめっとしている。移動しても当然膨大なヤブ蚊が塊となって付いてくる。何分にも半袖半パン姿なので、あちこちいっぱい血を吸われた。

 本殿までは石段を何段も上がっていき、鳥居をくぐって漸く到着する。かなり広い境内だ。石灯籠も数多く並んでいて、年号の刻銘があるが、どーにもこーにも判別しにくくて、結局よくわからなかった。比較的新しいものは江戸時代のもの。古いものはとてもじゃないけど読み取れない。素人の悲しさ。
 本殿は京都府の登録有形文化財。江戸時代初期に再建されたもの。さすがに指定されているだけあって、なかなか鮮やかな色彩に、華麗な模様が施され、この山奥の静かな地に華やかな姿で構えており、見応えがある。
         

 神社の沿革や由緒については、立て札や説明書きがあったので、それをそのまま下の方に載せておく。この土地が天王と言う地域であることの理由や、牛頭天王の存在と、後の八坂神社、そして祇園祭との関係もある程度分かると思う。

 牛頭天王とは元来、インドにおいては祇園精舎の守護神であったが、日本においては祇園社、つまり後の八坂神社の祭神で、特に平安時代に頻発していた疫病などによる災禍が、祟りによるものではないかと言う恐れから、牛頭天王を祀り、その 祭礼が後の祇園祭に繋がっていく。
 この祇園信仰は全国各地に広がっており、今でも存続しているところでは、京都と同じように祇園祭と称する祭礼が行われている。
 朱智神社にこの様な背景があるということは、当時からかなり重要な位置にあった神社だと考えられるが、おそらく更に奥深い由来などがあるんだろうと思う。この辺り一帯は古代より、見晴らしの良い場所として、要所要所に見張台や中間連絡所の様なものが置かれていた場所でもあり、戦略的にも非常に重要な場所であった。そういった意味では、平安貴族たちにとっても無視できない意義のある場所であり、神社でもあったんだろうと思う。
 現地に行くには、山の麓までバスで行って、そこから歩いて登ることになるが、結構きついと思われる。車で行く場合には軽自動車以外考えられない。地元の人は普通車でも運転している様だが、慣れない者にとってみれば、車をガリガリ傷つけても致し方ない様な場所でもある。


『朱智神社
 京田辺市天王高 ヶ峯二五番地

 迦爾米雷命(かにめいかづちのみこと)(神功皇后の祖父)を主神とし、古代この地一帯に勢力のあった息長氏(おきながし)の祖神を祭っている式内社である。
 社伝では、仁徳天王のとき現在地より西方の西峰頂上に創建され、宣化天王元年(五三五)天王号を付け、朱智天王と称したとされる。地名の「天王(てんのう)」はこれによるものとみられる。
 現在の本殿(京都府登録文化財)は、慶長一七年(一六一二)の再建で、一間社流造、屋根は檜皮葺である。向拝の木鼻の表には牡丹 、裏には狐を彫り出し、正面蟇股(かえるまた)には唐獅子
や牡丹など桃山様式の華麗な彫刻が多くみられる。本殿への石段耳石には永正四年(一五〇七)、天文十年(一五四一)の銘がある。

牛頭(ごず)天王像(京都府指定文化財)
頭上に牛頭をいただき、忿怒の表情をもつ三面の顔をもち、唐様装束の一木造の像である。平安時代後期の作で類例の少ないものである。
例祭十月十八日
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会
 (神社駒札より)
(他HPより)

『朱智神社
御祭神
主神 迦爾米雷命
   建速須佐之男命
   天照国照彦火明命
   
御由緒
 当社はもと此地より西方三町余りの所にあり、仁徳天皇の六十九年に、社殿を建てて、朱智天皇と号しました。 
 迦爾米雷王は、開化天皇の曾孫で神功皇后の祖父に当られ、崇仁天皇の御代にこの地を治められて、その朱智姓を名乗られました。須佐之男命が相殿として祭られたのは、桓武天皇の御代であります。
 その後清和天皇の御代に、大宝天王(牛頭天王)を現在の京都八坂神社に遷し、毎年”榊遷し”の行事を行いましたが、何時よりか無くなりました。
 明治維新に至り神祇官に上請して、天王社を古名の朱智神社に復し、明治六年六月、郷社となりました。

御祭礼
 祇園祭 七月十四日 例祭 十月十八日
建造物
 社殿は養和三年十二月消失し、その後数回再建されたが、現存のものは慶長十七年に建てられ、昭和十三年四月本殿は、歴史上重要建築物に指定されました。
 参道の石階、神殿の擬宝珠に、建造の年代が記されています。
 なお、本殿内には、牛頭天王の神像が安置され、藤原時代後期の作と称され、牛頭天王神像としては世に稀なものであります。
昭和三十二年十月一日
田辺町
田辺町郷土史会
 (本殿由緒書きより)』

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