切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 いじめによる自殺事件への思い 》 ①          2024.6.6

2024-06-06 23:03:58 | 社会
 以下の文章は私個人の思いであって、何かを分析したり提言したりするといったものではない。私自身がかつて教育現場に身を置いたものとして昨今の学校現場における「いじめ」問題が深刻な状況にあり、それによる「児童 生徒の自殺」件数の驚くべき増加が顕著になっていることから、見過ごすことのできない事態が、以前にも増して深刻になっていることを示している。



 私が現場を離れてからもう10年を超えている。現役時代にもこのような事件は時たま報道され、しかもさほど少なくないような状況にあった。そうしたニュースや新聞記事を見るにつけ、果たして自分自身が担当しているクラスはどうなのか、学校はどうなのかと考えざるを得なかった。
 少なくとも私が担当していたクラスや 学年では、このような自殺に至る事件はなかった。しかしそれ以前の「いじめ」については何らかの形で、ほぼ毎年のようにクラスの中や あるいは学年内であちこちで見られたと思っている。私自身が生徒の様子から見つけたケースもあれば、クラスの生徒たちが訴えに来たケースもあった。私は「いじめ・暴力」に対しては人権を踏みにじる行為として絶対に許さない、ということを新年度の最初にクラスに必ず訴えて基本姿勢を示してきた。当然発覚した段階で自分なりにはかなり徹底的に取り組んでこられたと思っている。無論、自己評価の段階ではそう思っているが、第三者から見れば 間違ったやり方だ、あるいは全然甘っちょろい、などと言った評価があったのかもしれない。少なくともそれらの取り組みを通して、クラスの生徒から文句を言われたり、関係がないのになぜクラス会でやるのかと言った批判や、また担任としての私に対する恨みを買ったと言ったことは多分なかったと思う。私自身が必死だったしそれはそれなり生徒達に伝わったんだろうと思う。

 このような経験が積み重なって、ある程度の自信みたいなものが出てきたのは事実だし、 転勤後も同様に取り組んできたと言える。しかし「いじめ問題」というのはどれもこれも 内容や動機等に違いがあり、全部同じ方式で同じ内容で取り組んで解決できるというものではない。そこには大人社会にいる私たち教員にとって計り知れないほどの様々な思いを持つ児童生徒の内面があって、それが極めて見づらいものになって、そこに不理解や思い違いといったものが生じ、取り組みの方向性がなかなか定まらずに返って深みにはまってしまうといったケースがあったのも事実だ。

 そういった意味では決して生徒たちを単一的に見るようなことをしてはならない。言うなれば、なめてかかってはいけないのだ。しかし勤務した学校全体の状況を見るにつけ、本当に生徒たちの様々な動きに対して真剣に向き合い理解しようとし、取り組みを展開していこうという姿勢がどれだけの教員にあったのかということも、嫌が応にも見えてきてしまった。つまり何十名という教員も一人一人別人なのだ。従って「いじめ問題」に対する見方や対応の仕方、判断の仕方などはっきり言ってバラバラな状態で、学校が回っていたという実態もある。これは勤めた学校の大半で何らかの形で見られたかなり深刻な問題といえる状態だったのだ。



 だからと言って私の見方感じ方が全て正しいのか、といえば決してそうも言えない場合も多々あるとは思っている。

 たまたま今回、インターネットで全国ニュースのサイトを見ている時に、 2011年の滋賀県大津市の中学校で起こった凄惨ないじめによって、一人の男子生徒が自殺するという事件の、その後の保護者の思いが記事として掲載されているのを見つけた。



 この事件は私が2017年にブログを始めて、その年に取り扱った題材だった。すぐに当時の状況が思い出され、何か怒りのよなものが自分の神経を支配し、かなり乱暴な形で事件の内容をブログに書き込んで発信した。無論、事件からはもうすでに6年近くも経っていたのだ。それを掘り返して感情的な思いで書き込んだことが、私としてよかったのかどうか、 時々思い出すこともあった。

 ところが最初に記したように、ここ数年でいじめに基づく生徒の自殺事件が急激に増えてきている。何かいたたまれない気持ちが生じてきて、今この時点で何らかの思いを記しておくべきだと感じるようになった。少子化が大きなニュースになっている今の時期に、一方で 若い命が他人からの誹謗中傷などを浴び暴力を受け、自ら死を選ぶという実態が全国で繰り返し起こっているということに、この日本という国はどれだけの思いと言うか、危機感を持っているんだろうか。ただただ発生した事件をニュースとして伝えているだけという感覚麻痺が日本の中で起っているのではないかという気がしている。

 なぜこんなことになってしまっているのか。自分なりに思うことを少し書いてみたいと思う。


 (以下、続く)
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