切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

光明院・妙泉寺・・・お隣さん   京都市中京区     2024.5.15 訪問

2024-06-02 22:37:11 | 撮影
光明院



 光明院は阪急京都線大宮駅から北へ 数100m のところに位置する。周辺は住宅街で密集地域でもある。普通、光明院といえば東山区の東福寺の塔頭寺院の方が圧倒的に有名で、書物やネット上でも情報量は圧倒的な差があるという状態で、こちらの光明院の情報はほとんど皆無に近い状態だ。しかしこちらの光明院も相応の歴史を持ち、浄土宗西山禅林寺派のお寺であって、地域の方々に支えられ信仰行されているお寺といえる。

  

 開基は1214年で他の場所あったものの、江戸時代に入った 1602年に現在地において、開山されている。開山からは 400年の歴史を持っており、元の寺院の開基からはなんと
800年もの歴史を持つかなり由緒のあるお寺だ。それだけの歴史を持ちながらあまり知られていないというのはどういうことなんだろうか。

  訪問当日は閉門で中に入れず、通用門から少し入り可能な範囲で撮影をした。従って境内と建物の一部の撮影となった。その範囲で見たところ、境内には緑が多くよく整備されているなという感じがした。建物自体は再建などがあったようで、比較的新しい雰囲気。しかし地域に根ざしたお寺として大事な役割を果たしているものと考えられる。
 


妙泉寺



『浄土宗 妙泉寺 由緒
当山は法性山専求院妙泉寺と称し、浄土宗百萬遍知恩寺の末寺である。
洛陽三条通神泉苑町西入、多井次郎左衛門の祖先・涌法道泉善士(織田信長の家臣)の妻・涌岳妙泉善女が天正十年壬午(一五八二年)開創と伝う。 妙泉寺の寺地は、一説によると本能寺の故地といわれ、道泉の死後、その一部に開創されたようである。
開山は徳蓮社天譽上人である。
当寺は、天明八年(一七八八年正月三十日)の天明の大火により類焼した。 諸堂宇ことごとく焼失し、本尊一体のみを救出す。その後、文化十三年(一八一六年)当山第十九世法蓮社界譽上人が再建。
本堂・客殿・玄関其他、総修復により百萬遍知恩寺第五十七世瑞譽臣東上人 御代に中興号を賜る。
境内には本堂のほか、辨天堂(洛中辨財天第二十四番札所・弘法大師自作福寿辨財天)、観音堂(現専求庵)等がある。
境内墓地には、浮世絵師西川祐信や四条派画家駒井源琦の墓がある。
  平成三十年 向譽大』  (説明板より)

 

 妙泉寺は光明院のすぐ隣にある。こちらも閉門状態で門の柵から身を乗り出して撮影。と言っても視野に入る範囲が極めて狭く、本堂へ続く石畳の道と両サイドの豊かな木々の緑 が見えるだけ。実質上寺院の境内のごく一部を写真に収めただけとなった。

 寺の由緒は上記の通り。こちらは戦国時代末期の開創となる。天明の大火では京都のずいぶん 多くの寺社が失われており、かなり多くがその後の再建となる。妙泉寺もそのうちの一つとなり、文化的価値という意味では極めて大きな影響を受けたことになる。しかし当時はこのような災禍に遭いつつも様々なところから資金が提供され、再建されているというのは、ある意味大したことだと言える。このお寺も地域に根ざした浄土宗のお寺として信仰を集めているのではないかと思う。

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする