切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 いじめによる自殺事件への思い 》 ③     2024.6.9

2024-06-09 22:58:21 | 社会


この間、報道などで流されているいじめ自殺事件は、大阪府泉南市で発生した中学生の男子が、いじめを受け続けた結果、自ら死を選んだというものだ。保護者の訴えにより、これからようやく第三者委員会が設置され、その原因究明が行われようとしているが、あまりにも遅すぎると言わざるを得ない。とりあえず教育長が謝罪をしたようだが、そういったものは本質的なものではない。
 このケースは自殺した男子中学生が、小学生の頃からいじめに遭っており、保護者はその時点で何度もいじめを疑い学校側に訴えをしている。ところが担任たち教員は「誰がいじめたのか、誰がそのようなことを言ったのかわからないと対応できない」と返したという。全く信じられないような対応としか言いようがない。いわば教員としての資格を自ら否定しているに等しい。要するに責任逃れでやる気もないのだ。こういう者が教員として生徒の前に立っているのは害悪としか言いようがない。
 彼は中学に上がってからも引き続きいじめを受け、同時に不登校にもなった。母親はシングルマザーで2人の男の子を育てていたが、弟の当該生徒は母親の勤務する場所に連れて行って、そこが居場所として彼をかろうじて支えてきた。だが中学においてもいじめが続き、母親は直接学校側に何度も 訴える。しかし中学校においても親の訴えは全く取り合ってもらえず、放置されたまま何ヶ月も過ぎ去り、最終的に当該生徒は自ら死を選ぶことになった。
 ところが学年が変わっても彼が自殺したということは、生徒たちに伏せられたままの状態であり、名簿からも名前が消されていた。一部の生徒が彼はどうしたのかと教員に質問しても何の反応もなかったという。つまり教員たち全体が彼の自殺を隠し続けたということなのだ。自殺であれば当然その背景にいじめがあることは容易にわかることだ。そのことを何ら調査することも対応することもなく、ただひた隠しに隠すだけ。もはや教員個々人も学校全体も、教育の立場を自ら放棄したに等しい。ここまで来るとこの学校の存在自体が生徒たちにとって害悪としか言いようがないのだ。
 自殺後も再三の保護者の訴えにより、ようやく教育長を中心とした第三者委員会が設置されるという方向になった。ところがその保護者が訪れた教員に、未だに第三者委員会のことが伝わってこないが、どうなっているのかと尋ねても答えられないの一点張りで、ごまかされてしまった。つまり第三者委員会を設けるなどというのは当初は、学校側の完全な嘘だったのだ。
 しかし度重なる母親の追求によりようやく第三者委員会が発足し、これから調査・分析 が始まろうとしている。しかし母親は第三者委員会においても、嘘がまかり通るような場になるのではないかという不信感が拭えないと報道機関に話している。
 ここまで信用失墜した学校というのはもはや、潰すべきであると考える。もちろん潰すとは教職員の総入れ替えということだ。学校長も含めて、おそらくこれから原因究明には1年以上はかかるだろう。彼を死に追いやった同学年の生徒たちや下級生たちは卒業して行ってしまうことになるだろう。どのように責任を取らせるのか。今までのように責任追及なしで終わるのは目に見えていると言ってもいいだろう。
 今後早急な解明を通して実態を明らかにし、 1人の中学生を死に至らしめた責任を加害者をはじめとする、学校という一種伏魔殿のような場に対して取らせなければならないと言える。





8日のニュース総合サイトを読んでいると、またまた中学校における自殺事件についての記述があった。兵庫県相生市での男子生徒自殺事件だ。
 1年前の3月に男子生徒は中学校入学後、2年間にわたりクラス内、さらには学年の中で、そしてついには下級生からも様々な形でのいじめを受けることになった。結局嫌がらせや 暴言だけではなく、暴力やシカトと呼ばれる集団から妻はじきにされるような行為が、日常的に普通に行われるようになり、最終的に自殺に追い込まれたのだ。
 親からの再三にわたる学校への訴えに対してようやく学校側が重大事案として認め、第三者委員会を立ち上げその結果のようなものが報告されたという記事だった。
 それによると第三者委員会は合計36件の事案が、いじめとして認定したと言うことだった。それらの内容に基づいて第三者委員会の責任者はただ単に生徒たちの問題だけでなく、 当該中学校における「教師間の中の悪さ」によって、いじめ問題が全く共有されずに放置され続けていた、という指摘がなされていた。
 この指摘には私自身もハッとさせられた。今まで様々な第三者委員会が問題事案に対して 調査検討し、報告書を出しているが、教員間の分裂状態が取り上げられているというのは初めて聞いた。ひょっとすれば今までにもそういう指摘があったのかもしれないが、少なくとも私自身は初めて聞いた内容だった。
 この指摘は私自身が勤務していた際にも、一部の学校において実際経験してきたことだ。よく学校においては教師間は情報を共有し、みんなが1つの輪になって対処していこう、などと学校長が指導方針の最初に訴えかけるようなことがあるが、実態としては様々な理由において教員同士の間に場合によってはかなり激しい対立が生まれ、職場そのものが2分割されて対立しているのが、当たり前のような状況になっていることもあるのだ。そのことが生徒たちにわかるんだろうかといえば、答えは「見抜いている」となる。




◆ 子供 社会の 複雑さ そして集団心理 の軽々しさ

 いじめによる中学生の自殺事件の背景には、かなり多くが小学校時代からのいじめ、あるいはそれに類する現象が見られ、そのまま中学校へと引き継がれてきたような場合が多いと思われる。人口の多い地区ではだいたいの中学校において 2~3校の小学校が集まって、新たな学年が組織される。人口の少ない地域では必ずしもそうではない ケースもあるだろうが、大概は中学校になって新たな人間関係が形成される。

 本来ならば新しい学校での生活に不安と共に、期待感が強く新たな勉強に、学校生活に頑張っていこうとの意志も見られる。ところがすでに小学校の段階で学年内におけるいじめが常態化している場合には、特に被害者にとってみれば中学校に行っても心機一転とはなりにくいのが実情だ。多くのケースの場合、加害者側の人数がさらに広がっていくことが多いと感じる。

 小学校時代は3年生4年生頃になると、事の善悪や理不尽な暴力、あるいはいじめといったものに対する拒否感、あるいは罪悪感を覚えるのが大半だろう。逆にクラスや学年の中に仲良しの小グループがあちこちに出来上がり、それがただ単になる仲良しグループだけに終わらない ケースもありうる。実際に私の住んでいる自治体の中の小学校で、中学年頃から一部のグループが授業妨害を始めとする暴力、いじめ、その他の問題行動が激しくなり、学校としてそれを指導しきれない事態に陥ったケースがあった。無論地元の新聞でも比較的大きく取り上げられ、すでに教員側の指導の限界を超えているという状況になっていた。学年が上がるにつれ、さらに事態はエスカレートし暴力集団も増加し、学年が成り立たない状況に陥る。そんな時に修学旅行が迫り、場合によっては中止という選択肢もあったのが、学校長判断で実施するという形になった。これらは全て新聞記事で明らかにされていた。しかしその後修学旅行の結果はどうであったのか。あるいは卒業式はどうなったのか。そして近くの中学校に進学していった後どうなったのか、ということなどは一切記事として出てこなくなった。その理由はわからない。おそらく何らかの特別体制で乗り切っていたのではないかと思われる。またその学区の中学校は以前から荒れている状態が、何度か報道もされていた。しかし中学校における事件については一切報道はその後なかった。

 もちろんそのような状態に対して多くの児童生徒たちは、心の中で反発していたのかもしれないが、やはり我が身を考えるならば見て見ぬふりという状況にならざるを得なかったのかもしれない。そのような中では、どのように振る舞いながら自分を守るのかということを考えて行動しなければならないようになる。ある意味、妙な言い方になるが一種の処世術 のようなものを学んでしまうものなのかもしれない。

 かつて私が勤務していた中学校においても同様の事態があった。すでに1つの小学校において学年にボス支配的な存在があり、中学校に進級するにあたって3校の小学校から生徒たちが集まった。 1年生となった彼らは1年間かけて、その中でボスを決めるための戦いを続け、 2学期にはほぼ序列が決まり、いわば暴力団組織のようなものが形成された。そして3年生が卒業し彼らが2年生に進級した途端、華々しい デビューとなったのだ。それ以降彼らは新3年生を無視する中でやりたい放題の暴力支配を強めていく。対教師暴力、同級生への暴力、授業破壊、現金窃盗、そして凄まじいいじめの実態。

 最終的に彼らは警察の導入によって4人が逮捕された。グループ化した約20名の男子たちは、それぞれにいろんな思いの中、暴れることによって自己の存在感を知らしめ満足感を得ていたんだろうと思う。その裏には家庭の問題や学習の問題、仲間関係の問題といった様々なものが複雑に絡み合っていたようだ。直接私が担当した学年ではなかったが、一部のクラスに授業に入っていた。暴れている彼らは私の授業に、廊下からこれ見よがしにタバコを吸って見せつける。当該学年の教員たちはおそらく、そのようなケースの場合そんな挑発には乗らないという姿勢であったと思われる。私のように別の学年の教員には該当学年の指導方針が伝えられていなかった。従って私は授業クラスの生徒たちに、5分間だけ時間をくれ、と言って廊下にたむろする彼らのところに行って少し話をする。私の前でタバコだけはやめろと言って、彼らはそれに従った。話の内容も含めて彼らがなぜそのような破壊行為を続けるのか、直接は聞きにくいが回りくどく迫る。そんな中で彼ら自身の存在感を、学校の生徒たちや教員たちに見せつけるためにやっているというのが、中心的な考え方だったように思われた。小学校時代からいわゆる「問題児・問題 グループ」として扱われ、何かあれば怒られるという繰り返しで上がってきた学年だ。そういう彼らが中学校においても教師に対する身勝手な不信感というものを、こういう形で表しているのだと思わざるを得なかった。

 そういった意味では、個々人にそれぞれの複雑な思い や理由があり、と同時にグループ化してその中で一緒に行動することによって、自分の居場所、気持ちの高揚感といったものを覚えようとしていたのかもしれない。そういった意味ではずいぶん自分勝手、わがままとしか言いようがない。そしてグループ化の中に自分の居場所が見つかれば集団心理 の中で、自分が思ってもいなかったことができる。その爽快感は授業妨害、好調室破壊、特定生徒への凄惨な暴力などといったもので発揮された。もはや教員グループの指導は及ばず限界を超えていたのは確かだ。

 私がこのような学校で勤務していた中では、自殺者は出なかったが、おそらく特定の個人が毎日毎日同じようにいじめ行為を受け続けるという事態になれば、被害者に対する精神的圧迫は相当厳しいものになるだろう。そういったことを周りの生徒たちは大概見て見ぬふりでやり過ごす ケースが多い。「正義」というものを様々な授業の中で追求し、討議し教えていくという場面はあるものの、現実の場面では多くの場合、あえて近寄らないようにするものなのだ。
 このような状況が生徒たちの間で継続されていても、肝心の教員たちがそれに気づく気がつかない、あるいはただ単にふざけ合ってるだけ。さらには暴力場面を目の前で見ても単に やめとけだけで終わらせてしまう。指導とは言えない 似非指導がまかり通っている状況もあるように思う。つまり生徒たちだけでなく、教員の方の問題もかなり大きいのだ。つまり 同じいじめであっても、教員によってその受け止め方というのはバラバラと言ってもいい状況も一部見られる。そのことが指導の難しさに直結している。



  (画像はTVニュースより)

  (以下、続く)
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