切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

《 いじめによる自殺事件への思い 》 ⑤    2024.6.13

2024-06-13 23:01:28 | 社会


◆ 児童生徒たちはどうなんだろうか

 いじめ自殺事件はこれまでに多数起こっている。多くのケースで学校内における教職員間の情報共有やいじめの実態把握の弱さが報告され、また管理職も含めて悪しき慣習とも言える隠蔽体質が、これまた多く見受けられる。自主的にではなく、保護者などから突き上げられてようやく第三者委員会が設けられ、時すでに遅しといった頃にやっと調査が1年がかりで行われ、様々な結論が出される。多くのケースで示されるのが、本人の問題、家庭の問題として片付けられる報告も一定見られるのが実態だ。もちろんケースによっては保護者が納得するはずもなく、再度激しく再調査を要求してくる。こんな事態になるのはいくら第三者委員会が設けられても、調査内容そのものが弱腰であり薄っぺらであり、はっきり言ってやる気のないような調査しかしないからこういうことにもなると言える。

 そして中には曖昧な報告をすることによって、調査終了としてごまかされてしまうケースもあるようだ。こんな実態を見るにつけ、大人社会での調査や会議といったものが、それこそ大人たちの都合の良いように押し進められていることを感じる。本当にそこには児童生徒たちのことを一体どれだけ本気で向き合おうとしているのか。いじめの中で被害者が自殺するという重大事案に対して、教員を含む大人たちの受け止め方は一体どうなのか。いつもいつも最後の第三者委員会の報告は、詳細なことは一般市民である我々には分からず、簡単な結論がニュースで、あるいは新聞記事で報道されるくらいなものだ。時々これらを記者たちが深く追求して、その問題点や課題を明らかにしようとする内容もあることはあるが、時々 報道されるその内容を見ても、やはり浅いのではないかと感じてしまう。

 要するに自殺者を出した学校は校長をはじめとする管理職が会見場の前で、頭を下げて この度は誠に申し訳ございませんでした云々、どのケースを見ても同じ中身ばかり。いじめを直接見ていたクラス担人や他の先生方が、その場面に登場するケースはあまりない。覆面インタビューで個別に答えることはあるが、どれだけことの重要性を認識して喋っているのか、聞いていてもあまり響いてこない。

 

 学校や教員にとってみれば最終的に女上記のように、「本人の精神的な問題」「 家庭内の問題が大きな影響を与えた結果」などという方向に話がいけば全く好都合ということになるようだ。しかしお定まりのいじめアンケートの内容を見た時に、一部ではあるもののそのような場面を見た、あるいは殴られるのを見た、などなどいじめが行われているとほぼ断言できるような回答が皆無ではないのだ。

 一部のケースを除いてテレビ報道なり新聞記事なりは、いじめ自殺問題について具体的にどのような生徒たちがいじめていたのか、だれが加害者なのかということがほとんど明らかにされていない。中には極めて曖昧にクラスのみんながとか、学年の全体の雰囲気としてとか、非常にいい加減な推測に基づいて報道しているケースも多々あるように思える。つまり 誰が何人くらいがどのように いじめていたのかという、具体的な動きが明らかにされるようなケースがあまりないのだ。本当は極めて凄惨ないじめがあっただろうに、それを軽いように見せかけて報告するという事例が多いのではないか。またあるケースでは学校管理職らが、訴えてきた保護者に対して「いじめた本人にたちにも、これからの人生、未来があるので」などと返すようなことを発言したということもあった。

 何か決定的に抜けているものがあるのではないかとさえ思わざるを得ない。学校内部というのは治外法権の場ではない。ただ社会的には治外法権の場といった雰囲気がずっと以前からあるのは事実だ。学校内における児童生徒間における問題は、学校内で教職員と児童生徒たちの間で解決すべきものだとの了解があるように思われる。従って余程のことでない限り、警察なども要請がない限りは学校の様々な問題に踏み込んでは来ない。それがたとえ自殺事件であっても、調査というものもあり児童生徒のことを徹底的に調べて、いじめ問題があってそれが引き金となって自殺に追い込まれた、との結論から該当者を逮捕するなどということはまずないのだ。

  私はそれでいいものかどうか、一定の疑問を持ってしまう。無論早い段階でいじめの対応策を取り、自殺者が出ないようにするのが最大の取り組みということになるが、ついつい 教員たちはさほど深刻な問題ではないだろうと思いたいのだ。本当に深刻ならば担任を始めとする先生方も、目の色を変えて大きな取り組みに入らざるを得ない。そこに全員一致で取り組めるのかどうかという疑問も湧いてくる。これは同じ学校に勤める先生方においても、考え方の違いや重大事態としての認識面での差というのが明らかにあるからだ。そんなケースは私自身も数多く見てきた。



◆ 児童生徒たちを信頼し依拠し、積極的な指導を

 そしてこのようないじめ問題に対する取り組みにおいて、真っ先に考えるべきは当該のクラスや学年の児童生徒たちが、一体そのことにどのように関心を持ち、考え受け止めようとしているのかどうかということだ。

 全くもって当たり前のことだが、最大の当事者であるのは当然、当該の児童生徒たちなのだ。そこにどのように切り込んでいくのか。そして彼らの彼女たちの行動や考え、そして関心の持ち方などを日常的に分析してつかんでおかなければならない。
 いじめがあると、例えばそのクラス内においては大半の児童生徒たちは、そのことに軽重の差はあれ、気づいているものなのだ。ただその点では大人の教員達と同様に、「ちょっとしたふざけあい」「軽く叩いただけ」などなどと比較的軽く捕まえがちになることが多いようだ。しかし事の始まりはほとんどの場合、このように軽い 乗りから始まるのが普通であり、それが次第にクラス内、あるいは学年内に伝播し、気がついた時にはいじめられている児童生徒については孤立無援の立場まで追い詰められていることになる。その時点で担当教員がもし気がついていないとすれば、その時点で教員である資格はないと言えると同時に、 児童生徒たちも自分は無関係だという立場であっても、嫌でもクラス、あるいは学年内にいじめがあって誰々が追い詰められているということはわかるはずだ。

 そんな中、少しでも正義感、勇気を持った一部の生徒たちがいればすぐに担任、あるいは信頼できる先生に報告にやってくる。こういった場合はほとんどが女子であるケースが多い。これは私自身が実際に 経験してきたことから言うと、男子の方は聞かれて初めて口にするが、自ら訴えに来るのは大半が女子だった。いじめの場面そのものでは、その子を守るために具体的な行動することが難しくても、少なくともこれは大変なことだということで、信頼できる先生に訴えに来るのだ。



 いじめ自殺問題においては第三者委員会の報告で、生徒たちのこのような動きのことが報告されたのを、私は一度も聞いたことがない。ひょっとすればそういうことがあったのかもしれないが、少なくとも報道においては取り上げられていなかったようだ。
 ただ今回、問題にしている大阪府泉南市のいじめ自殺問題については、第三者委員会が生徒の様子に触れて、大半の生徒が無関心を装っていた、と言ったような内容のことを報告に含めている。かなり曖昧な言い方ではあるが、第三者委員会の調査の段階ですでに年数が経っており、この辺りが調査の限界だったのかもしれない 。いずれにしろ生徒たちの動きについて言及するのは本来、もっと取り上げるべきだと考えるのだが、様々な社会的な事情もあって報道においては、何らかの線引きがある可能性もあるだろう。

 しかしこういった ケースにおいては、事前に生徒たち自身の動きによって早めに教員がその事実を共有化し、解決に向かうことができたケースも多々あるはずだ。実際私が経験した範囲内でも、初期の段階で一部の生徒が上記のように、訴えに来てくれた、あるいは班長会議などなどで生徒間の人間関係上の様々な問題を話し合う中で、出される問題点が多々ある。そこから人間関係の不安定さの中で孤立化しているような生徒の存在にもいち早く気づくことができ、仲間づくりの観点から新しい班の編成にあたって、大事になる前に解決の方向性が取られたケースも随分あるのだ。これはただ単に私の経験だけではなく、全国の多くの小中学校においても児童生徒たちの、そのような正義感や善悪の判断が正しい方向性を見つけ出し、早期の問題解決に至っていることが非常に多いだろうと思う。当然そのような活動は担任自身があるいは学年担任団が共通認識を持つ中で、いかにして各クラスの人間関係やひとりぼっちの児童生徒がいるのかいないのか、ということを早めにキャッチすることの大切さが共有されている学校も圧倒的に多いだろう。

 そういう点から児童生徒たちのそのような正義感というものに信頼を寄せて、担任及び担任集団が具体的な方策を立てて取り組むことが極めて重要であるということを示していると思う。どうしても残念なのは以前にも記したように、特に小学校と中学校の先生方の尋常ではない多忙な実態だ。また中学校においては放課後に班長会議を持つことすら難しい面がある。先生方の会議やそして最も気になるのが、部活動ということになる。つまりリーダー会議を設定する際には、部活動に遅れて参加することになり、そのことに理解を示す部活顧問は正直、少数派という実態がある。したがって生徒たちは児童たちはリーダー会議に班長会議に出たくないと思うようになるかといえば、決してそうではなく、部活以上に重要な問題を話し合うという高い意識に支えられて、大事にならないようにしている側面も非常に多いのだ。そういった児童生徒たちに依拠しながら教師集団は真摯な態度で方策を立てながら、指導をしていかなければならないと思う。



* 以上、長々と書いてきたが一部の自殺事件の報道を見て、様々な感慨にとらわれ色々と書いてきた。私がしてきたことが全て正しく間違っていないなどとは全く思わない。勘違いもあれば間違った内容、あるいは生徒への指導の内容で間違っているようなこともある可能性も多々あるだろうと思う。しかし今現在の日本の学校で起こっている、この極めて深刻な事態に何か言っておかなければならないような気持ちが、このような文を書くきっかけになってしまった。


  (以上、おわり)

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