切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

京都市上京区 報土寺・・・もっと知られてもいいはずだ

2018-02-09 22:15:21 | 撮影


『報土寺
 浄土宗知恩院派に属する寺である。
 平安時代の貞観元年(八五九)に行教上人が真言宗の寺として創建したと伝えられている。
 その後、応仁の乱などにより荒廃したか、永禄二年(一五五九)、選誉照阿上人により、浄土
宗の寺院として相国寺総門の東南に再興された。
 以後、浄土宗の念仏道場として栄え、江戸時代の寛文三年(一六六三)頃に、現在地に移転した。
 表門と本堂が重要文化財に指定されており、本堂は正面七間、側面六間、入母屋造、本瓦葺
の浄土宗本堂の典型的な建物で、寛永六年( 一六二九)に建立され、寺地の移転に際して移築
されたものである。
 また、当寺が所蔵する木造阿弥陀如来立像(重要文化財、現在は京都国立博物館に保管中)は、正嘉二年(一二五八)七月十二日の造像銘があり、もとは、近江(現在の滋賀県)の八幡宮に祀られていたものと伝えられている。
  京都市 (門前駒札より)

   
 報土寺の表門の横に、上記の駒札があった。お寺の基本的な歴史については書かれてある通りだ。ここには重要文化財が3点ある。表門、本堂、そして木造阿弥陀如来立像。最後の阿弥陀如来は普段は京都国立博物館に寄託されているが、各お寺が共同で寺宝の一般公開の時などに、お寺に戻されて披露されることがある。それは地元紙にも掲載される程の出来事で、 どのお寺にとっても公開自体が非常に喜ばしいことだ。
(WEBより)
 報土寺の住所は、「京都市上京区四番町仁和寺街道六軒町西入四番町120」となる。京都の住所の表記は非常に長くて、なかなか面倒なものだが、この住所の中に「四番町」というのがある。
 先日紹介した華光寺から数百メートル北に位置する。そこでも紹介したように、この辺り一帯が、四番町、五番町と言う町名となる。昔からの遊郭が栄えた場所である。特に江戸時代には極めて盛況だったと言う。この遊郭で働く遊女たちは貧しい農民の出身が多く、ある意味家と縁を切るような形で、この場所で孤独に働いていた。士農工商の階級社会にあって彼女たちは、さらに下の階級として認識され、歳を取って働けなくなり、遊女としての価値がなくなり、廓から追い出されたり、あるいは若くして亡くなる者も多かった。しかし亡くなっても周辺の寺院は、遺体を引き取って弔うのを拒絶し、謂わば行き先のない、死んでからも差別されるような身分の女たちであった。
 そんな中この報土寺が、亡くなった彼女たちを引き受け、弔って共同墓地に葬ったと言う。そういうことから周囲からは報土寺を「投げ込み寺」と呼んでいたと言う。境内の本堂前に、「遊女観世音菩薩(遊女観音)」と言われる観音像が立っている。

 報土寺にはこのように、貴重な重要文化財があり、また歴史的にも差別され蔑まれた廓の女性たちを弔ったと言う事実があるにも関わらず、さほど名前が知られているようには思えない。訪問した日にも誰も来ていなかった。市街地の細い一方通行の道が交錯する中にあって、なかなか行きにくいのではないかと思えるが、実際地図で見てみると、幹線道路にも近く、その気になれば比較的簡単に行ける場所でもある。
 自分もこのお寺のことは知らなかったし、撮影に行くにあたって、様々な資料にあたって調べてみる中で、いろんなことがわかり勉強になった。今では京都に遊郭があったということを知ってる人はあまりいないだろう。前にも記した水上勉の「五番町夕霧楼」という小説がここを取り上げた、たぶん唯一の小説かもしれない。まぁ映画化もされているので、ひょっとして案外知られているかもしれないが、小説も含めてフィクションの世界ではないかと思われている可能性もある。そういった意味では、お寺の境内にある、遊女に関する観世音菩薩などから、かつて昔に悲惨な事実があったことを知るというのも大切なことだと改めて思った。
      
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