『北向昆沙門天由来記
市田 は巨椋池に接し古くから開けた集落で条理地割や歴史地名等で示されるとおり、その開発は千数百年にさかのぼると考えられる。
この 市田珠城に祀られている毘沙門天は玉城神社縁起によると、「元弘元年(一三三一)九月楠木正成は勅によって河内国より笠置の皇居に参向する途中、朝敵追討を祈るため 玉城神社に拝礼しその後、武運長久のため毘沙門天を刻み一社を建て北向の毘沙門天と称したという」
以上が縁起に記す北向毘沙門天の由来と当堂創建に関する一文である。
堂に安置される毘沙門天像は、岩盤の上に立つ像高九三・五糎の一木造りの像で長く秘仏とされてきたため彩色があざやかに残っており、また境内には楠木正成の故事にちなんでか 楠の大木が多く茂っている。
信仰の対象であり、貴重な文化財でもある毘沙門天の由来をここに長く市田の歴史にとどめ置くものである。』
( 説明板より)
府道宇治淀線と第2京阪の交差する東南の住宅街の中にある。少々分かりにくい場所だ。毘沙門天というのは北方の守護神とされるもので、本来ならば北の方に向かって背中があり、参拝する際には南側からということになる。しかしここの毘沙門天は建物も含め木製の厨子に収められた秘仏である毘沙門天像は、反対の南の方に背を向けていて参拝も正面が北側となるために、南へ向かって行うという形になる。
このようになったのは楠木正成が南北朝の南朝にある笠置山の皇居の方に向かって、それを守るためにこのように配置されたと伝えられている。と同時に、北朝の北条氏を追討するためにとの目的もあったという。
時代は鎌倉末期の南北朝時代であり、楠木正成がここに堂を建て後醍醐天皇を守ろうとしたということになる。境内には大きな楠が数本立っており、その由緒の関連性を思わせる。 全体としては地域に溶け込んでひっそりと佇んでいる。小さな堂があってその脇に巨木があるような感じで、地元の人以外では、何の建物かおそらくわからずに通り過ぎてしまうことだろう。ただ秘仏扱いの毘沙門像は文化財指定を受けているのかどうかはわからなかった。
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