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『法泉寺
京田辺市草内南垣内二七番地
真言宗智山派に属し、山号は中島山と号する。言伝えでは、 ある時草むらから大きさ五、六寸(約一六〜二十センチメー トル)の十一面観音の金像が現れたと伝え、 草内の地名起源となっている。また天長年間(八二四〜八三三)に日照りが続き、その観音に祈願したところ池泉が湧き出たので、新たに寺を建て法泉寺と称したという。 観音像は明治維新のころ 紛失したとも伝えている。
室町時代までは奈良興福寺の支配下にあり、このため鎌倉時代に奈良西大寺の叡尊(興正菩薩)の社会事業として水害対策・渡しの整備があり、その供養紀念に宇治川の石塔に先立ち 建立されたのが十三重石塔(国指定重要文化財)で弘安元年( 一二七八)十一月二十六日・大工豬末行・勧進僧良印の銘がある。 高さ約六メートル、相輪は近年の補作である。基礎と初重軸 は非常に低く、近畿では異例である。 勧進僧良印は西大寺の叡尊坐像の胎内納入文書に見える「投菩薩戒弟子・法同沙弥」 の中に「良意・良印坊」とある僧と考えられ、また大工の猪末 行は東大寺再建に際し、中国から渡来した尹行末の系譜に繋がる石大工である。
本尊の十一面観音立像(市指定文化財)は平安時代後期 (十 二世紀)、境内の三宝荒神笠塔婆は明応八年(一四九九)、往 時の寺勢を偲ばせる室町時代の庭園石組の一部が本堂西側に 残されている。
京田辺市教育委員会
京田进市文化財保護委員会』 (駒札より)
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『三宝荒神笠塔婆
三宝荒神は、如来荒神・鹿乱荒神・忿怒荒神の三神とも、 如来荒神・三宝荒神・子島荒神の三種の神とも説かれるが、本来の仏縁には縁のないもので、神仏習合によって生じたものである。寺院に祭られる例は少なく、とくに関西地方で特異なものである。
この碑は、笠塔婆形であり、明応七年(一四九八)の銘がある。
高さ約一メートルの花崗岩製で、基礎・蓮座・塔身を一石 でつくる。塔身の上方に三つの宝珠があり、その中に梵字 を刻む。銘はその下にある。
銘文
明応七年戌年
大功德主法口
三宝荒神王 口氏梵口敬白
秋七月十二日
京田辺市教育委員会
京田辺市文化財保護委員会』 (駒札より)
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創建については諸説あり詳しいことはわからないが、寺伝によれば法泉寺の元になったお寺は平安時代創建とも言われる。当初は別名であったが、後に改名されて宝泉寺となる。しかしこの改名も創建後間もない頃のことだという説もあれば、江戸時代に改名されたという説もありの辺りはっきりしないことが多い。しかし境内にある十三重塔が鎌倉時代初期のものであり、あるいはまた本尊の十一面観音が平安時代のものとされるというところから見ると、やはり平安時代の創建というのが妥当なところではないかと考えられている。特に石造 十三重塔については、はっきりした刻銘が残っており建造された年が判明している。無論 このようなケースは他にも多々あるが、どちらかといえば珍しい方となるだろう。あるいは また本尊の十一面観音は京田辺市の指定文化財になっており、お寺そのものが貴重な文化財を所有しており相応の由緒を持った、歴史的にも貴重なお寺だと言えるだろう。
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この地域は山城の東西が低い山に挟まれた盆地になっており、古くから人が住み着き稲作が始められた場所でもある。渡来系の人なども住み着き高い技術がもたらされたという。木津川はいわば暴れ川であり何度も水害をもたらし、人々はそれを治めようとこのお寺の元になる寺を作ったのだと伝わっている。今現在においても住宅地は鉄道線路の近くに固まっており木津川周辺は広い田畑が広がる。そういった意味では、古来より基本的な土地利用の形態はあまり変わっていないのだろうと思われる。
石造十三重塔は、もともとはインドから中国を通って日本に伝えられたものだ。中国においてはインドのサンスクリット語の発音から「卒塔婆」と呼ばれ、日本に入ってくると「塔婆」となり、さらにそれが略されて「塔」と呼ばれるようになった。全国的には石造十三重塔が多いが、中には九層あるいは五層の塔など色々なパターンがあるようだ。そして 一番下の層には4面に4体の仏が彫られているのが通常だ。阿弥陀如来や釈迦如来、薬師如来そして弥勒仏となる。また一部の神社においては境内の近くにこの石造十三重塔が建てられているケースもある。これらはおそらく平安時代以降の神仏習合の影響の一つではないかと考えられる。また同時に国の重要文化財に指定されてるケースも多い。
法泉寺の石造十三重塔の横にはかなり古い石柱が立っており、そこには「国宝」と彫られている。戦前においては文化庁による国宝や重要文化財の基準によって国宝と認定されたのだが、戦後新たな文化庁による基準によって厳密に審査され、重要文化財に変更されたものだ。このようなケースは全国的にかなり多く見られる。従ってお寺によっては格下げになってしまったという思いもあったんだろう。時々見られるが、お寺によっては「旧国宝」と掲示してあるケースも見られる。
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今では農耕技術や川の治水対策が進んでおり、大きな水害や干ばつなどは少なくなったと言えるが、先人の思いとして生きていく上での食べ物というのは何よりも大事なものであった。それらが無事に育ち食べられるようにと、あるいはまた水害による被害が起こらないようにと願った。そういった思いが込められた当時の人々の強い願いに基づくお寺ということだろう。
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