切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

稲荷大明神・市姫大明神(東山区)~朝日神明宮(下京区)   2023.5.2 訪問

2023-05-05 22:55:33 | 撮影
稲荷大明神・市姫大明神

 

 五条大橋の東詰、少し南へ下ったところにある。周辺は住宅や商店が密集しており古くからの細い道沿いにある。敷地は狭く細長い。京都では街中によく見られる神社の形態だ。こちらには稲荷神と市姫神の2つの祭神が揃って祀られている。比較的珍しい ケースとなる。奥にある小さな本殿の扁額にも2つ並んで記されている。

 境内には伏見稲荷と書かれたのぼり旗が非常に目立っており、一方の市姫神の方は見当たらなかった。稲荷神社は言うまでもなく伏見稲荷大社を総本宮とする稲荷信仰の神社であり、全国に数千社あると言われる。元々は渡来系の秦氏による氏神として位置づけられており、必ず本殿の前にキツネが雌雄一対で鎮座している。平安時代の昔においては狐は神の使いであり当時の産業の中心はもちろん農耕にあった。農耕作ではネズミが作物を食い荒らし そのネズミをキツネが狩ってくれるという意味で、農民たちの間では大いに祀られる対象となったと思われる。この状態はそれ以降江戸時代まで続き、時代を経るに従って農作物が各地に年貢として納められ、あるいはまた様々な農産物も各地で販売されるようになり、全国的に商業流通が発達していく。そういったところから稲荷神はただ単に農耕の神としてだけではなく、商売繁盛や商工業隆盛のご利益があるものとしてもその役割が広がっていく。このようにして今現在は伏見稲荷大社に見られるように、商売繁盛の神という側面が全体的には強くなっていると言える。今や都会の中にあって農耕の場というのはこの近辺にはない。そういった意味では昔の名残がここに見られるということになる。

  

 一方、市姫神は本来は女性の守り神という意味合いが強かったが、同時に「市」という文字から類推されるように今で言う「市場の守り神」としての意味合いが強い。昔は農産物だけではなく、様々な品物が名産品として作られるとそれを「市」に持ち寄って販売するという場が生まれ、その場の守り神としての意味合いがあった。京都においては今現在中央卸売市場の一角に市姫神社が置かれている。(かつてこのブログでも取り上げている。)全国的にも珍しいものらしい。従ってこれらの市姫神というのは日本各地に市が立ったところにおいて商売繁盛が期待されるように祠が建てられ、商売人の人たちが参拝してそのご利益に預かったという場となる。当然昔では人の多いところ、あるいは集まりやすいところにこのような市が設けられ市姫神社が創建されることになったと考えられる。

   

 このように2つの祭神が1つの本殿にまとめられているのは、どういう経緯があったのかはよくわからない。おそらくはるか昔、この辺り一帯は鴨川が近いこともあり、ある程度農耕地帯も広がっていて都のあった地でもあって、度々開かれていたのではないかと考えでもいいのではないかという感じがする。



朝日神明宮

『朝日神明宮
 社伝によれば、貞観年間(八五八~八七六)に丹波国桑田郡穴生村(現在の亀岡市)に造営され、元亀三年(一五七二)に現在地に遷座されたといわれている。
 天照大神を祭神とし、かつては、南北は五条通から松原通、東西は河原町通から富小路通に至る広大な社域を有し、「幸神の森」と呼ばれた。
 末社として、竈神社、稲荷社、祓川社、恒情神社、人丸社、飛梅天神、八幡春日社、猿田彦社の八社があったが、天明の大火(一七八八年)及び元治の兵火(一八六四年)によってその大半が焼失し、現在は猿田彦社(幸神社)ただ一社だけが残り、神石二個を安置するのみである。
 江戸中期以降、明治維新まで増穂氏が代々神主を務め、中でも増穂残口(一六五五~一七四二)は京の町々での通俗的神道講釈を試みたことで知られている。
 なお、当社の大祭は九月十六日である。
    京都市』   (駒札より)

  

 朝日神明宮は五条大橋西詰、細い通りを北上したところにある。やはり周りはビルが建ち並びその隙間にあるような小さな神社だ。しかし神社の起源は古く、倭姫命(やまとひめのみこと)のお告げにより創建されたと言われている。創建は平安時代であり場所も今現在の亀岡市となる。後に現在の場所に移されたがあくまでも駒札の内容にあるとおり、「社殿によれば」ということであって詳しい言い伝えとは合わない部分がある。倭姫命という人物、 崇神天皇の第四皇女でありあくまでも「記紀」上での話だ。天皇が実在したとすれば、3から4世紀の天皇ということになり、その皇女であれば4世紀の人物ということになる。倭姫命が実在の人物であれば、そのお告げというのが実際の神明宮の創建時期とかなりずれることになる。ただしあくまでも崇神天皇も倭姫命もその実在性についてはよく分かっていない。実際に神社が平安時代に創建されたとすれば、世の中はすでに藤原氏が貴族として中心的な役割を果たしていた時期であり、様々な記録が残っているはずだ。そういった意味で神社に残された社伝がどこまで事実を描いているのかどうかは、よくわからないということになる。

   

 何らかの必要性があって、今現在も朝日神明宮の相殿の祭神として祀られている倭姫命を、創建の立役者にしなければならない理由があったのだろうか。もしそうだとするとその理由は何なのか、ということになる。ただ実際には神社という形態は3~4世紀の弥生時代から古墳時代にかけては、明確な社殿を要するものではなく祭祀のたびに簡単な祠が設けられて終われば撤去されると言ったようなものだったと考えられている。従って恒久的な本殿などの社殿が整えられた形で神社として建設されるのは、古墳時代以降ということになり、 社伝の通り平安時代の創建であるならば納得はいく。あくまでも朝日神明宮の主祭神は倭姫命ではない。主祭神は「天照大神」なのだ。このような疑問が残るもののいずれにしろ、少なくとも平安時代には創建されたということで、その点は間違いはないんだろう。その社伝の信憑性が一体どれほどのものなのかということが気にはなる。

 

 なお最後の画像に「石門心学修正舎」の石柱が立っているが、これはこの地に石田梅岩の教えである心学を教えた教場の跡があったということだ。石田梅岩は江戸中期の心学者であり、彼の死後も弟子たちが後を継いでその教えを続けて広めて行った。なんとこの活動は昭和中期まで続いたという。その後一旦なくなるが最近復活し、改めて心学修正者として復活し、会員を募り梅岩の教えを広めるために活動を再開しているという。



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