切れ切れ爺さんの徒然撮影&日記

主に寺院や神社等を中心に、文化財の撮影と紹介。
時に世の中の不条理への思いを発言していく。

神奈川県相模原市の障害者施設無差別殺人事件から2年・・・世の中は教訓を得て変わったと言えるのか

2018-07-26 23:48:45 | 社会



◆ 事件から2年経ったが、現状はどうなのか。



2016年7月26日、あまりにも衝撃的な事件の報道にただただテレビのニュース画面に釘付けになって、唖然とするばかりだった。
障害者の施設に若い男が侵入し、次々に寝ている入所者を鋭利な刃物で刺し、多くの死者と負傷者を出した。死者が19人に達したと言うことに、正直信じられない思いもあった。同時に知的障害者の入所施設において、大量殺人が行われたことが自分の知る限り、前例のないことで、この日本で起こったと言うことに、それこそ信じがたい思いだった。

翌日の新聞テレビでは大々的に取り上げられ、すぐに逮捕された被疑者についても、何もかぶっていない素顔が映像に映し出された。警察車両の中で薄笑いをする顔が極めて不気味でもあった。
自分もそうだが、世の中の多くの人々は衝撃を受けつつ、裁判で間違いなく死刑にの判決が出るだろうと想像したと思う。しかしその一方、識者たちの中には、裁判はかなり長引くだろうと発言する者も何人もいた。このような事件を引き起こしたと言うのは、精神的に大きな問題を抱えているのではないかと言うことで、その精神鑑定には長時間かかるだろう、との見通しに基づいた意見だった。
1年を過ぎた頃、ようやく起訴された。ところがその後、今に至るまで公判前の準備手続がかなり膨大なものとなっているようで、いまだに公判は開かれていない。被疑者の弁護士たちは、心身喪失を理由に無罪を主張していると言う。
このあと第一回目の公判がいつ始まるのかもわからない。そして同時に、事件から1年後あたりには、新聞やテレビでもいろいろ報道されたが、それ以降次第に報道回数は激減していった。この7月26日で2年となるものの、新聞で一部報道はあるものの、テレビではひょっとしたら報道はあったのかもしれないが、自分は全く見ていない。多分当日には、何らかの報道はされるだろうが、間違いなくマスメディアも事件から遠ざかっているのは事実だろう。このような現状に、自分自身はどうしようもないイラつきと腹立たしさと、一方無力感みたいなものも覚える。



被疑者の生い立ちや精神状況等に対しては、全くど素人の自分には、分析的なことや断定的な意見などは言えない。あくまでもこのブログにおいては、事件に関わる憤りと、ここから派生している様々な問題に対して、怒りを込めつつ雑感みたいな言い方をするのが関の山だ。

◆ 植松被告の凶行(狂行)に対する怒り。



逮捕後、植松被告の供述によれば、障害者抹殺の決意をしたのは、この施設で働いていた時に、1人の障害者が粗相をしたことに対して怒りの思いが生じ、そこから皆殺しにすることを考えたと言う。またそれ以前に、この施設を解雇されていたことも要因の一つだろうと考えられる。一つの引き金になったかもしれないが、果たしてそうなんだろうか。

彼の生い立ちについては、ネット上にもいろんなことが記されていた。どこまでが本当で、どれが間違っているのかはわからない。彼は最終的に大学も卒業している。その後様々な職業を転々としていたようだが、その中でここ「津久井やまゆり園」にやってきて働くことになった。
彼の生育過程の中でおそらく、障害者に接した事はあるだろう。小学校、中学校では障害児学級があったり、養護学校(現支援学校)などとの交流教育の授業があったはずだ。そんな中で彼はどのような思いで接していたのだろうか。子供心の中に「障害者なんか面倒な・・・」みたいな感情があったんだろうか。あるいは全く無関心のままきたのか。あるいはもっと大人に近づいた段階で、何らかの差別思想に染まってしまったのだろうか。
どこでどのように障害者に対する、ほとんど憎しみとも言えるような感情を覚えたのかはわからないが、引き金になった事は上記の通りだとしても、本人の心理面の深層部分では、様々な小さな障害者に関わる場面と接する中で、最後には障害者の入所施設で働くと言う事が、障害者を大切にすると言うよりは、日々の生活実態の見聞を通して、次第に嫌悪感と自分自身の優越感と危機感みたいなものが入り混じって、「障害者抹殺」こそがまるで正義であるかのような思いを覚えるに至ったんではないかと思う。
接見した弁護士や一部の学者文化人たちは、彼自身が以前に、異様な行動と主張から措置入院をされたことがあることを出して、精神面や性格面での平常心が保てないような面があって、今回の殺傷事件については、その点を十分に考慮しなければならない、と言うような意見なども出されていた。



自分のようなど素人であっても、精神分析の専門家であっても、果たして植松容疑者の精神的構造が十分に分析され得るものだろうか。
そういった面での分析や研究は必要な課題ではあるとは思うが、リアルな現実の中では、19名が殺害されたのであり、多数の重軽傷者が出たのも、実はそういった点では、逮捕され起訴され、公判が開かれ求刑がなされ、最後に判決が出されると言うのは至極当たり前のことだ。
いまだに公判が始まらないのは、上記のように、弁護士達から要求された様々な鑑定に必要な準備書面の作成や、実際の精神鑑定等の実施とその分析に、そして一定期間の、拘置所内での会話や生活姿勢などの観察を含めた実態解明に時間がかかっているんだろう。
植松被告は拘置所の中で異様な笑を描いたり、通常とは異なるような内容の話などをしていると言われている。しかしこういうことも、どこかで区切りをつけるべきであるのは確かだ。そうでないと殺された19名やその遺族たち、あるいは精神的ショックを受けた入所者や指導員の人たちにとても納得はできないだろう。
ましてや本人が、自分のやった事は正しく、みんなが助かる、家族も面倒なことから解放される、世の中の人は支持してくれてるはずだ、と言うような主張をしており、自分の考え以外のことには全く耳をかさない、と言う態度を続けていることを聞かされると、なおさらのことだろう。

植松被告の知識の中に「優生思想」と言う考え方や、ヘイトクライムといった意識、あるいはナチスドイツによる優生思想を基盤としたユダヤ人大量虐殺、さらにT4計画と呼ばれた約20万人にも及ぶと言われる障害者を、ユダヤ人と同じように、ガス室で大量に虐殺したと言うような事実は知っていたんだろうか。
どちらかわからないにしても、彼の中に自分自身ではわかっていないものの、明確な優生思想が定着した事は間違いない。そのような精神状況の中から、障害者は世の中に不要なものだ、との思いが芽生え、実際に殺害行為に及んだと言う事は絶対に許すことのできない行為であり、障害者そのものを人間として見ていない、いわば人権感覚もかけらもない人物であったと言うべきだ。このような殺人鬼に情状酌量の余地は一切無いと考える。もちろん最終的な判決は、死刑以外にはありえないだろう。



◆ 事件をめぐって「優生思想」にかぶれたネトウヨたちの許されざる動向。

事件は社会全体に極めて大きな衝撃を与えたが、もちろん大半は、植松被告に対する強い非難と批判の声だ。もちろん安倍首相以下、神奈川県知事や相模原市長たちも、同様に許されない行為としてそれぞれコメントを発表した。公人だからそのようなコメントは当然だが、果たしてどこまで本心なのかわからないが。

ところがおぞましいことに、この事件に対して予想以上に多くの賛同意見が、ネット上に一気に広がった。ネットのSNSや掲示板には実名を晒す必要もないので、正しく言いたい放題。
植松被告は英雄だ、障害者等不要だ、障害者施設があるから親は楽をしようとして施設に任せているだけだ、障害者に国民の税金を使うのは無駄だ、などなど同じような短文が、正しくネットに溢れかえった。
こういう連中のほとんど全員が、自分自身の情けない弱い立場に置かれた実態に対して、どこかで誰かに対して、優越感を持ちたい、と言う一つのはけ口として、いわば江戸時代の「下見て暮らせ」の心境にあり、同時にそのような思いが、知ってか知らずか、優生思想のシステムに心が支配されるようになってしまい、さらに加えて、保守の支配体制に組することによって、少しでも気持ちの楽な形で、日々が送れるように欲している姿が、そこに見え隠れする。こういう連中の中には、そのような優生思想の考え方をさらに増幅させて、積極的な形で周囲にそれを、自分なりの論理で展開し、世の中に広めて、さらなる優越感に浸る者も多いと思う。



事件が起こる前から、特に反中国反朝鮮を主張するヘイトクライムが溢れていて、それも同じ優生思想の一部に他ならない。つまり普段からこのような思想、あるいは思想までとは言わずとも、なんとなくそのような思いに駆られたような連中は極めて多かった。つまりずいぶん昔から、ネットの世界では、相手が誰であれ、自分の思いとは違う相手に対して、優越的に攻撃をすると言うパターンはたくさん見られた。
左派的な思想に対する攻撃、リベラリズムに対する攻撃、中国や朝鮮を擁護するものに対する攻撃。こんなものはそれこそいっぱい溢れていた。そこに中国や朝鮮が加えられ、さらに社会的弱者が攻撃対象になり、そしてこのような大きな事件が起こる中で、身体障害者、知的障害者が攻撃対象とされていく。ましてただ単なる口だけの攻撃ではなく、実際に刃物で殺したと言う行為に、このようなネトウヨに代表されるような腐りきった連中が大喜びすることになったんだろう。
昔の酒鬼薔薇聖斗や麻原彰晃などが、いわば英雄扱いされたのと同じように、今回も植松被疑者が英雄として、崇め奉られるような雰囲気がネット上にはある。上で一部と言ったが、どうも一部とは思えないほどの状況を感じる。
ひょっとして国民のかなり多くの深層心理の中に、障害者を差別し意味嫌う心境みたいなものがあるんではないか、と思う。国民の大半の人は、障害者と言うものをどこかで見た事はあるが、それ以上の接触はないだろう。そういった人々と、実際に支援学校や障害者施設、あるいは障害者を雇用する企業で日常的に接している人たちとは、その心境にかなりの違いがあると思う。後者はもちろん、一定理解を示すことが出来るような人たちではあるが、中には障害者に対しパワハラやセクハラで自分の鬱憤を晴らすような、クソのような奴らもいる。
そういった意味では国民の中に、社会的弱者、障害者への幅広い理解を求めると言うのは、ある意味至難の業とも言える。これははっきり言ってまず、国の姿勢がどうなのかと言うことが問われる。「障害者差別禁止法」のようなものがあるが、それをいくら作っても実行が伴わなければ何の意味もない。更に各地方自治体での取り組みはどうなのか、ということも問われる。
このような啓蒙活動と言うのは、ほとんど見る場面がない。例えば自分の住んでいる宇治市でも、毎月広報の薄っぺらい冊子が配られるが、障害者のことが紹介されているのをずっと見たことがない。同じく京都府の広報誌についても、同じように障害者の件について触れたのを見たことがない。記事の内容は、〇〇が完成しましたとか、〇〇の取り組みを始めますとか、いわば自治体の自慢話ばかりしか載っていない。こんな広報誌など無駄以外の何物でもない。こんなことに金使うならやめるべきだ。
結局は社会的弱者、障害者に対して啓蒙活動をしているのは、彼ら自身であり、その周囲にいる支援学校や障害者施設の指導員の人たち、あるいはそれを応援するわずかなボランティアの人たちだけに過ぎない。
前回のブログでも言ったように、杉田水脈のように、国会議員の中にも、極右で差別主義者の人権感覚のない、人間失格のような奴がいるのがこの国の実態だ。こんな奴らも、障害者は「生産しない」ので、世の中に不要だと考えているんだろう。少なくとも、こんなところに税金を投入することはバカバカしい、と考えてるんだろう。一応これが先進国と言われる日本の実態だ。様々な社会学的、経済学的、科学技術的な調査予測によって、日本と言う国はもうしばらくすれば、先進国から転落するだろうと言われている。自分もおそらくそうなるだろうと思っている。



◆ 雑感のまとめ。

長々とかなりいい加減な雑感を書いてきたが、いい加減でない部分も多々あると思っている。
日本と言う国はある意味、熱しやすく冷めやすい国民性みたいなものがあるように思う。今晩、NHKや民放のテレビニュースなどを見ている中で、さすがにこの事件が取り上げられてはいた。しかしいずれも、表面的な奥深さのない、短時間の扱いでしかなかった。文字媒体である新聞にしても、一定のスペースを割いていたが、やはり2年間と言う年月は、早くも事件の風化を生じさせつつある。果たしてこんなことでいいんだろうか。
根本には国民の中に、上下の感覚、優等劣等、そのような差別意識が厳然としてある。小泉政権によって助長された格差社会は、勝ち組とか負け組と言う言葉を流行らせ、国民の中に一層上下の優劣関係のパターンを定着させた。健常者でさえ、低所得者や無職者が差別的な扱いを受ける中、社会的弱者である障害者にとっては、国民主権と言う場からも排除され、ますます息苦しい隔離された場に追いやられようとしている。
社会的成功者や大金持ちと言われる連中が、その成功を社会のおかげだとして、それを還元すべく社会貢献の活動すると言うのは、この日本ではほとんど見られない。この辺はアメリカや欧米などとは大きく違うところだ。経済的に裕福になって豪邸に住んで、豪華な調度品を、あるいは豪華な宝飾品を見せびらかせて悦に入っている芸能人などを見ていると、心底腹が立つ。
また個々人ではなく、企業においてもテレビCMなどを見ていると、「わが社は2020年、東京五輪パラリンピックを応援しています」とか「わが社はJリーグを応援しています」などと、好感度上げるようなことをのたまわっているが、はっきり言ってバカ企業にしか思えない。これらの企業で「わが社は障害者施設の建設に力を注いでいます」なんてことをただの一度も聞いた事は無い。ただし公言はしないものの、社会貢献としてやっている企業があるのは事実だ。しかし一方それは、極めて少数派であるのも確かだ。
挙げればキリがないが、このように日本社会と言うのは、昔からの階級社会の名残と、政府による誤った社会的弱者への政策が大きな影響与え、それを正すことなく謝罪もせず、ほったらかしにしてきたそのツケが、国民に蔓延していると言う側面もあるんだろう。



植松被告の犯罪は確固たる犯罪として、動機などを解明しつつ、必要な処罰を与えることとしつつ、今回の事件の背景を幅広く捉えて、植松被告の個人的な犯罪行為だと言うことで終わりにすべきではない。国民全体の中にあると思われる優生思想的な差別意識の問題を、しっかりと分析研究して、どのような対応策が必要なのかを、研究者だけではなく、一人ひとりの個人も真剣に考えるべきだと思う。
コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 三輪弁護士ブチ切れ!癌爺い... | トップ | 杉田水脈氏のLG BT発言に関す... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
贖罪と許しと事実 (芋田治虫)
2018-07-27 19:56:53
ヒトラーユーゲントは被害者であり、国民突撃隊は無罪であり事実上被害者。

「ナチスのやつらはみんな悪いんだ」というのはヒトラーユーゲントなどの少年兵も敵視することで、つまり虐待を受け傷つき死んでいった子どもを犯罪者扱いし敵視することだ。

少年兵は猛獣でも凶器でも大量破壊兵器でもない。

ヒトラーユーゲントだった人がローマ法王や国連事務総長になったり、その任期中に暗殺されなかったから今のようなおかしな世界になったんじゃない。
もし今日までそういうことがなかったら、人類は1999年以前に滅亡していた。

ナチスドイツの国防軍の2等兵と1等兵は無罪だ。

ナチスドイツの国防軍の下士官は犯罪者ではあったがヒトラーでも暴君でもない。

ムッソリーニは独裁者ではあったが暴君ではない。

ファシストイタリア軍も降伏した日に5千人もナチスドイツ軍に虐殺された。

ファシストイタリア軍は無罪だ。

特攻隊と鉄血勤皇隊は被害者だ。

「ナチスのもの」と「ナチスっぽいもの」は違うし「ファシストイタリアのもの」とも違う。もちろん「それっぽいもの」とも違う。

「大事なのは差別をしないこと」ではあるが「差別大国のものや、それっぽいものを根絶することではない」

「ナチスアレルギー」は病気ではありませんが「右翼アレルギー」や「保守アレルギー」は病気だ。

「自分のせいじゃない」というこが一番危険なのではなく「弱い者のせいにすること」が一番危険なのだ。

相模原市障害者施設殺傷事件のような事件が二度と起きて欲しくないのなら、風化して欲しくないなら、もっとひどい事件が起きて欲しくないのなら、この事実を伝えてください。
返信する
Re:贖罪と許しと事実 (kiremakuri)
2018-07-27 21:20:38
 コメントありがとうございます。 なるほど 大局的な見地から の意見としてみると
多々参考になる面があります。 なんでもかんでもじゅっぱひとからげに見るのではなく 、その内部の具体的な 内容を 細かく見ていくことが大事だと思います。
 確かに その時々の 国民の置かれた状況の中で、 強いものを欲すると言う 期待感が たまたま ヒトラーであったり、 ムッソリーニであったり して、そのような状況を 利用したのだと思います。
 平和な国日本 と言いつつも、 普段は善良な 国民でもやはり、 今の 国の状況の中で様々な 不満や ストレスや不安といったものを どこかに抱えており、 そこから 煽動的な 意見や 人物に、 ついつい 支持してしまうような気持ちに陥るものだと思われます。
 そういった意味では 各個々人が 「人権」 という意識をしっかりと 持ちながら、 すべて国民は平等であるとの 信念を しっかりと持つことが改めて重要だと思いました。
返信する
この事実を受け止めてくだい (芋田治虫)
2018-07-28 23:48:01
相模原市障害者施設殺傷事件では19人が殺されましたが、もっと多くの障害者がナチスに虐殺されました。
ナチスによって殺された障害者は20万人もいますが、もっと多くのドイツの子どもたちがヒトラーユーゲントや国民突撃隊にされ、軍隊に徴兵され、前線に送られ死んでいったのです。
「ナチスドイツのやつらはみんな加害者だ」というなら、当時のナチスの少年兵だった人たちに、もしあなたの近所の子どもが、戦争で徴兵され前線に連れて行かれ、無事に帰ってきたら、ましてや傷つき帰っえきたら「刑務所に入れ犯罪者」とか「なんで帰ってきたんだ人殺し」と言えますか?
ヒトラーユーゲントもナチスに殺された被害者なのです。
少なくとも、彼らに罪はありません。彼らは志願してヒトラーユーゲントになったわけでも、虐殺だけしていて、ナチスによって最優先で保護されていたわけじゃありませんから。
返信する
障害者もナチス政権下の子ども達も被害者だった (芋田治虫)
2018-07-28 23:48:53
私は相模原市障害者施設殺傷事件以降、主に戦争に反対する人たちのブログに「ヒトラーユーゲントは無罪で事実上被害者」という本当の事を多数投稿してきましたが、「ヒトラーユーゲントは無罪というのはおかしい」という意見はもちろん、中には「ニュルンベルク裁判や東京裁判で死刑になった戦犯たちを無罪というようなもの」とか「植松以上の基地〇、死刑になれ」いうガンジーや仏様ならともかく、どんなに控え目に言っても普通の親なら全力で殴るようなとんでもない暴言を書かれたこともあります。
こういう事実上「障害者を1人助けるためなら子どもを2、3人殺していい」とか「ユニセフはテロ集団」とでもいる人達がいるから、また同じ事件が起きるし、もっとひどい事件が起きるし、オウムやイスラム国のような、恐ろしいテロ集団や、イスラエルのような戦争大好き基地〇犯罪大国、挙句の果てにはポル・ポトのような「資本主義という腐ったリンゴは箱ごと捨てろ」といいヒトラー以上の暴虐な大虐殺を行う(あまりに怖すぎるので省略)独裁者を生むのです。
「許さない」というほど恐ろしい言葉はないのです。
「憎しみ」というほど恐ろしい病気はないのです。
「根絶する」というほど間違った医療ないし治療はないのです。
返信する

コメントを投稿

社会」カテゴリの最新記事