金攫八幡宮
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/35/63/7e5ef497633ed85102e684d60773f6dc.jpg)
『当、八幡宮は小北山八幡宮とも呼ばれ、今か337年前貞亨二年卯正月(一六八五年)山城国石清水八幡宮より御分霊、この地山城國葛野郡衣笠村字小北山の産土神として大神を崇敬信仰する人々が加護を受け今日に至っています。
祭神は応神天皇で仲哀天皇の皇子、御母は神功皇后であります。
御在世の御名を大鞆別尊と申し一に譽田別尊とも胎中天皇とも称せられます。
天皇の御神徳は我国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められ殊に御長寿なるを以って延寿の大神として厚く崇敬されています。
奉遷より社頭の附近は田圃の向に僅少の人家が散在する状態でありましたが今日では住所も京都市北已平野桜木町となり京都の西北の一角で人々 に親しまれる八幡宮として存在しています。
また、境内東側の大きな木は「黃金モチ」の木です。
秋から冬には赤い実を湛えお参りの皆様をお迎えしています。
本殿は昭和四十二年秋に改修され、それまでの檜皮葺屋根から鋼葺屋根に改め現在に至っています。
令和四年十月
八幡宮』 (掲示板より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/31/363529b226b200df022c67e6c7a65f0f.jpg)
西大路通りを北へ走ると平野神社がある。さらにその北方の西大路通り沿いの西側に、この八幡宮がある。付近は北野天満宮や金閣寺などにも近い。
江戸時代の初めに、石清水八幡宮から祭神をこの地に勧請し たのが始まりとされる。 祭神は応神天皇となる。今では地域の信仰を集める神社として親しまれているようだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/92/cea56642930ad24892084727be07acb4.jpg)
また隣にある稲荷社は正一位 とあるように、伏見稲荷大社の祭神をこの地に勧請し、同じ敷地に建てられている。
江戸時代の初め頃はこの辺りは人口が少なく、田んぼが広がるような土地で人々は農耕の広がりと豊作などを念じて、この地に神社を創建したようだ。やはり石清水八幡宮から祭神を勧請したということで、当時の人々にとってもかなり貴重で頼りがいのある神社であったと考えられる。さらに伏見稲荷大社より稲荷社を同じ土地に迎えて、豊作祈願や商売繁盛 などを祈願したものと言える。
神社名は、金攫八幡宮と言うが、これは「一攫千金」とも解され、縁起のいい名前として 人々の大いなる信仰を集めた。
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西教寺
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7c/5a/15e3ed772f314fe79f3205764c668ac0.jpg)
金攫八幡宮に隣接している。このお寺の情報は全く見つけられなかった。従って創建や由緒等についても全く不明。
建物そのものは寺には見えにくい。 少し独特な雰囲気の建物が街路沿いに建っているという印象であり、従って山門や境内といったものも見かけられない。建物の南の壁に即して、石造物・石地蔵などが並べられていて、少し色が塗られ前掛けのようなものがかけられている。これがお寺らしい目印となる。
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『当、八幡宮は小北山八幡宮とも呼ばれ、今か337年前貞亨二年卯正月(一六八五年)山城国石清水八幡宮より御分霊、この地山城國葛野郡衣笠村字小北山の産土神として大神を崇敬信仰する人々が加護を受け今日に至っています。
祭神は応神天皇で仲哀天皇の皇子、御母は神功皇后であります。
御在世の御名を大鞆別尊と申し一に譽田別尊とも胎中天皇とも称せられます。
天皇の御神徳は我国文教の祖、殖産興業の守護神として崇められ殊に御長寿なるを以って延寿の大神として厚く崇敬されています。
奉遷より社頭の附近は田圃の向に僅少の人家が散在する状態でありましたが今日では住所も京都市北已平野桜木町となり京都の西北の一角で人々 に親しまれる八幡宮として存在しています。
また、境内東側の大きな木は「黃金モチ」の木です。
秋から冬には赤い実を湛えお参りの皆様をお迎えしています。
本殿は昭和四十二年秋に改修され、それまでの檜皮葺屋根から鋼葺屋根に改め現在に至っています。
令和四年十月
八幡宮』 (掲示板より)
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西大路通りを北へ走ると平野神社がある。さらにその北方の西大路通り沿いの西側に、この八幡宮がある。付近は北野天満宮や金閣寺などにも近い。
江戸時代の初めに、石清水八幡宮から祭神をこの地に勧請し たのが始まりとされる。 祭神は応神天皇となる。今では地域の信仰を集める神社として親しまれているようだ。
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また隣にある稲荷社は正一位 とあるように、伏見稲荷大社の祭神をこの地に勧請し、同じ敷地に建てられている。
江戸時代の初め頃はこの辺りは人口が少なく、田んぼが広がるような土地で人々は農耕の広がりと豊作などを念じて、この地に神社を創建したようだ。やはり石清水八幡宮から祭神を勧請したということで、当時の人々にとってもかなり貴重で頼りがいのある神社であったと考えられる。さらに伏見稲荷大社より稲荷社を同じ土地に迎えて、豊作祈願や商売繁盛 などを祈願したものと言える。
神社名は、金攫八幡宮と言うが、これは「一攫千金」とも解され、縁起のいい名前として 人々の大いなる信仰を集めた。
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西教寺
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金攫八幡宮に隣接している。このお寺の情報は全く見つけられなかった。従って創建や由緒等についても全く不明。
建物そのものは寺には見えにくい。 少し独特な雰囲気の建物が街路沿いに建っているという印象であり、従って山門や境内といったものも見かけられない。建物の南の壁に即して、石造物・石地蔵などが並べられていて、少し色が塗られ前掛けのようなものがかけられている。これがお寺らしい目印となる。
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