私の町吉備津

岡山市吉備津に住んでいます。何にやかにやと・・・

“新高山に登れ1208”式なジンムの戦いです

2019-07-25 06:35:47 | 日記
 「ニイタカヤマニノボレ」。これはご存じ「太平洋戦争」の開始を告げるの暗号文です。
 『真珠湾を攻撃せよ』
 この電報で戦闘開始です。それから以後の「皇国日本」は言わずもがなです。

 そのような暗号文が日本で最初に使われたのが、ジンムの兵士が歌った歌の中に隠されていたのです。

        “伊麻宇多婆余良斯<イマ ウタバ ヨラシ>”

 「今、刀を抜いて、土雲を殺す時ぞ。殺してしまいなさい。」で、
 <ヨラシ>は「良い時期が来たようです。今ですよ。」と、歌ったそれを合図に、久米の兵士80人が一斉に刀を抜いて八十人の土雲を
      
     “抜刀一時打殺<タチヲヌキテ モロトモニ ウチコロス>”

 全員を皆殺しにします。有無を言わせずにです。「なんと残酷な」としか言いようのないやり方で殺しています。これがジンムの東征の一場面です。
 それにしても、筑紫や安芸や吉備の人々との接し方とは随分違っていますね????やはりこれは『民族』の違いを表しているのでしょうか。お互いに持つ言葉が異なり意志が通じ合わないから仕方ないと云えばそれまでですが、どうでしょうかね????ただ、風貌の違いからだけしか判断のしようがなかったのでしょうかね。

 

“撃ちて止まん”

2019-07-24 06:04:19 | 日記
 多分、縄文人の「土雲」達の兵士には、弥生人たるジンムの兵士が歌った歌の内容は分からなかったのではと思えます。うっとりして、うまいご飯を食べながら聞いていたのでしょうか????
 その歌は、

      忍坂の大室屋に 
      人多<サワ>に来入り居り 人多に入り居りとも 
      みつみつし 久米の子が
      くぶつつい いしつついもち 撃<ウ>ちてし止<ヤ>まん
      みつみつし 久米の子が
      くぶつつい いしつついもち 今撃<ウ>たば良らし

 です。「みつみつし」とは「満々し」で「自信満々で」、久米の子、即ちジンムの兵士です。
 次の「くびつつい」「いしつつい」は、いずれもジンムの兵士が持っている刀で、「くび」と「いし」ともに刀の「つつい」「椎」で、「柄」のことです。その柄が蛇か何かの頭のような格好をしているものと、石で作られてた物だったのでしょうか、そのような大層切れ味の鋭い最新式の刀を持って

    “撃ちて止まん”

 あの勇ましい軍歌にも使われた、味方の勢いを鼓舞するための言葉です。

    “今撃<ウ>たら良らし”

 「今こそ、それ撃ってのけるときだ。一斉に刀を抜いて、敵を殺せよ。」です。

 考えてみると、随分とあこぎな用法で、何も知らない土雲総てをなき者にしたのです。これが「戦<イクサ>」です。
 考えてみると、日本軍が展開した“撃ちてし止まん”の太平洋戦争でも、これと似た戦術で中国人などまだ未熟な武器しか持ってない人々をどれほど亡き者にしたか知れませんよね。戦争は本当に二度してはいけませんよね。本当に悪の行為ですから・・・・総ての人が、確かに、心に銘じてです。 

 

ジンムの策略は・・・・

2019-07-23 08:51:23 | 日記
 ジンムの作戦は、まずは、獰猛な土雲<ツチグモ>に饗<ミアエ>を与えて、その美味しさにびっくり仰天させます。それも八十人の土雲一人づつに八十個の膳を仕立てて恭しく持って行ったのです。来年の東京オリンピックの為にしているようなその丁重な「おもてなし」に土雲も安心しきっていたことでしょう。しかし、そこに、誠に、汚いと思われる様な落とし穴をジンムは仕掛けたのです。
 それは、八十個の膳を土雲に運ばせたジンムの八十人の兵士の腰に、夫々、そんなものは不要と思われる

       “毎人佩刀<ヒトゴトニ タチ ハケテ>

 鉄製でしょうか????「刀」を差してです。そして、さらに、驚くべき秘策を廻らせていたのです。
 その秘策とは、そのジンムの八十人の兵士のうちの一人に、多分、北島三郎のようないい歌声の兵士に、その席で歌を歌わせます。余興付きの

        “饗賜<ミアエタマヒキ>”

 です。
 今まで聞いたこともないような美しい歌声に、うっとりと、聞き入って、全く安心しきっている土雲の八十人の兵どもです。それにお酒もあったことでしょう???

 その歌とは・・・・・・・私の持つ作文能力の一日の制限字数の五百字が越えましたので続きは、また、明日に・・・

“八十建<ヤソタケル>”

2019-07-22 08:57:55 | 日記
 この「八十建」は人の名前かと思いきや、さに非ずで、宣長も

  “人の名に非ず、八十とは数多<アマタ>の建<タケル>どもをいうなり・・・・・・   さて建<タケル>とは、定まれる名にあらず、威勢<イキホヒ>ありて猛勇<タケ>   き者をいふなり”

 とあり、続いて

    “八十建在其室待伊那流”
    <ヤソタケル ソノムロニアリテ マチイナル>
 
 に付いても、この“伊那流<イナル>”ですが、その意味する所は分からないのだそうですが、
 “若<モシ>は獣の怒るりて吼るを宇那流と云に通ひて聞ゆれば、其意にて、皇軍来たら  ば戦はむと、忿り誥<タケ>びて待居るを云にやあらむ。猶考べし”
 と説明があり、
「土雲<ツチグモ>と呼ばれていた土着の一族の兵を八十人を率いてジンムを攻撃しようとその室で待ち構えていた。」
 と云う意味になるのだと。

 さて、ジンム達一行は、此処でも、この事態に対処するために、難敵なる恐ろしい「土雲」に対処するために、事前に綿密なる戦略を練り、彼らとの戦いに臨むのです。
 その第一の戦術は、

    “饗賜八十建<ヤソタケルニ ミアヘ タマヒキ>”

 です。

 「饗<ミアへ>」食ベ物ですから、縄文人の土雲ですから、まだ、米作りの技術は持ってなかったと思いますから、多分、これは宣長先生も誰も、言及してはいないのですが、私は、敢て、推論しますが、この時、ジンムが御馳走したのは、「お米のご飯」だったのではないでしょうか????生まれて初めて口にするお米のご飯が、余りにもおいしくびっくりして戦う意欲が失われてしまっていたのではないでしょうか。
  
 


“土雲”が現れます・・・・・

2019-07-21 05:44:46 | 日記
       “土雲<ツチグモ>”

 です。宇陀でジンム一行がその勢力を増して、さらに、進みます。そして着いた所が

            “忍阪大室<オサカノオホムロ>”

 です。
 「大室」ですから大変大きな「むろ」です。山裾辺りに大きな穴を掘ってその中に住んでいた人がいる場所です。その人達の住まいは、まだ、竪穴式住居の様な家で無く、山裾の土の中に穴を掘って其中を住居にしていたのです。そんな人達がまだいた事の証明になります。
 だから、ジンムたちは、その人々の事を
             “土雲<ツチグモ>”
 と呼んだのです。
 この土の中に住んでいる人達は身長が低くて、手足がやけに長く、全身に髭ぼうぼうの縄文人では???あたかも「蜘蛛」のごとくに気味のわるい獰猛な野蛮人に見え、ジンム達に敵対しているように見えたのでしょうか、言葉も通じなかたのでしょう、ジンム達は彼等を総て殺害してしまいます。
 この事は縄文人と弥生人の戦いをそれとなく言い表しているように思われて仕方ありません。ということは、まだ、近畿地方以東の国々には「縄文人」が沢山住んでいたと云うことでしょうか???当時、吉備国等西の国々は、既に、縄文人は姿を消しており、そこに住んでおる人達は、総て、弥生人で、ジンムと同族の人達であり、言葉も同じで、意志が通じ合い、戦う必要がなかったから、スムースにその場所を進む事が出来たのでしょう。筑紫にしても安芸にしても吉備にしてもそうだったのでしょうか。「戦い」は出ていません。でも、近畿に入ると途端に、先に見て来たように「那賀須泥毘古<ナガスネヒコ>」や「兄宇迦斯」との戦いがしばしばおこるのです。

 まあ、そんな根も葉もない様な事をあれこれと思い浮かべながら古事記を読んでいくと面白さも倍増しますよね???