古事記によると「“神沼河耳命”のお墓は
“衝田岡<ツキダノオカ>”
にある。」
と記されていますが、「岡」とあるように小高い丘の上にあると云う事は想像がつきます。 現在推定されている「綏靖陵」は、元禄の探陵の際にも諸説が生じ、慈明寺町のスイセン塚古墳が「綏靖天皇陵」に比定されたのですが、幕末の調査の際に改められ、明治11年に、現在の「桃花島田丘上陵」が正式に「綏靖天皇陵」と決まったのです。
このように江戸の昔から「綏靖陵」の場所も何処にあるのか確定されずに、諸説ぷんぷんとしていたことが分かります。
また、古事記では、その場所を単に“衝田岡”としてありますが、この場所が何処かまでに研究してはいません。日本書紀には
“天皇不豫。癸酉崩”
とあり、その場所が何処にあるのかは書かれてはいません。(「不豫」とは病ありて安らかでないこと)
でも、その兄である「神八井耳命」の墓は
“畝傍山北”
とあります。
天皇のお墓の場所が無く、その兄に当たる人の墓の場所が書かれているのも、何かどうしてと云う疑いを持たせるのに十分か資料だと思われますが・・・・・
これも
“欠史八代”
なるものを伺わせるに十分なものではないでしょうか??????
“衝田岡<ツキダノオカ>”
にある。」
と記されていますが、「岡」とあるように小高い丘の上にあると云う事は想像がつきます。 現在推定されている「綏靖陵」は、元禄の探陵の際にも諸説が生じ、慈明寺町のスイセン塚古墳が「綏靖天皇陵」に比定されたのですが、幕末の調査の際に改められ、明治11年に、現在の「桃花島田丘上陵」が正式に「綏靖天皇陵」と決まったのです。
このように江戸の昔から「綏靖陵」の場所も何処にあるのか確定されずに、諸説ぷんぷんとしていたことが分かります。
また、古事記では、その場所を単に“衝田岡”としてありますが、この場所が何処かまでに研究してはいません。日本書紀には
“天皇不豫。癸酉崩”
とあり、その場所が何処にあるのかは書かれてはいません。(「不豫」とは病ありて安らかでないこと)
でも、その兄である「神八井耳命」の墓は
“畝傍山北”
とあります。
天皇のお墓の場所が無く、その兄に当たる人の墓の場所が書かれているのも、何かどうしてと云う疑いを持たせるのに十分か資料だと思われますが・・・・・
これも
“欠史八代”
なるものを伺わせるに十分なものではないでしょうか??????