【1836-1869】
武蔵国多摩郡石田村の出身で、十一歳のとき天然理心流近藤周助の弟子となる。江戸試衛館の師範代となり、文久三年に将軍上洛のさいに護衛する
浪士組に近藤勇・沖田総司らとともに加わる。上洛後は清川八郎に反発して浪士組と離脱して、壬生にて芹沢鴨を局長とする浪士組を結成に加わる。
芹沢らを粛正後局長近藤勇らを助けて、元治元年の池田屋事件などで一躍新選組の名をとどろかせる。慶応四年の鳥羽伏見の戦いに敗北後は海路にて江戸に向かい、近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊と名を変え甲斐に進む。そこで板垣退助らの部隊の別働隊に敗れ、近藤勇が処刑されたあと大鳥圭介らと合流して、北関東、会津、蝦夷と最後まで新政府軍と戦う。明治二年五月五稜郭の近くで戦死する。
武蔵国多摩郡石田村の出身で、十一歳のとき天然理心流近藤周助の弟子となる。江戸試衛館の師範代となり、文久三年に将軍上洛のさいに護衛する
浪士組に近藤勇・沖田総司らとともに加わる。上洛後は清川八郎に反発して浪士組と離脱して、壬生にて芹沢鴨を局長とする浪士組を結成に加わる。
芹沢らを粛正後局長近藤勇らを助けて、元治元年の池田屋事件などで一躍新選組の名をとどろかせる。慶応四年の鳥羽伏見の戦いに敗北後は海路にて江戸に向かい、近藤勇ら新選組が甲陽鎮撫隊と名を変え甲斐に進む。そこで板垣退助らの部隊の別働隊に敗れ、近藤勇が処刑されたあと大鳥圭介らと合流して、北関東、会津、蝦夷と最後まで新政府軍と戦う。明治二年五月五稜郭の近くで戦死する。