戊辰戦争の驍将 板垣退助

板垣退助が慶応四年一月の土佐から出陣したときから幕末の戊辰戦争の活躍を日記形式にその日付と連動しておどとけします。

伊地知正治

2004年12月24日 | 戊辰戦争人物小伝
【1828-1886】
薩摩藩士の子として生まれる。目と脚が不自由だったが、努力して薩摩藩の兵学を学び、藩校の造士館の教官となり西郷従道・三島道庸らを教える。
文久二年に島津久光の上京にあたり軍師としての資質を認められ、軍奉行となる。薩英戦争・禁門の変で藩兵を指揮するなど幕末の薩摩藩の軍事指揮においてめざましく活躍する。戊辰戦争では東山道総督府参謀を命じられ、旧幕府や大鳥圭介の軍勢を相手に北関東・会津にてめざましく活躍する。
会津攻めでは板垣退助とともに戦う。

大鳥圭介

2004年12月24日 | 戊辰戦争人物小伝
【1833-1911】
播磨国赤穂郡の医者の家で生まれ、若い頃に大坂適塾で蘭学を学び、江戸に出て江川英敏の教え受け兵学を学ぶ。慶応二年に歩兵差図役から歩兵頭並となり、戊辰戦争では歩兵奉行となる。江戸開城においてはこれに反対し幕府軍を引き連れて脱走し、土方歳三らと合流し
官軍に抵抗して北関東に転戦するが敗走し会津仙台へと北へ逃れる。
榎本武揚の艦隊と合流し蝦夷地にて榎本政権が樹立すると陸軍奉行として官軍に戦うも、明治二年五月箱館にて降服し、獄に投ぜられるも、釈放され明治政府にて出仕する。