川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

夏の通信簿

2009-08-31 15:23:17 | 父・家族・自分
 今朝、10時半癌研有明病院の主治医の診断がありました。CT検査では右肺に転移したガンは抗ガン剤の薬効で小さく押さえられたままでこの一年変化が見られません。血液検査でも異常はありません。これまで通り、好きなように生活しなさいという診断です。
 嬉しい通信簿です。この2ヶ月も知友との交流に恵まれました。ニンニクをはじめ体によい食品を料理してもらい、適度な散歩も出来ました。こうした最高の生活が出来たたまものだと思われます。友人、隣人の皆さんと家族にいつもながら感謝、です。ありがとうございます。
 これからまた2ヶ月、病を忘れて?巡り来る秋を楽しむことができます。
 息子夫婦とのはじめての旅行も予定されています。川越まつりもあります。どなたもこれまで通りお付き合いください。

 昨日の選挙はほぼ予想通り、民主党の圧勝となりました。我が家では「月」の遺影の前で夜遅くまでTVを見ました。とりあえず、上出来です。選挙によって政権が交代する、間接民主主義が機能する時代がようやくやってきたのです。
 
 わが故郷・高知は鳥取、島根とともに自民党の完勝です。時代に取り残された後進県なのか、はたまた、ぶれない気骨の「いごっそう県」なのか。
 自民党が消滅してしまったら、それはそれで困ることになるのかもしれません。 
 

 福井さん(高知1区)、中谷さん(2区)、山本さん(3区)、これからが大事ぞね。自由民主の名に恥じないしっかりした野党をおまさんらが作る番ぞね。がんばりや。

無残、自民党の末路

2009-08-30 15:18:47 | 政治・社会
 先ほど「月」の遺骨が我が家に帰ってきました。今朝、出棺し、ペット葬儀社の手で火葬に付されたのです。喪主の娘は働きに出ているので妻が受け取り、遺影と庭に咲いている秋海棠の花を飾ってやりました。夕べ僕は不在で帰ったのは深夜1時ごろでしたが、娘と妻はお通夜ということで「月」の思い出を語り合ったようです。「月」の元気だったころのアルバムが2冊食卓の上にありました。
 「月」とともに過ごした日々が今はもう懐かしく感じられます。
  
  さようなら、「月」


 以下は昨日の出来事です。


 正午ころのことです。玄関で「こんにちは」と声がするので出て行ってみたら中年の?女性が「●●の娘です。父をよろしくお願いします」といってビラなどを手渡され、足早に去っていきました。●●はこの選挙区の自民党の公認候補のフルネームです。一瞬の出来事であっけにとられました。
 もっらったものはビラ3種類と名刺でした。
 ①埼玉県選管の証書を貼った●●候補のビラ。
 ②「労働組合が日本を侵略する日 民主党にだまされるな!」などと大書した自民党のビラ。
 ③「民主党と労働組合の革命計画」などと大書した自民党のビラ。
 ④●●候補の名刺。表面下に女性のフルネームが印刷されている。

 これは公選法で禁止されている戸別訪問に該当するのではないかと判断して僕はすぐに二箇所に電話して事実を伝えました。。
 ①川越市選挙管理委員会 戸別訪問にあたり違法だとのことで候補者事務所に連絡するとの返事。
 ②川越警察署 選挙違反の疑いがあるとのことで後刻、刑事が来宅しビラなどをもって行きました。この際、別棟の郵便ポストにもビラ等が投げ入れてあるのを確認。ここにも名刺が入っていましたが表面下に印刷されている女性名は候補者と同姓で、渡されたものとは違います。
 明らかに選挙違反だが警察は選挙に干渉してはいけないのですぐに何らかの対応をするわけにはいかないといって帰っていきました。

 本当に娘さんかどうかはわかりませんがなんだかとても惨めな感じがします。今回の選挙ではこの候補の不利が伝えられており、自民党の年齢制限で比例区には名簿搭載されていません。必死なのはわかりますがこの候補の事務所はしていいことと悪いことの区別もつかないのでしょうか。こういう人が国会議員を永くやってきたのです。

 唖然とするのは置いていった自民党のビラの内容です。民主党が政権をとれば日教組の言うなりになり、「愛国心のない国をつくり、社会主義化しようとしています」などと臆面もなく書いてあります。事実に基づかない謀略ビラとでも言うほかはありません。
 いまどきこんなビラは逆効果かとも思いますが、時の政権党の選挙向けの公式ビラだと思うといささかぞうっとします。敗戦直後の「革命」がささやかれたころの謀略ビラかと思うほどです。こんなことを党を挙げてやっているとしたらなんとしてもこの党に鉄槌を下さなければなりません。この国の自由と民主主義の灯を守り抜くために。僕は麻生太郎を絶対に許さないぞと初めて思いました。


 夕方から東京・荒川区三河島の呉さん宅で「木苺舎」オモニ学校の時代の関係者が集まり久々に交流しました。当時、生徒だったオモニ(お母さん)たちの姿もあり、この半世紀の人生の物語に思わず耳を傾けました。戦後、韓国から親を訪ねて密航してきた人や結婚で来日した人たちでで、H さんやSさんなどに日本語の読み書きを習いました。
 おのおのが人生の話をできる年頃になったのでしょう。遠慮なく自分をさらけ出しています。その後の議論にはこれからを悔いなく精一杯生きたいという願いが感じられ僕もその輪に加えてもらいました。
 かけがえのない一人ひとりの物語を記録し、子孫に伝えていくにはどうしたらいいのか。いつもながら考えることです。
 

「月」死す

2009-08-29 06:10:02 | 父・家族・自分
 昨日、我が家には異変がありました。僕が「川越だより」を発信した直後に飼い猫の「月」が猫用のトイレの傍らで倒れているのに気づいたのです。ここのところほとんど飲み食いをせず、骨皮筋衛門になっていました。それでも娘や妻が獣医さんに連れて行って点滴を受けさせたりしたせいか、よたよたとしながらも外出もしていました。
 とうとう最期のときが来たのかと思いました。今日は一日「月」と過ごそうということで移動教室の下見を中止することにし、朝早くでしたが泰子さんに電話して了解してもらいました。
 娘が連れて行ったかかりつけの獣医の見立ては「老衰」であろうということです。娘はブドウ糖の入った水を飲ませたりして勤めに行きました。昼ごろまでは妻も留守で僕は「月」のそばで過ごしました。

 95年11月、娘と妻が岩殿観音近くの蕎麦屋の駐車場で見つけた捨て猫でした。栄養失調で育つかどうか危ぶまれる赤ちゃんネコでしたが「月」と名づけられて我が家の一員となりました。全身が真っ黒ですが喉のところに白い三日月があるのです。
 飼い主は娘で娘の帰りを聞きつけると玄関で待ったり、入浴中にはドアの外で待ったりします。僕は時々、櫛を使って毛並みを整えてやるくらいです。そんな時にはうれしそうで僕にもなついてくれました。
 数年前、脳梗塞をやって危ぶまれたときもありましたがすっかり元気を取り戻していました。
 「月」は昨夜遅く絶命したそうです。娘と妻に見とられながら。今朝、僕はそれを知り、「月」の遺体の傍らでこれを書いています。
 もともとがひ弱です。老衰にしては少し早すぎるのかもしれません。
 14年間も一緒に生活をしました。大学を中退して帰ってきた娘には特に大切な存在であったと思います。よくがんばったね、「月」。ありがとう、「月」。
 

移動教室の下見

2009-08-28 05:21:01 | 友人たち
 今日は10月25日(日)あたりに予定している第10回きいちご移動教室の下見に行きます。
 中国残留日本人孤児とその家族の方々を中心に深まり行く秋を心行くまで楽しんでもらうのが目的です。今回は日帰りバス旅行で栃木県佐野市や渡良瀬遊水池あたりを案内しようかと考えてきました。
 テーマソングは「里の秋」。栗の拾えるところがないかとバス会社で聞いてみたら10月末にはもう終わっているとか。梨とりんごなら大丈夫のようです。
 昨年秋、足尾を訪ねて鉱毒に犯された山に植林をしてきました。今回は下流の渡良瀬川と渡良瀬遊水池を訪ねて見ようかとも思っています。田中正造たちの闘いの舞台ですが今は広大な葦の原です。こどもたちには広い草原で思い切り遊んでもらえるかな。

 インフルエンザが本格的に流行しはじめました。秋になればもっと猛威を振るい始めるかもしれません。年にたった2回のバスの旅ですが今回は実施そのものもよく検討しなければなりません。下見に行くと行っても難題を抱えての出発です。
 泰子さんが同道してくれます。


選挙公報は届けなくてもいいのか?

2009-08-27 17:36:46 | 政治・社会

一昨日、自転車で県立平和資料館へ遠出をしたせいか、昨日はごろごろしてしまいました。せっかく書いた「川越だより」もなぜか消えてしまい、お休みになりました。再挑戦する力がなかったのです。ごめんなさい。

 川越はこのところ秋の気配が忍び寄っているのか朝夕は涼しく、夜は窓を閉めて休む日が続きます。郊外の田園地帯を通るともう稲穂が頭を下げています。暑くてたまらない日はほんの2,3日だったように思います。おかげで家では冷房の世話になる日はなく、この2ヶ月、つつがなく、夏を楽しませてもらいました。月末になったので恒例の検査と診断があります。いい通信簿がもらえるのではないかな。

 我が家に川越市選挙管理委員会から封書が届きました。選挙公報が2枚(小選挙区と比例区)と最高裁裁判官国民審査公報が1枚入っています。新聞を取らなくなって届かなくなっていた公報に久しぶりに目を通しました。読んで投票の参考になるとはとても思えませんが正確な立候補者氏名やどういう人が推薦しているのかがわかります。国民審査もあるのか、とも思います。

 しかし、僕が感じたのは選管や市長への不信感です。川越市がやったのは新聞折込をやめるのではなく、新聞を取っていない世帯のうち僕のように文句を言ってきたものに公報を郵送したのに過ぎないのです。

 法律は「各世帯に配布する」と定めているのです。有権者であれば誰でも投票入場券と同じように受け取る権利があるはずです。新聞折込は「特別の事情」がある場合にのみ例外的に認められているに過ぎないのです。

 市当局者に市民の参政権を尊重する確固たる哲学がないからこういういい加減なことが続いているのではないかと思われます。うるさい市民には郵送する、そんなことで公務員としての職責が果たせるのでしょうか。市の広報などはちゃんと全世帯に届けられているのです。なぜ、選挙公報をきちんと届けられないのでしょう。

 川合市長はもともとが弁護士です。選挙が終わったら説明を受けに行こうと思います。

 選挙は間接民主主義の根幹です。行政も市民も心してこれを成功に導くように努めなくてはなりません。


高社郷開拓団犠牲者の命日に

2009-08-25 10:24:25 | 中国残留日本人孤児
 高山すみ子様

 先日はご一緒にあなたのふるさと・飯山市福島を訪ね心に残るひと時をすごすことができました。満州に渡るまで働いた阿弥陀堂付近の畑、ご両親の眠る実正寺の裏山、僕にももう故郷の風景のように懐かしく思い出されます。
 お土産にいただいたスイカやたくさんの野菜はその日の晩、秋山郷の「のよさの里・牧之の宿」で料理してもらい、宿のかたがたとともにおいしくいただきました。真夏の旅が続くので、新鮮な美味しいうちに味わいたいという妻の希望で、そうさせてもらいました。鳥甲山のすばらしい景観とともに忘れることはないでしょう。ありがとうございます。

 今日は8月25日、高社郷開拓団の集団自決でなくなられた方々の64回目の命日です。

 高山さんの二人のお子さん、旭さんと怜子さんをはじめ犠牲となった多くの方々のご冥福を遥かに川越の地から祈ります。

 この64年間、なくなられたお子さんたちの瞳を片時も忘れることなく、慰霊と平和の確立に尽力されてきたあなたの歩みに対しても、心から「お疲れ様でした」と申し上げます。四国遍路にも何回も出たと伺いました。
 21歳の若いお母さんでした。「ノノさんになるんだよ」といってわが子をあの世に送った母の気持ちを想像すると、僕でさえ胸が張り裂けそうになります。
 
 四国をめぐっても心は晴れない、思いは届くものだろうかとおっしゃっておられました。これだけの思いが届かないとしたら、誰のどんな思いが届くというのでしょうか。
 高山さんの尊い思いは犠牲になったお子さんの霊を慰めるだけではなく、この地で人として生きたいと願う多くの人々の心の糧にもなっています。
 この春、お目にかかった「残留孤児」の方々や北朝鮮から脱出してきた家族の方々の心に響いて元気と勇気を生み出しています。

 高山さんと苦労をともにされてきた同士の皆さんの長きに亘る活動に心から深い敬意をあらわし、あわせてご健康を祈念します。
 
 10時から中野の慰霊碑前で慰霊祭が始まったはずです。 霊よ安かれ。(合掌)
 
 

僕の注目選挙区

2009-08-24 08:20:14 | 政治・社会
【川越だより】のアクセス・ランキング


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 昨日、川越公園を散歩したあと遠回りをして川越駅西口に出てバス通りを経て帰ってきました。衆議院選挙の候補者の事務所によって各政党のマニフェストをもらってこようと思ったのです。残念ながら見つけることができたのは民主党の候補の事務所だけです。
 ここも真夏の選挙のせいなのか、入り口は閉まっており中の様子はわかりません。マニフェストは入り口においてあります。僕の前にも通りがかった人がとっていきました。
 僕のように事務所をまわってみようと思う暇人がそういるとも思えません。それでも手に入れられたのは一党だけです。何かうまい工夫はないものでしょうか。

 民主党のマニフェストには「川辺川ダム、八ツ場ダムは中止」と明確に書いてあります。
 先日の旅で群馬県中之条町の小渕元首相のお墓に頭を下げてきました。「おろかものの碑」がある定林寺を訪ねた際、墓前を通りがかったのです。八ツ場ダムはこの選挙区内に作られようとしており、ダム本体着工が目前です。小渕元首相の娘さんが自民党候補でダム推進派です。
 選挙戦ではダム建設をめぐってきちんとした論戦が戦わされているのでしょうか。川辺川については「中止」の方向性がすでに出ています。ここではどうなるのでしょうか。民主党は候補者を立てず社民党の候補を推薦しています。
 僕はいまや不必要なことが明らかなダムであり、これ以上の自然破壊をなんとしても食い止める決断をすべきだと考えています。選挙結果に注目しています。小渕さんが大勝するようだと仮に民主党政権が樹立されても「中止」は困難になるかもしれません。「おろかものの碑」を建てた人々の子孫はどんな判断をするのでしょう。

 自民党の幹部であり東京都連の会長でもある石原伸晃さんに社民党の保坂展人さんが挑む東京・杉並区にも注目しています。
 憲法遵守の義務を負う首長でありながら公然と憲法破棄を宣言し、学校から自由の精神を死滅させようとしているのが石原慎太郎都知事です。さきの都議選で知事与党の自民・公明は少数派となり、知事にも政治的打撃を与えたのですが、衆議院選挙で更なる鉄槌を加えてほしいと思います。
 なかでも杉並でもし「護憲」を旗印とする社民党の保坂候補が長男でもある信晃候補に勝てばその政治的打撃は倍増するかもしれません。民主党・国民新党の推薦を得ており、共産党を除く野党の統一候補的な性格をもっています。

 逆に民主党優勢が伝えられる中でこれらの選挙区で社民党候補が勝てないとしたら社民党はその存続が危うくなるでしょう。その意味でも試練の選挙であり、注目しています。

 兵庫県尼崎市で公明党の重鎮・冬柴さんに挑む新党日本の田中康夫さんの選挙にも大いに注目しています。長野県知事時代の「緑のダム」構想の推進、自衛隊を国際救援隊に改組する提案などわが意を得たりの思いがあります。
 公明党にとっては東京の大田代表、大阪の北側幹事長の選挙などとともに絶対に負けられない小選挙区でしょう。不敗の神話が崩れてしまえば党勢は傾きます。

 何人かの元首相など自民党有力者の劣勢が伝えられていますがさてどんなことになるのでしょう。朦朧会見で世界中に恥をさらした中川さんは恥ずかしくて引退かと思いきや酒を断つとかといって立候補。北海道十勝は僕が世話になったところ。友人・先輩たちはどんな風に思っているのでしょう。
 小泉元首相のお子さんの選挙区も気になります。立った子も立てた親も公認した党も今の時代に、いくら何でも有権者をなめているのではないか。横須賀・三浦市民の判断を注視しています。
 

 

啓介のマニフェスト

2009-08-23 06:49:53 | 政治・社会
 総選挙投票日まで一週間となりました。昨日は本川越駅前で河村名古屋市長が民主党の候補の応援をするのを見ました。炎天下、候補者と一緒に自転車で市内を回っているようでした。ひっきりなしにバスが発着するところなので肝心の演説内容はよくわかりません。候補者の演説もスローガンを叫んでいるだけでとても「演説」とはいえません。

 マスコミは民主党の圧勝を予測する「世論調査」を次々に発表しています。さてどういうことになるのでしょう。
 僕は前回の参議院選挙から「政権交代」に賛成して民主党を中心とする野党が連立政権を作ることを支持してきました。
 薩長藩閥政権以来この国を牛耳ってきた「お上」の実態は旧帝大出の官僚たちです。彼らが「政」「業」と癒着して甘い汁を吸い続けてきたことは誰でも知っています。民主党がこの4年間で彼らの特権を剥奪し、「日本を掃除する」というならそれを応援するのは当然でしょう。「圧勝」させて安定した政権を作り、思い切った「市民革命」をやりたいものです。

 <啓介のマニフェスト>

 民主党などの政権公約にないことでこの4年間でやらなければならないと僕が考えることです。

 ①北朝鮮に在日朝鮮人の妻として渡った日本人とその子孫の安否の調査と祖国日本との自由往来の実現を求めます。

 在日朝鮮人の「帰国」に伴って2・3年すれば里帰りできるという「約束」を信じて北朝鮮に渡った日本人妻たちが過酷な差別の只中で行方が知れません。半世紀間もこの問題に知らん振りをしてきた自民党政府も私たちも国民失格、人間失格です。拉致被害者の奪還問題とともに新政府の最重要課題に位置づけるべきです。
 
 

 ②中国に脱北難民のキャンプを作ります。

 北朝鮮を命からがら脱出した人たちは中国でも命の危険にさらされています。中国政府がこれらの人を難民として処遇せず、捕まえては北朝鮮の独裁政権に送り返しているからです。北朝鮮難民の中には60年代に「地上の楽園」だと「だまされて」「帰国」した在日朝鮮人と日本人家族が含まれています。
 新しい政府は中国に対してもしっかりした人権外交を打ち立てなければなりません。日本に帰りたい人々を受け入れるのは当然ですが中国東北部にこれらの人々のためのキャンプを設置させるべきです。費用は全額日本政府が負担する覚悟で中国政府と交渉します。設置主体は国連がいいのかもしれません。
 

 ③特別永住資格を持つ在日コリアンなどに届出により国籍を付与する立法を行い  ます。

 これはこのブログで何回も書いてきたことです。この国の民主主義の基盤をうち固めるために不可欠な立法です。永住資格を持つ中国人等の外国人に地方参政権を付与するかどうかは④の課題を検討することの中で国籍取得制度の整備と関連して結論を出すべきです。

 ④移民の計画的受け入れと多文化共生社会建設基本法を制定します。

 極端な人口減少社会が進行する中で移民の積極的な受け入れは避けられません。若い人を計画的に受け入れ、必要な教育を保障し、将来はこの国の一員になってもらえるように制度を整え、国民の意識を変革していかねばなりません。国家百年の大計をリードする戦略局が必要です。

 ⑤主要都市に民主主義の広場を作ります。

 市民の政治的教養を高め政治参加を積極的に進めるにはどうしたらよいのでしょうか。インターネットの活用などはいずれ実現するでしょうが、人と人が生で議論したり、演説を聴いたり、集会を開いたりすることがもっと自由にできるようにしたらどうでしょう。
 市庁舎の近くや町の真ん中の公園やに「民主主義のひろば」を作ります。市民の手で管理して選挙のときの演説会などもここでやればいいでしょう。市長もたまにはここに出てきて市政の重要課題について市民に直接演説すればよいのです。もちろん市民の集会も自由です。

 国民的集会の場としては今の皇居前広場を改造し「民主主義の広場」とします。
核実験への抗議、核兵器の削減・廃棄の実現、拉致被害者の奪還、国際紛争の平和的解決など、数十万人程度以上の大きな集会の開催などの時に開放します。国会決議になじむ重要な問題については国会が発議して集会を開くことも考えられます。
 「市民革命」を着実に実現していくためには市民の直接的な政治参加が必要不可欠です。

朝日に映える鳥甲山

2009-08-22 08:31:24 | 出会いの旅
 旅の疲れか、昨日は一日ごろごろしました。忘れないうちに信越国境地帯の旅のメモです。

 8月19日(晴れ) 

 5時ごろ目覚めたので露天風呂へ入る。鳥甲山がぐうっと迫ってくる感じがする。苗場山方面に上がったはずの朝日が岩肌に映えて赤く染まっていく。
 自然が織り成す荘厳な風景に感動して久しぶりに歌一首が生まれるかと思ったがだめだった。写真に収めておこうと部屋に戻り、妻にも朝風呂を勧める。

 写真を撮ったあと、ぼくは「牧之夢歩道」を歩いて「天池」の探索へ。夕べ歩いてみたが標識がキャンプ場で途絶えて天池に行く道を発見できなかったのだ。キャンプ場を出て車道を少し歩くとその池はあった。半周してみた。
 静寂の中に息を呑むような景観があった。池畔の白樺の幹はもちろんのことだが森の向こうにそびえる鳥甲山までが池に映し出されている。大正池にあるような枯死した木の切り株が小さな岩のようだ。天辺に盆栽のように何かの木を養っている。

 さらに歩いて池を俯瞰する道の上に出てみると畑と森の向こうに朝日に輝く鳥甲山のパノラマがあった。清浄な空気の中にその全貌が鮮やかだ。
 こんな景観を独り占めするのはもったいない。宿に帰ってまだ夢の中にいるカツヨシさんを起こし、妻と3人で再訪したのは言うまでもない。今度はインゲン畑で収穫をするご夫婦に出会った。道端の畑に咲いている美しい花が「夕顔」だと教えてくれた。

 この里を訪ねて本当によかった。僕だけでなくほかの二人もそう思ったに違いない。
 残念なことはキャンプ場に来ている人たちでさえ、天池のありかに気づかないことだ。どこにも案内図や標識が見当たらないのだ。これはどうしたことだろう。
 ぼくは探索の帰りにキャンプ場の一人に情報提供しておいた。再訪の時には池畔をめぐる親子の姿があった。
 
 中津川に沿って下って午後は新潟県の松之山へ。ぶなの若木が美しい「美人林」を散歩したあと、大厳寺高原。ここでもぶなの山道を歩く。カツヨシさんがぐいぐいと登って先行する。めずらしいことだ。昨日今日とアチコチでぶなの森を歩いたので日ごろの疲れが吹き飛びもともとの元気が恢復したのだろう。
 おふくろ館、8時には夢の中。

 8月20日(木)晴れ

 夕べカツヨシさんがめがねを壊したというので十日町に行く。30余年前はじめてこの地方を訪ねたとき、バスの中で抱いていた娘がおしっこをして僕のズボンが濡れてしまった。終点の十日町駅前で妻がトレパンを買ってきてくれた。思い出の地だ。

 めがねの修繕が済むまでの間に十日町市立博物館へ。付近の笹山遺跡から出土した火焔型縄文土器が展示されている。大きくて立派な土器が壊れることもなく当時のままの姿をみせている。それ自体が不思議だと妻が言う。発見されて国宝に指定され10年になるという。
 縄文時代の人々の生活をわかりやすく展示したコーナーがいくつかある。竪穴式住居で団欒する家族の展示があった。一家が笑顔で迎えてくれたような気がしたので思わず「こんにちは。お邪魔します」と挨拶した。
 この博物館の名誉館長は梅原猛さんだという。僕が人生の後半でいろいろと教えてもらうことが多かった哲学者だ。哲学嫌いの僕にもわかりやすく話してくれる人だ。そのせいか、ここにくると縄文の時代の人々の生活と心がよくわかる。食べ物ひとつとってもたくさんの木の実の実物がそれぞれざるに山盛りされている。こんなものをどうやって食べていたのか、誰もが調べたくなるだろう。十日町のこどもたちは幸せだと思う。

 9月5日には「縄文の心を未来の里山へつなぐ」と題したコンサートや講演会がある。縄文文化が博物館に眠っているのではなく生きて未来を照らし出す。そんなところがここにはあって哲学発信の拠点になっているのかと感心する。
 八海山が見えるかと魚沼スカイラインを塩沢に向かう。快適な尾根の上を走る道だがあいにく今日は遠景が効かない。
 塩沢で昼食の後17号でゆっくりと帰途に着く。猿ヶ京の赤谷湖のダムサイト公園で一眠りしたあと、渋川から関越に載る。

鳥甲(とりかぶと)山

2009-08-21 17:18:29 | 出会いの旅
 8月18日(火)晴れ
 高山すみ子さんから電話がありお宅にお邪魔する。昨日大玉のスイカをいただいたばかりなのに今朝収穫したばかりのナスなどたくさんの野菜を持っていけといわれる。
 25日が64回目の命日になる「満州」で死んだ二人のお子さんの冥福を祈って仏壇に線香を上げさせてもらう。
 うれしかったのはすみ子さんの娘さんと孫の雅是(まさゆき)さんにお会いできたことだ。雅是さんは身長が190cmもあるがっちりとした体格、まさに偉丈夫だ。惚れ惚れとしてしまい、一緒に写真を撮らせてもらった。今秋、結婚式の予定という。
 すみ子さんの笑顔がこぼれる。自慢の孫にどんな花嫁さんが来てくれるのだろう。今度お訪ねするときの楽しみが増えたというものだ。
 カツヨシさんを福島の阿弥陀堂に案内するといったらすみ子さんも同行してくれることになった。福島はすみ子さんの故郷でご両親のお墓もある。
 こうして思いがけないことに4月以来、再び福島を訪れ、すみ子さんとの濃密な時を過ごすことができた。実正寺の裏山のご両親のお墓にも詣でた。お盆にはこられなかったらしく喜んでくださった。

 昼近くにカヤの平に着く。信州大学が管理するすばらしいブナ林を散策したあと昼食、昼寝。ミズナラの巨木の下にシートを敷き、3人が並んで寝る。至福のときだ。
 奥志賀林道、雑魚川林道と緑のシャワーを浴びながら秋山郷に入る。「のよさの里・牧之の宿」に着いたのは4時半。
 ぼくが秋山郷を訪ねるのは3回目だがこの宿に泊まるのは初めてだ。われわれの経済力ではやや高く(9600円)敬遠していた。泊めてもらってこんなにすばらしい宿はそうはあるまいと思った。
 母屋の後ろに10軒ぐらいの分家があってそれらが長い回廊で結ばれている。僕らは一番手前の市エ門宅。大きな囲炉裏を切った板の間と寝室が二部屋。田舎に帰ってもこんなに落ち着くところはない。それにこの広大な施設に今夜世話になるのは私たちだけ。お盆が過ぎて急に秋風が吹き始めたのだろう。
 露天風呂に入る。真正面に鳥甲山が全貌を見せる。峰峰がいくつも連なる険しさを感じさせる山だがまるで丸木位里画伯の屏風画を観ているようだ。飽きることなく長湯をしていると新潟から来たという相客があった。近くにキャンプしに来たらしい。
 夕食は母屋の食堂だがこれがまたすごい。分家の何倍もある大囲炉裏の周りに広がる板の間。窓際の食卓で暮れ行く鳥甲山を眺めながら山の幸に舌鼓。高山さんにいただいた野菜も料理して出してくれる。スイカは冷やしてくれて宿の方ともどもご馳走になる。

 美酒に酔ったのか8時ころには夢の中。
 

 

無事帰越

2009-08-20 21:40:37 | 父・家族・自分
 今朝、新潟県十日町市松之山を発って、今夕6時過ぎに無事川越に着きました。中華料理店・家園に娘も来て4人で食事をしながら旅の思い出を語り合いました。いつの間にか話題は衆議院の選挙に。楽しく旅をすることができたことを喜び合って9時前に解散。カツヨシさんはバスに乗って帰途に就きました。旅の報告は他日を期すことにします。留守中も変わらず「川越だより」を覗いていただいてありがとうございます。

木島平から

2009-08-18 06:39:41 | 出会いの旅
 カツヨシさんとの旅が始まりました。渋川ICから草津に向かう途中でまず中之条の「おろかものの碑」に寄ることにしました。
 定林寺の山門にいって見ましたが前回来た時と何も変わっていなくて少し残念。碑そのものが見えにくいところにあり、仮に発見しても誰が何のために立てた碑か分からないのです。説明板の設置を検討すると郷土資料館の館長さんの言葉を貰ったのはいつのことだったのか?
 一人の女の子が付近の歌碑の写真を撮っています。きけば小学6年生です。夏休みの課題に挑戦しているのかな?「おろかものの碑」を教えてやりました。碑の後ろに回って建碑の趣旨を解説してやると関心を深めたようです。あちこちから角度を変えてこの碑の写真を撮り始めました。
 いかにも聡明な少女のように見えました。夏休み明けの学校で「おろかものの碑」が話題になるような予感がしてうれしくなりました。

 大岩学校に寄った後暮坂峠の牧水の碑を見上げながら昼食。涼しい風が吹き抜ける峠の頂上で美味しいそばをご馳走になりました。

 草津から志賀高原へ。さわやかで美しい高原の道を満喫。信州大学の自然研究路を散歩した後、奥志賀道路で木島平に着いたのは5時前。
 高山すみ子さんを訪ねて5月の礼を言いました。突然のことにびっくりされたことでしょう。日に焼けてとてもお元気そうです。「オラが作ったスイカだ」といって大きなスイカを持たせてくれました。

 今日は秋山郷をのんびり訪ねます。これから朝風呂です。

ブナ林・信越国境地帯

2009-08-17 05:53:54 | 出会いの旅
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アクセスとランキングの状況を表示します。ランキングは上位10000件まで表示されます。

過去1週間の閲覧数・訪問者数とランキング(日別)


日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2009.08.16(日) 543 PV 251 IP 3829 位 / 1275535ブログ
2009.08.15(土) 651 PV 227 IP 4392 位 / 1275076ブログ
2009.08.14(金) 428 PV 187 IP 6046 位 / 1274680ブログ
2009.08.13(木) 668 PV 228 IP 4633 位 / 1274243ブログ
2009.08.12(水) 641 PV 248 IP 3977 位 / 1273864ブログ
2009.08.11(火) 664 PV 245 IP 4197 位 / 1273425ブログ
2009.08.10(月) 769 PV 246 IP 4488 位 / 1272967ブログ



過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)


日付 閲覧数 訪問者数 ランキング
2009.08.09 ~ 2009.08.15 4392 PV 1563 IP 4791 位 / 1275076ブログ
2009.08.02 ~ 2009.08.08 4234 PV 1413 IP 5409 位 / 1272126ブログ
2009.07.26 ~ 2009.08.01 4001 PV 1590 IP 4289 位 / 1268909ブログ


 お盆も明けたので小旅行をすることにしました。昨日、半日かかって計画を立てました。カツヨシさんが同行してくれるので楽しい旅になるでしょう。


 17日(月)志賀高原  木島平村 パノラマランド泊

 18日(火)秋山郷  栄村 のよさの里・牧之の宿泊

 19日(水)松之山  十日町市 じょうもんの湯おふくろ館泊

 20日(木)八海山   川越

 どの日もブナ林を歩いたり村里を訪ねたりします。この春、きいちご移動教室で訪ねた木島平では高山すみ子さんにお会いできるかもしれません。
 ほかも何度かたずねたところですがカツヨシさんを取って置きのところに案内するつもりです。

 18日には総選挙が公示されます。旧友の中には立候補する人もいます。並大抵のことではありません。ご苦労なことです。私たちも自分なりに考えてそれぞれの方法で政治参加していきたいものです。
 

ハーヴィー・ミルク

2009-08-16 06:52:02 | 政治・社会
 8月15日(土)晴れ
 
 妻と娘に薦められて映画『MILK』を観る。ゆっくり朝寝をして眠くならないようにして「スカラ座」に行く。10時半開始。観客は妻を含め数人。

 ミルクと聞いてもそれが人の名であることも知らなかった。先日、おすぎさんの講演会に出た妻と娘から映画のビラをもらって初めて知った。
 1970年代に同性愛者であることを公表して初めてサンフランシスコの市会議員となり、同性愛者を教職から排除する条例の制定を阻止する運動などのリーダーになったが暗殺されたという。。

 僕は「性」のことを話題にするには苦手である。しかし、教員であり若い人たちと生きてきたから避けられない課題である。「倫理」の授業でも何時間か「性ー生」について考えた。性同一性障害に悩む生徒にも出会った。こんなときにもイロハから娘に教えてもらった。
 こんなことがあったから映画館に足が向いたのである。

 驚くことばかりである。ミルクを中心とするサンフランシスコのゲイのコミュニティーに集まる人々のエネルギー。公然と同性愛者を攻撃し、差別する人々の運動。これがアメリカなのか。

 wikipedia の記事である。(抜粋)

 彼は1977年の3度目の立候補で市議に選ばれた。ミルクはゲイであることを公表した人として初めて合衆国の大都市の公職に選ばれた。また全米公職者としてはキャシー・コザチェンコとイレイン・ノーブルに続いて三番目だった。ミルクはカストロを含む第5区の代表だった。

 彼は11ヶ月の在職期間中に、犬の糞の放置に罰金を科した有名な条例や、市の同性愛者権利法案を後援した。また、ブリッグス州上院議員の支援で制定を目指していた、教職にある同性愛者をその性的指向を理由に解雇できるとする「条例6」の破棄に尽力した。条例6は1978年11月にカリフォルニアの住人によって完全に否決された。

 1978年11月27日に市庁舎でジョージ・マスコーニ市長とともに射殺された。

 家族からさえ差別され、生きる希望をたたれるこどもたちの姿もあった。ミルクはこれらの人々の希望の灯火であった。やがて同性愛者だけでなく差別を受けるマイノリティーの支持を得て「変革」と「希望」を託された政治家になろうとしていた。その人が殺されたのだ。

 彼を追悼するサンフランシスコ市民の果てることのないろうそくの灯の行進がこの国の希望のありかを示している。
 30年後、オバマさんがアメリカの大統領になった。ミルクとともに闘った人々はいまもその志をついで活躍中だと映画の最後に紹介されていた。アメリカは着実に変わりつつあるのだろう、か? そう信じたい。

 夜は遅くまでNHKの「核」をめぐる討論番組を見た。こういう企画はいい。NHKはゴルフや大リーグの放送はやめて、市民の広場であればいいのだ。カネもかからないだろう。


戦争を記憶する(続)

2009-08-15 06:11:04 | 中国残留日本人孤児

昨夜NHKの番組が陸軍の末端幹部であった人が部下のほとんどを犬死させた事実に恐れおののき、戦後60余年社会に顔を出さなかったと伝え、その方の言葉を紹介していました。人のあり方として深く考えさせられます。
 僕は昭和天皇のことを思いました。退位することもせず、恥知らずにも人前に立ち続け、日本人の道義を荒廃させた張本人です。この人の影に隠れて岸信介・中曽根康弘などの歴代宰相は戦争を美化することが愛国であるかのごとき風潮を振りまきました。その弟子である石原慎太郎都知事とその郎党は今日なお恥ずかしげもなく愛国を気取って、侵略を美化する教科書を教育現場に押し付け、「君が代」は歌えないという少数の教員を処分し続けています。
 左派にイデオロギー的な偏向があり、戦後一貫して国政を任せなかった国民の判断は尊重しなければなりませんが、今日なお石原慎太郎とその郎党に一票を投ずる人々の判断は本当に正しいのでしょうか。折からの選挙に当たり、大いに議論してほしいことです。

 さて僕の心に残った戦争にまつわる話の二つ目です。

 高山すみ子さんのお話です。「きいちご移動教室」の下見に行って初めてお会いしたときと5月9日に皆さんと一緒に聞きました。

 佐渡開拓団跡の集団自決の証言です。高山さんは21歳で二児の母親です。
 『ノノさんになるんだよ 満蒙開拓奈落の底から』(日本図書センター刊)から書き写します。


 8月25日

 (略)この佐渡開拓団跡で何千人の人が死んだのかわからない。そのほとんどが銃殺だった。高社郷だけでも570余人が死んだといわれている。
 井戸の中へこどもを投げ込んだ人もいる。井戸はたちまちいっぱいになって、死に切れない人もいた。そういう人は上から銃で撃って殺してやった。
 どの家もどの家も、自決した人たちの死体でいっぱいになった。日本人同士、敵味方の殺し合いを見ているうちに、私も覚悟を決めるよりほかなくなった。

 私が、旭を背負い、怜子を抱いて馬小屋へ入ったときには、仲間のほとんどは自決していた。
 ふたりのこどもを胸に抱き、最後のキャラメルを食べさせた。そして、
「ノノさん(仏さん)のところへ連れて行ってあげるから、母ちゃんの言うとおりにするんだよ」
と言い聞かせた。
 四歳になる旭は、
「ノノさんのところに行けば誰がいるの」
と聞いた。
「ノノさんのところには内地のおじいちゃんもいて、白いご飯がたくさん食べられるんだよ」
と答えた。
こどもたちはにっこり笑った。
「じゃあ、早くノノさんのところへ連れてって」
と旭がいうと、怜子もうなずいていた。
「おじいちゃんのところへ行くにはどうすればいいの」
と聞くので、
「こうやって手を合わせていればいいんだよ」
と、東の方を向いて手を合わせてみせると、こどもたちは私のまねをして手を合わせた。

 私を中にして、右に怜子、左に旭を座らせると、間髪を入れず先生の撃った銃声が聞こえた。怜子は瞬間、兎のようにピョンと2メートルも飛び上がり、旭も血しぶきを上げて絶命した。私は今でも私をじっと見つめていた二人の子供の顔と姿が脳裏に焼きついている。

 二人の死体を片付けて、私の死ぬ番が来た。

 以下(略)

 この本はお近くの図書館にあるはずです。読んでみてください。

 よっぽど覚悟を決めた人でなければ人前で話すことはできません。でもそういう体験を持った方々が私たちの近くにおられるのです。問題は私たちの側にあります。問題意識を持って学ぶ姿勢があるかどうかです。人生の最後に本当は伝えたかった思いを誰もが聞いてくれないとしたらどんなにかさびしくむなしいことでしょう。
 戦争を知らない世代が大半です。僕もその一人です。高山さんの旭さんと同じ年です。知らないと開き直っている人を僕は尊敬しません。若い人でも同じです。わかることは難しくても知る努力をしなければ軽薄な人間になるだけです。身近な人に直接聞いた話は僕のような苦労知らずでもすこしは身について行くような気がします。
 どうしてこのようなことになってしまったのか、どうしたら戦争をせずに国際紛争を解決できるのか、今を生きる市民の一人として精一杯学び、議論する一日でありたいものです。