川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

北朝鮮②ある脱北帰国者のブログ

2009-03-30 07:33:45 | 韓国・北朝鮮
ここのところ気温が低い日が続いたせいか意気が上がりません。妻は風邪で休んでいました。
 今日は北朝鮮を脱出してきた家族との花見に招かれたので上野にいきます。まずは小学生の姉弟と上野動物園。最初の生徒だった服治くんが案内してくれるそうです。彼の仕事の最終日に世話になれるのですから感謝感激です。
 日和も良さそうです。徐々に元気が出てくると思います。

 この家族のリーダーである李さんが書きつづっているブログがあります。半世紀前、帰国事業で北朝鮮に渡り、近年命がけの脱出を果たした元在日コリアンです。今は日本国籍を取得しています。一昨年、娘さんと二人の孫を脱出させました。今はこの家族の日本社会への定着に東奔西走されています。07年10月から読むといいかもしれません。

 ぼくの友人やかつて生徒だった人がこの家族を支援しています。
 皆さんが時間を作って読んでくださるようにお願いします。

     「帰国者チャンネル」   http://blog.livedoor.jp/kikokushachannel/

 
 以下は昨日の続きです。
  
  拉致被害者家族と出会うとき(上)
  <7・20在日コリアンと日本人の集い>について(つづき)

〈7.20に至る私の歩み〉

10・15  新宿山吹高校で『国家犯罪と民族的責任』というテーマで北朝鮮と日本の国家犯罪についての基礎的な事実を学び、私たちにはどんな責任があるかを考える授業を始める。
とっかかりは、日朝平壌宣言と金時鐘さんの論文“「冷酷な事実」拉致事件”(産経・10/4)を読むことから。(「考える会」機関誌『木苺』114号に報告記事)

10・20  「考える会」世話人会に高柳俊男さんと谷川透さん(お二人とも「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」で活動。谷川さんは強制連行事件の企業責任を追及してきた人)を招き、意見交流。「拉致事件に対する在日韓国・朝鮮人の声明」(高槻むくげの会・李敬宰さんら。10/4)に共感の意見が多く、私たちも何らかの態度表明はできないかと考えたが、呉崙柄さん(荒川区・コブクソン子ども会)から「犯罪者の兄をもつ家族の心境で頭をあげられない」という家族や友人たちの現状が語られる。私たちとしては当面、拉致問題をひとりひとりがどううけとめたかを文章化し、『木苺』で交流していくことにする。

11・10  かつて総連系企業で働いていた李福子さんの話をきく。

12・1  『週刊金曜日』の成沢宗男さんに抗議・申し入れ。「北朝鮮報道を考える」(11/29号)の中で、石高健次さんの発言に反論するとして、梁澄子さんが「愛媛の親戚の子は体にアザができるほど殴られた」と語ったことが紹介され、中見出しには「日々、殴り殺される恐怖が」とついている。
梁さんの署名入りの他の文章では同じことが「愛媛に住む娘の友だちから“学校の帰りに知らない人に殴られて体中アザだらけ。怖い”というメールがきたそうです」となっている。私はこれを読んでほんとうにびっくりした。

「体中アザだらけ」になるほど朝鮮学校に通う子どもが殴られたとしたら、それこそ大事件である。“殴り殺される恐怖”も決してオーバーではないだろう。梁さんは「被害にあった在日はマスコミを信じていないからいいたくないだけなのだ」といっているが、そんなことでいいのだろうか。親戚だというのであれば、飛んでいって事情を聞き、社会にきちっと問題提起をするべきではないか。

私はさっそく梁さんに電話をして、愛媛のコリアンの友人たちの名前をあげ、彼らにも協力してもらっていっしょにとりくもうという気持をつたえた。梁さんからのこたえは私には意外だった。「多摩地域の学校では今回はチマチョゴリ事件のようなことは起こっていない。むしろ声をかけて励ましてくれる人がいるくらいだ。
愛媛は田舎だからかもしれない。私は親戚の子だとは発言していない。修学旅行で東京に来たとき娘が知りあった友人からメールがあったということだ」。

それにしても梁さんの発言は事の重大さがわかっていない。すぐに『金曜日』にTEL。成沢宗男という人が出る。偶然、この記事の担当者だという。梁さんは確かに「親戚」と発言した。テープもあるという。それなら梁さんと相談してしっかり取材して、この話のウラをとってくれ。そして誌上で報告してほしいと私は申し入れた。

こんな重大な事件のウラもとらず、ただたれ流すだけだったら『金曜日』は民衆を煽動するアカ新聞と同じだともいった。直後にさまざまな資料を必要だったらいつでも編集部に出向く旨のメッセージも添えて送った。1年後にも手紙を出したが何の反応もない。
 これはいったいどういうことであろうか。私は左派知識人たちが9・17以後のマスコミなどの報道を「北朝鮮バッシング」と称し、在日の子どもたちの被害を強調し、それらとたたかうことが身の証でもあるかのような行動をしていることに不快感を禁じえない。

石高健次さん(朝日放送)が孤軍奮闘して切り拓いてきた拉致事件の報道が、9・17以後、まるで官許をえたように玉石混淆、洪水の如く流れるようになったことには、いつもながら脅威を感じるが、北朝鮮の権力犯罪の報道をタブー視し、拉致被害者家族や北朝鮮の民衆の苦難をみてみぬふりをしてきたころよりはずっとましだと思っている。

北の独裁者の蛮行と朝鮮人学校に通う子どもを短絡する人が多いほど、在日コリアンの人権状況が悪化しているとは私には思えない。このことにかかわって今必要なことは、朝鮮総連の責任者が在日コリアンと日本社会に「北」の指導部のいいなりになってきた責任を明らかにし、謝罪することである。

そして各級朝鮮学校の教師たちが自分たちの教育活動を点検し、拉致事件をはじめ、独裁政権の権力犯罪についてきちんとした情報を子どもたちに伝え、自分たちはどうしたらいいかを共に考えることである。
今までに植えつけられた価値観と日本社会から否応なしに吹きつけてくる情報で子どもたちはパニックになっているかもしれない(これはいうまでもないことであるが日本の学校に通っている子どもたちにとっても本質的には同じことである)。
 

学校設置者でもある朝鮮総連の議長が責任をとらないままで、学校の教師が自己改革をできるとはとても思えない。敗戦後の日本人教師のことが思い出されるが、先に書いたように日本の学校の教員である私ですらある種の決断を必要とする困難な作業である。

朝鮮学校の民主化のためにたたかってきたコリアンの保護者たちの真価が問われる時ではないだろうか。重要なことは、独裁とたたかい、人権をとりもどし、民主主義を確立することである。子どもたちもまた、そのようなたたかいの中にいることによって、はじめて順調に自己形成をとげていくことができるのではないだろうか。

もちろん、私は日本人のいやがらせや暴力が絶無だろうとは思っていない。愛媛であったというような事件がもしほんとうであるとすれば、私たちは全力をそそいで真相を究明し、社会に問題提起していかなければならない。しかし、もし事実でなかったり、事実を誇張したりして発表しているとすれば、それは民衆間の不信を促進するだけでなく、在日コリアンの子どもたちの自立にも大きな障害をもたらす。
差別の現実をしっかりと伝えることは、生き、たたかっていく上で大切だが、それを誇張したり間違った情報を伝えることは、子どもたちの判断をあやまらせ、その可能性を閉ざすことにもつながる。
 
それにしてもこの雑誌の編集者の不誠実さにはあきれる。事実の訂正もせず、問題提起者に「わかりました」と答えておいて、黙殺しているのである。

12・8  『木苺』110号〈拉致事件を考える〉

12・22  行方不明帰国者家族証言集会。姜チョルファンさん、幸さん、芝田弘之さんらにつづいて横田滋・早紀江さんの話もはじめて伺う。(日比谷・星陵会館)

2・15  「拉致被害者家族を支援する在日コリアン関西集会」。横田ご夫妻・有本ご夫妻が講演。総連の分会長・白さんの出席が注目されTV放送される。

3・9  脱北者証言集会(神田・韓国YMCA)に参加。

3・23  民族共生教育をめざす東京連絡会連続講座⑲「北朝鮮問題と私」。呉崙柄さん、高柳俊男さん、田中宏さん、金敬得さんらの発言のあと、率直な意見交換。(『木苺』112号に概要と呉さん、高柳さんの話)

5・25  「考える会」が荒川三河島で運営してきた木いちご舎が閉鎖されることになりサヨナラパーティ。大阪で在日コリアン集会をひらいた李敬宰さんより東京でもとりくんでほしいというアピール。参会者有志これをうけ実行委結成を確認。

5・28  第1回実行委。「考える会」「保護者会」「定住外国人の公務員採用を実現する東京連絡会」などの有志に高柳さんなど参加。集会名を「拉致被害者・家族の声をうけとめる在日コリアンと日本人の集い」とし、集会内容の骨子をきめた。

これ以後、よびかけ文について討論し、6月11日の実行委で成案をえたので、実行委員がそれぞれ友人・知人に示し、よびかけ人になってもらうよう働きかけることになる。「考える会」にしても、民族共生教育をめざす東京保護者会にしても、考えがさまざまであることが予想され、個人の判断が大切であると考えたからである。

よびかけ文は次の通りである。一人一人のうけとめ方にちがいがあり、一つの文章にするのは大変だが、この半年の意見交流をふまえ、田中勝義さんが最終的にまとめたものを実行委で討論のうえ、了解したものである。

よびかけ文

●私たちは、国籍や民族の違いを超えて、互いの人権を尊重し共生できる社会をめざし、戦後補償や民族差別の問題に取り組んできた在日コリアンと日本人です。昨年9月、拉致問題が白日の下にさらされたとき、多くの人々に、大きな衝撃が走りました。「まさかそこまで」という驚き、「そんなことがあろうとは」という失望と怒り、「日本人は過去にもっと残虐なことをしているではないか」という憤り、「それにしてもマスコミの過剰報道はひどすぎる」という苛立ち、「在日の子どもたちへの嫌がらせが頻発する」という不安、「日本の排外主義が台頭してきている」という恐れの声……。「テレビのワイドショーを見るのはつらい」「殺人を犯した犯罪者の家族のような思い」と率直に語る在日コリアンの声も聞かれました。
●あれから9か月。私たちは、多くのことに気づかされてきました。北朝鮮の国家犯罪の数々に触れるチャンスがありながら、それらを看過してきた私たちの洞察力の欠如や甘さ。拉致という人倫にもとる国家犯罪は、過去の植民地支配や民族差別と相殺されるものではなく、それ自体、厳しく指弾されなければならないこと。マスコミの北朝鮮に対する揶揄的・戯画的報道の品性や底の浅さには問題があるが、北朝鮮の民衆の飢餓の状況や脱北者の苦難から目を背けてはならないこと。在日の子どもたちのアイデンティティの確立のためにも、今、怒りを内にこもらせて口をつぐんでいてはいけないこと。北朝鮮の脅威に乗ずる形で憲法改正へと突き進む日本の新国家主義者と厳しく対峙しながら、武力による解決ではない道を進むべきこと。コリアンが被害者の意識で民族主義を鼓舞するのではなく、日本人が贖罪意識に基づいて展開するのでもない運動の質が、今こそ求められていること。かつて韓国の民主化闘争に共感し、学び、連帯を声高に表明した者が、北朝鮮の苛酷な人権抑圧には口を閉ざしたり無関心であったりする、そんなダブルスタンダードは決して許されるものではないこと。……私たちは、今、そのような視点から、改めて拉致問題に向かい合う必要性を痛感しています。
●そこで私たちは、拉致被害者家族の声をうけとめる集会を計画しました。北朝鮮の国家犯罪の故に深甚な苦難を強いられている拉致被害者の声に耳を傾け、民族を超えた民衆の連帯の道をめざします。国家に人生を翻弄された者同士の、「加害」「被害」の関係を超えた(それらを相殺するのではなく、そのどちらをもきちんと見すえた)人間としての出会いと共感の場にしたいと願っています。拉致被害者家族の声を真摯にうけとめ、私たちの弱点を見つめ、私たちのなすべきことを考えたいと思います。私たちは偏狭な民族主義、愛国主義、国家主義など、戦争への道に反対します。おかしいことをおかしいといい、許せないことを許せないとはっきりと主張し、行動することが、戦争への道と違うあらたな共生の道を切り拓くものと信じます。
 あなたの参加を呼びかけます。




北朝鮮① 「9・17と私」

2009-03-29 06:34:27 | 韓国・北朝鮮
 北朝鮮のミサイル発射実験を前にして、日米のイージス艦が日本近海に展開するなど準戦時体制がとられるようになりました。北朝鮮の独裁者がいつでも核弾頭を日本やアメリカに落とせるぞと威嚇するための実験です。どうしたらこのような蛮行をやめさせられるのか?
 民主党を始め野党ははっきりとした考えを示し、国民的議論をしなければなりません。私たちも無関心を装ってはいられません。事態がこのまま進行すれば取り返しのつかないことになりかねないのです。

 かくいうぼくも2年9月17日までは「北朝鮮」について意識してふれないようにしてきました。在日コリアンの人権にかかわる社会運動を生涯の課題としてきた者としてはこの上なく無責任な態度です。9・17の衝撃をきっかけにこの態度を改めて自分に出来ることを模索してきました。
 しかし、今このような事態に立ち至ってどうしたらいいのか、考えもまとまらないのが実情です。皆さんは、どうですか?
 
 9・17以後、ぼくが書いたいくつかの文章を思いつくままに紹介します。何かの参考になればと思います。

 

   拉致被害者家族と出会うとき(上)
〈7.20 在日コリアンと日本人の集い〉について
                         鈴木啓介

〈9.17と私〉
 02年9月17日の日朝ピョンヤン会談の日は、「有本恵子さんなどを返してくれるかな」と同僚たちと雑談していただけに、〈5人生存、8人死亡〉というニュースは私にとって大きな衝撃だった。そして、今まであいまいにしてきた〈北朝鮮の独裁政権―それをささえる朝鮮総連〉との関係をはっきり〈対決〉へと踏み切らせることになった。私は自分の日和見を思わないわけにはいかなかった。
 
 私が「帰還事業」で北朝鮮に帰ったひとびとがきびしい生活にさらされていることを知ったのは70年代末のことである。そのころの私は在日コリアンの生徒たちとつきあっていく上で親の歩んできた歴史や子どもを育てていく上での考えといったものを知っておくことは不可欠と考え、在学しているすべてのコリアンの生徒の家庭を訪問した。

 そんなおり、何度も「先生は日教組ですか」ということばとともに、北の親族から来た手紙をみせられた。薬や生活用品を送ってほしいという内容である。自分の兄弟姉妹を「北」に送ることに関与しながら、今なお、帰った人々がどんな状況にあるかを知ろうともしない日本人教師への強い不信感の表明であったろう。私はおたおたしながら自分の頭で判断することの重要さと自分の行動に伴う責任の重さというものを思い知らされた。

 80年代に入ると「凍土の共和国」が『統一日報』(在日韓国人系の日刊紙)に連載され、北の人々の窮状は独裁政権によってもたらされたものであり、帰国者は金政権にとって在日コリアンから収奪するための人質であることをはっきりと知るようになる。そのころ、北の独裁者とは「倶ニ天ヲ戴カズ」と口走ったことを覚えている。

 しかし、近年になって、飢餓や拉致が明白になってからも、私はそのことを正面にすえて生徒たちといっしょに考えるということをしてこなかった。北朝鮮の独裁政権への批判が朝鮮民族への偏見を助長することになりはしないかと怖れたためでもあるが、けっきょくのところ自分のハラが据わっていないところからくる日和見ではなかったかと今は思う。

 私がかかわってきた〈多文化共生をめざす〉在日韓国・朝鮮人生徒の教育を考える会(以下「考える会」とする)や全国在日朝鮮人教育研究協議会にしても、その活動の中で私は北朝鮮や総連との距離を意識してとるようにしてきたが、けっして正面から批判することをしなかった。それはけっきょくのところ、孤立することや批判をうけることが怖くてめんどうであり、組織を分裂に導くと考えたからではなかったか。
 そんな日和見が拉致被害者やその家族に長い孤独なたたかいを強いてきたのであり、北朝鮮の民衆の苦難をいっそう深めたのである。9.17の衝撃はそんないいかげんな自分を打ち砕くのに充分であった。(つづく)
      『木苺』116号(04年3月発行)より

『川越だより』2周年

2009-03-28 05:29:56 | 川越・近郊
【川越だより】のアクセス・ランキング
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過去3週間の閲覧数・訪問者数とランキング(週別)

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 このブログを書き始めて明日で2年になります。職場から完全にリタイアーする時期に娘がプレゼントしてくれた社会との窓口です。
 闘病を余儀なくされた時期とも重なりました。身辺雑記を綴っているだけです。それでも読んでくださる皆さんが居られるので張り合いもあります。ささやかでも人々の中で生きている喜びを実感できるからです。
 おかげさまで怯えることも退屈することもなく日々を送ることが出来ました。ありがとうございます。今暫く、おつきあいください。

 さて、私たちの川越住まいも今月末で40年になります。69年4月、海に遠い平野の真ん中に住んでほんとうに生きていけるかと思ったものです。その上、夏は暑く、冬は寒いときています。
 住めば都と言います。特にリタイアーしてからはこの町の地理的な条件の良さに助けられていると思うことがあります。海には遠いけれど山や川には近く、自転車道にも恵まれています。
 郷土愛とは違いますが我が町への愛着も少しは生まれてきました。月曜日からは川越を舞台にしたNHKの朝の連続ドラマもはじまるといいます。

  『つばさ』 http://www.nhk.or.jp/drama/html_news_tsubasa.html
 


 主人公の住む蔵の街は我が家から歩いて15分くらいの江戸時代からの商店街です。今では年間600万人の観光客が訪れるそうです。ドラマを見て訪ねてみようかというかたも出てくるかも知れませんね。
 そのときには町はずれに住んでいるぼくのことも思い出してください。旅行中でなければ大抵は家にいます。川越とその周辺をご案内します。声をかけてください。
 この半年は朝ドラと全く縁がなかったのですが春からは暫く付き合って見ようと思っています。

 菜の花の土手でまどろむ

2009-03-27 07:05:29 | 川越・近郊
 26日。昼前、自転車で伊佐沼公園へ。春休みとて若い母親とこどもの姿が見られます。桜もちらほら咲き始めました。
 暫く来ないうちに国民年金保養センター・武蔵野は民間のホテルになっていました。ここの食堂で昼食。鶏肉のソテーの定食が800円也。前・後期高齢者で結構賑わっています。
 川越運動公園の桜はまだまだ、陸上競技場では高校生が練習中。ウラの入間川の土手に出てみました。

 こんな風景が展開しています。

http://plaza.rakuten.co.jp/kawagen/diary/200804120000/

 土手の上にシートを敷いて一休み。しばし、まどろむ。青い空がどこまでも広がっています。

 帰りはこの土手を自転車をつきながら入間川大橋まで歩きました。川越・狭山自転車道に入っても菜の花の風景は続きます。
 昨年の「川越だより」が出てきました。

 http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/e/66962162a7037ae508c2d08a9491e190

 この辺りを走って花に心を奪われたのは4月4日とあります。季節の進行は昨年と大差ないようです。

 この春は花を追って庄内(山形県)・秋田・弘前と旅をするつもりです。昨年は入院のため実行できませんでした。会いたい人もいます。嬉しい春の日が近づいています。

検察はまともでない 小沢代表秘書起訴事件

2009-03-26 06:33:46 | 政治・社会
 民主党の小沢代表の秘書が政治資金規正法違反の疑いで起訴されました。ここまでの一連の動きを見ていると検察の動きに翻弄される民主主義の危うさを感じさせられます。東京地検特捜部の秘書逮捕・起訴は法律に照らして正しいのかどうかの原点を見極めなければなりません。
 この点に関しては郷原信郎桐蔭横浜大学教授(元検事)がTVなどで語る見解が印象に残りました。西松建設からの企業献金という実態があったとしても直ちに政治資金規正法に違反しているとはいえず、検察は公判維持が難しかろう(秘書を裁判にかけても有罪を立証することはむずかしい)と言っています。小沢代表の法的責任を問うことは不可能で事情聴取をする事さえできません。

 郷原元検事の主張 ①
http://minnie111.blog40.fc2.com/blog-entry-1477.html 

 郷原元検事の主張 ②           http://blog.goo.ne.jp/hosakanobuto/e/54fa7ecb1cf18d52bd5e9edc9214fa7a 
 

 ぼくが今感じていることです。

 ①この事件は政権交代という事態に怯えた検察の政治的陰謀である。

 ②この際、民主党など野党は一致結束して、企業団体献金は一切これを禁止する立法を行うべし。


 ①について。検察が「中立・公正」であると言う言説には何の根拠もありません。私たちに身近な事件でもそのやりたい放題ぶりは明らかです。
 東京地検は板橋高校卒業式を妨害したとして藤田元同校教諭を「威力業務妨害罪」で起訴しました。あちこちの市民のビラまきに「住居侵入罪」を適用してこれを弾圧しています。
 権力を持つものがその基盤が崩れることに怯え、罪にもならないと思われることを罪に仕立てていくのはむしろどこの世界にもある法則です。
 民主主義のルールに従って政権交代が初めて実現するかも知れないときです。彼らが危機感を持つのも当然です。
 権力の横暴を監視し、これを批判告発する市民の力をいっそう強めなければならないときです。マスコミは何時の時でも最終的には権力と一体になります。同じ釜の飯を食っている輩なのです。
 今回の一連の報道を見ても検察などのウラ情報を垂れ流すだけです。NHKを筆頭にしてTVは特にひどかったように思います。

 ②政官業の癒着構造の中で税金が食い物にされています。保守政治家の資金集めがこの構造の一環をなしていることは言うまでもありません。小沢さんは自民党の元幹事長です。その中枢にいたひとです。
 小沢さんに法的責任はないにしてもこの腐敗構造の恩恵を最大限に受けてきた事実は否定できません。
 政権交代を真に意味あらしめるためにも、この際、断固として企業・団体献金を禁止する立法を行うべきです。そのときこそ、小沢さんの声望は一気に高まることでしょう。労働組合の団体献金も当然のことながら廃止です。組合員個々のの意志とは関わりなく特定の政党に献金されているのが実情です。
 世を憂い、民主主義の確立を願うこころある若者が進んで政治家を志す社会にしなければなりません。そのために金のかからない選挙、政治を実現する必要があります。個人献金と政党交付金で出来ないとしたらその政治はやはりどうかしているのです。野党連合政権に期待するのはこのような改革をやってほしいからでもあります。

 民主党は小沢さんがどういう人であるかを熟知して党首に選んだはずです。小沢さんのような人が出てきたからこそ政権担当の力が付いてきたことも事実ではありませんか。その代表が不当な権力の攻撃にさらされているときにそれとしっかりと闘う道を選ばないで「選挙のため」と称して足を引っ張るような政治家をぼくは信頼しません。
 

杉本服治(ふくはる)くんとリンリン

2009-03-25 14:20:55 | 友人たち
 本日の号外です。パンダの飼育を担当してきた服治くんの写真付きのニュース記事がありました。去年のこの時期は抗ガン剤治療で入院中だったためか見落としていました。TVで見たという方もいます。
 青い文字をクリックすると服治くんのあのやさしい顔が出てきます。ぼくは去年の同窓会で久闊を叙しました。この記事にも書かれている退職の日はもうすぐです。30日に会えるのは何かの縁です。ありがたいことです。


http://sankei.jp.msn.com/photos/life/trend/080430/trd0804302222013-p2.htm
   

  「ゆっくり眠って」とリンリンの飼育係
               2008.4.30 21:53(産経)



 東京・上野動物園(小宮輝之園長)で1頭だけ飼育されていたジャイアントパンダ「リンリン」(雄、22歳7カ月)が30日午前2時ごろ、高齢のため亡くなった。動物園1番の人気者として愛される一方、子作りのために人工授精を繰り返し、何度も海外へ旅立つなど苦労も多かったリンリン。長い間寄り添った飼育員や来園者は、感謝の思いを口にした。

 「おちゃめでおおらか。みんなを楽しませてくれた」。飼育に7年間携わった、飼育係主任の杉本服治さん(59)はそう話す。他のパンダは機嫌が悪いと飼育員にかみつくなど、気性が荒いところがあったが、リンリンは名前を呼ぶといつも自分から歩いてきて、体をすり寄せてきたという。

 「『なでて』なんて言うのはあいつくらい。でもね、飼育員がいたずらで餌を隠すと、プイって横を向いてすねるんだ。本当に愛らしかった」

 30日は午前7時に飼育舎に行った。いつものように名前を呼んだが、リンリンは歩いてこなかった。「仰向けで大の字になって、安らかな顔で眠っていた。大往生だった」

 上野動物園によると、リンリンは世界で飼育、血統登録されている雄の中では5番目に高齢で、国内では最高齢。4月中旬から腹部と下半身にむくみがみられ、29日から一般公開を中止していた。死因は心不全で血液が体中に漏れ、腹腔(ふくこう)に約37リットルの腹水がたまっていた。

 リンリンが上野動物園にやってきたのは平成4年。集客に加え、重い使命が課せられた。雌パンダ「ホアンホアン」と「トントン」との子作りだ。だが、「周囲の期待がすごくて、飼育員も緊張する日々が続いた。不幸にも相性はよくなかった」(杉本さん)といい、自然繁殖も人工授精も結果は出なかった。

 13年からは計3回、メキシコの動物園に輸送され、現地で繁殖を試みた。吉報は届かなかったが、飛行機に何度も乗ったことから、「フライングパンダ」とも。小宮園長は「世界で一番飛行機に乗ったパンダ。大変苦労をかけたと思う」と思いやった。

 人間なら70歳相当の高齢とあって、最近は動きが鈍くなり、食欲も減退していた。来園者がカメラのフラッシュをたくと、ストレスがかかるのか、前足で目を隠すようなしぐさをしていたという。

 
 この日、パンダ舎にはリンリンの遺影が飾られ、来園者が続々と記帳に訪れた。「リンリン、バイバーイ」。子供たちから声が飛んだ。「みなさんに愛してもらい、心からお礼をいいたい。リンリンには『お疲れさま、ゆっくり眠って』といいたい」。来年3月で定年を迎える杉本さんは静かにそう話した。


 ■日本飼育のジャイアントパンダ

 日中国交正常化を記念し、昭和47年10月、「ランラン」と「カンカン」が中国から上野動物園に贈られたのが最初。同動物園では「リンリン」を含め9頭の飼育実績があるが、36年間続いたパンダの展示は途切れた。現在、国内で飼育されているのは神戸市立王子動物園の2頭と和歌山県白浜町のアドベンチャーワールドの6頭。だが、いずれも中国から借りているもので、日本所有はリンリンが最後だった。

  還暦を迎えた卒業生http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20081013
http://blog.goo.ne
  還暦祭を祝う.jp/keisukelap/d/20081011

奈良間さんと服治くん

2009-03-25 07:01:45 | 友人たち
 丸木美術館の事務局長の奈良間さんが3月末で退職されると聞き、ひとことお礼が言いたくて美術館を訪ねました。
 奈良間さんはまだ40台の働き盛りですからもちろん定年退職ではありません。自分の人生の来し方行く末を考えての決断だと思います。
 丸木夫妻の絵は人類の宝ですがこれを守る職員たちは信じられない薄給です。18年間も良くも頑張ってくれたものです。
 ぼくはリタイヤーしたら丸木美術館の外回りのゴミ掃除ボランティアをするつもりでした。奈良間さんのお手伝いが出来ればと思っていたのです。闘病ということになってそれもまだ出来ないままでのお別れです。残念です。何かの行事の時、ほんの2,3回手伝ったことがあるのですが、とても喜んでくれました。それでいい仕事を見つけられたなあと思っていたのです。
 しばらくは旅などして充電されるそうです。大井川の奥で育った人です。旅の楽しみ方がぼくと似ているところがあります。好漢のしばしの休養です。ありがとうございました。
 
 (美術館の側から言えば働くところとしては、いわば「愛想を尽かされた」わけです。熱意ある若者が働ける職場にする努力が求められます)。

 美術館では『炎える王道楽土~平野亮彩・絵の素顔~』という展示が終了し、撤収作業の寸前でした。日中15年戦争がテーマです。「反戦展」というものが時にありますがぼくにはさっぱりわからないものが多いのです。平野さんには何か良いものをみせてもらったなあとお礼が言いたくなる作品群でした。http://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/kikaku/2008/2008hirano.htm


 『丸木位里・丸木俊 ・足 尾 鉱 毒 の 図』展が開催中です。

 むかし、丸木美術館栃木分館で見たことがあります。分館がなくなった今は大田市役所の倉庫に保管されたままだと言います。
 移動教室で足尾にいってきたばかりです。秋にはこの絵に描かれている渡良瀬川下流地域にいきます。田中正造の生涯の舞台です。友人たちがこの機会に丸木美術館を訪ねてくれることを期待します。

 http://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/kikaku/2009/2009ashio.htm


 夜になってぼくの最初の生徒諸君も定年を迎えることを思い出し、服治くんに電話をしてみました。長く上野動物園でパンダの世話をしてきた人です。
 30日が定年前の最後の仕事だと言います。丁度この日、北朝鮮から来た家族との花見に招かれています。子どもたちを誘って服治くんの最後のお客さんになりにいくことにしました。みんなきっと喜んでくれるでしょう。

 上野動物園・パンダ舎http://journal.mycom.co.jp/articles/2008/11/09/panda/index.html







待たれる北信濃の旅⑤ 志賀高原道路

2009-03-24 05:30:21 | 出会いの旅
 第9回きいちご移動教室の大まかな日程が見えてきました。
 
 5月9日(土)

    8時 日暮里発(首都高・関越道・上信越道 232.6km 2時間39分 )
   11時半 豊野・飯山インター下車 ①高野辰之記念館(昼食)
    2時 ②菜の花公園③福島の棚田(高山さんのガイド)
    4時半 宿舎着(パノラマランド木島平)
 
 5月10日(日)

   9時半 ④中野市東山・高社郷開拓団慰霊碑⑤リンゴ街道
   11時半 ⑥志賀草津高原道路で帰途につく(昼食)
    6時 日暮里着
  
  (雨天の場合)
    11時 ⑥小布施(昼食) 
     1時 ⑦善光寺
    2時半 帰途につく(上信越道)
 
 4月中旬になったら下見をして決めたいと思います。予測できないのが交通状況と天候です。
 二日目は晴れていたら是非とも志賀草津高原道路を通りたいと思っています。開通して3週間たっています。日本アルプスをはじめ、白銀の峰峰の景観は筆舌に尽くしがたいものがあります。
 
 雨の場合はりんご街道を南下して小布施の町に寄り見学がてら昼食とします。午後はご開帳で賑わう善光寺参り。どちらも地元の友人が案内してくれるでしょう。


  ⑥志賀草津高原道路・雪の回廊http://www.geocities.jp/evomix2/yukinokairou.htm

  ⑥小布施町http://members.stvnet.home.ne.jp/obuse-tabi/


  ⑦善光寺http://www.zenkoji.jp/about/index.html

 こんどの旅は前回にも増して小学生の参加が目立ちます。残留孤児夫婦と孫というケースが多いのです。子どもたちが主役になって楽しめるような企画を考えなければなりません。高柳さんからメールが届きました。


 準備が着々と進んでいるようで、うれしい限りです。

 VTRも大丈夫とのこと。
子どもさんが多いなら、たとえばアニメ「蒼い記憶:満蒙開拓と
少年たち」はどうでしょうか?

 舞台は長野県ですし、以前このバスハイクで行った内原の訓練所も
登場しています。
また、満蒙開拓青少年義勇軍として中国に赴いた少年たちの苦労と
ともに、満蒙開拓が現地の人からみたらどうであったかという
視点も十分に取り入れて描かれています。

 粗筋は、たとえば以下などで見られます。
http://www.walkerplus.com/movie/kinejun/index.cgi?ctl=each&id=27675
http://rizhong.web.infoseek.co.jp/wenbuajiangzuo/hepinghuodong04.html 

 また、川越遊びの学校のSさんが今回は参加できないがといって手作りの剣玉(竹製)をたくさん届けてくれました。
 
 皆さんの協力で楽しい旅に出来そうです。


「櫂のしずく」 花見の歌

2009-03-23 11:48:26 | 出会いの旅
 昨日の「川越だより」への訪問者は195名で近頃では最多でした。ありがとうございます。一日中、風が強く『大地の子』などを読んで過ごしました。
 昨日は5月9日からの「第9回きいちご移動教室」の参加希望者の締めきり日でもありました。42名が登録してくれました。募集定員は45名です。忘れている常連さんも居られるかと思いますので45名にはなるでしょう。今回のバスはとびきり上等の大型バスで55名まで乗れます。
 皆さんの中で参加をご希望の方が居られたら遠慮なく問い合わせてください。大自然の懐に抱かれ、魅力ある人に出会う旅です。一泊2食付きで5100円です。

 さて、花の季節になりました。きいちご基金の花見は3月31日です。10時、JR日暮里駅北口集合です。どなたもお弁当とレジャーシートを持ってお集まりください。
 昨年はバスで大房岬に言ったのですが今年は都心です。5月に北信濃に花の旅をするからです。退職、就職、人生の区切りの日を迎える方も居られます。

 さて、再び、歌詞への疑問です。花見といえば「花」ですね。

  
   花

          作詞 武島羽衣  作曲 滝廉太郎


  春のうららの 隅田川

  のぼりくだりの 船人が

  櫂(かい)のしずくも 花と散る

  眺めを何に たとうべき

 

見ずやあけぼの 露浴びて

われにもの言う 桜木を

見ずや夕ぐれ 手をのべて

われさしまねく 青柳(あおやぎ)を

 

  錦(にしき)織りなす 長堤に

  暮るればのぼる おぼろ月

  げに一刻も 千金の  

  眺めを何に たとうべき

 出典(曲)http://www5a.biglobe.ne.jp/~ada-kazu/new_page_136.htm


【疑問①】中国から来た人たちとの花見の時に歌詞の意味をどう伝えようかと思いながら謳っていて妻が気づいたことです。
「櫂(かい)のしずくも花と散る」です。櫂といえばボートのオールのようなものを思い浮かべます。今、千鳥が淵あたりには確かにボートをこぐ風景が見られます。そんな風景が隅田川にあったのでしょうか?
 屋形船など和船であれば漕ぐのは「櫨(ろ)」ではないか。しずくが花と散るような櫨こぎがあるのでしょうか?どんなに下手でもそれは無理でしょう。
 妻の結論はこれは「盥船(たらいぶね)」しかないね、というもの。このころ隅田川にはどんな船が行き来していたのでしょう?
 
 近頃あちこちで青柳が風に吹かれる景色に出会います。「手をのべて、われさしまねく」の意味がようやく理解できるようになりました。
  

 もう一つは「荒城の月」です。

   「荒城の月」
          土井晩翠作詞・滝廉太郎作曲

春高楼(こうろう)の花の宴(えん)
巡(めぐ)る盃(さかずき)かげさして
千代(ちよ)の松が枝(え)わけ出(い)でし
昔の光いまいずこ

秋陣営(じんえい)の霜の色
鳴きゆく雁(かり)の数見せて
植うる剣(つるぎ)に照りそいし
昔の光いまいずこ

いま荒城の夜半(よわ)の月
替(かわ)らぬ光たがためぞ
垣に残るはただ葛(かずら)
松に歌うはただ嵐(あらし)

天上影は替らねど
栄枯は移る世の姿
写さんとてか今もなお
嗚呼(ああ)荒城の夜半の月

 去年訪ねた九戸城址(岩手県二戸市)にも古い目立たない詩碑がありました。土井晩翠の詩想は青葉城(仙台市)に由来するというのが通説かも知れませんが、ぼくには嬉しい発見でした。

 出典(曲)
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/koujouno.html 

 【疑問②】「植うる剣」とは?
 これは昔から疑問のままでした。検索してみるとぼくと同じように疑問を持った人が少なくないようです。答えも実に様々です。皆さんはどうおもいますか?ネット検索で研究してみてください。

高山すみ子さんと佐渡開拓団跡事件

2009-03-22 06:32:28 | 中国残留日本人孤児
 20日(祝)に長野県木島平村の高山すみ子さんから電話がありました。『きいちご』が届いたのです。
 高社郷開拓団集団自決事件の際、奇跡的に生き残った方です。私たちが5月9日に訪ねるのを心待ちにしてくれているようです。
 お話をしているうちにいろいろなことがわかってきました。ぼくがこのブログで紹介した福島(飯山市)はお祖母ちゃんのふるさとだったのです。
 昭和16年(ぼくが生まれた年、「大東亜戦争」を始めたのは12月8日)満州に渡るまで住んでいたそうです。小学校は今の東小です。菜の花公園のある丘に建つ学校です。高等小学校を終えるまで長い道のりを通ったと言います。
 ぼくが何度も訪ねたことがあり、こんど皆さんを案内しようとしている”ふるさと”の原風景とは高山さんの故郷そのものだったのです。
 「おらが案内したい」となんどもおっしゃってくれました。映画『阿弥陀堂だより』は見たかとも聞かれました。
 第9回移動教室の現地ガイドは86歳になられた高山すみ子さんがやってくれます。こんな豪華な旅がどこにあるというのでしょう。

 佐渡開拓団跡地での高社郷開拓団集団自決事件は満蒙開拓団にかかわる無数の悲劇の中でも取り立てて知られている歴史的事件であるようです。

 山崎豊子さんの小説『大地の子』にも紹介されているそうです。この間の事情を書かれた「棄民」という文章があります。長くなりますが紹介します。
 
 高山さん自身が書かれた本もあります。図書館で読めるかも知れません。
  『ののさんになるんだよー満蒙開拓奈落の底から』日本図書センター刊行


  棄民

   1

 敗戦後、侵攻したソ連によって武装を解除された日本軍兵士約60万人は、シベリアの強制収容所へ送られ、悲惨な年月を過ごしたことは前号に書いた。
 一方、いちはやくソ連軍が国境を越えたという情報をつかんだ関東軍将校たちは、民間人には知らせずに、家族もろとも飛行機や列車で新京から通化に移った。移動したのではなくて逃げ出したのである。すでに大部分の関東軍も朝鮮半島との国境沿いに後退していた。
 民間人155万人は、無防備のまま中国東北部(満州と当時呼んでいた地方)の奥地にとり残された。日本軍のうちで最強部隊とされた関東軍の一部は、負け戦の続く太平洋方面の戦力を補うために太平洋の島々に回されていた。その結果弱体化してしまった関東軍の員数合わせとして、当地の民間人の成人男子は、兵士として前年に徴兵されて、留守宅には老人と女子供だけしかいなかったという。
 日本は、いつの時代でも、一般民衆は特権階級の犠牲にされてきたのだ。


       2

 ソ連国境に近い日本人の一開拓村に住む、松本勝男という国民学校1年生の少年を主人公とした山崎豊子の長編小説『大地の子』 (新潮文庫)は、ソ連軍の侵入から物語をはじめる。
 ソ連侵入の非常サイレンによって、祖父、母、5歳と1歳半の2人の妹、そして彼の一家5人の逃避行が始まった。当初、彼の家族を含め、230名ほどの開拓村の人々は近くの関東軍基地を頼って行ったが、そこはすでにもぬけの殻だった。そこで無防備のまま170キロ離れた勃利に徒歩で向かった。勝男は5歳の妹を、母親は末の子を紐で背中にくくりつけて、敵軍に見つからぬように山中を進んでいったが、それは難渋をきわめていた。途中、末の子の息が絶えた。進むにつれ次第に敵の銃声が近づいてきた。幼い子供の泣き声が敵に発見されやすいので、5歳以下の子供たちは首を絞められて置き去りにされた。やがて祖父も息絶えた。
 大きな川は、敵の追撃を阻むために、日本軍の手で橋を破壊されて渡れない。やむを得ずロープにすがって川を渡った。激流にのまれて流されてゆく者もいた。15日目に勃利に近く佐渡開拓団の住む村に入ったが、すでにそこには3000人以上の避難民がいる。周囲はすっかりソ連軍に包囲されていた。8月27日、ついに敵兵の攻撃が始まった。

「あ! またソ連兵が来るぞ、今度はもっと多勢だ!」
 若い男が云うと、2人の女が、
「お願いです、その銃で撃ち殺して!」
 と哀願した。土塀の外に、キラキラと無数に光る鉄カブトが迫って来た。男は、バーン、バーンと2人の女を撃ち殺した。
「兄ちゃん、僕も殺して!」
 勝男も、頼んだ。
「弾が一発しかない、お前は子供だから、大丈夫だろう」
 と云うなり、男は、銃口を顎の下に当て、
「天皇陛下、万歳!」
 と叫んで、足で引金をひいた。その銃声と同時に、ソ連兵たちは銃を乱射しながら続々と土塀をよじのぼって来た。勝男は今、死んだ男の死体の下に隠れた。生あたたかい血や脳味噌が頭にかかって来、唇に塩酸っぱいものが流れ込んで来、腹も足もぬるぬるとした。

 気がつくと、同じ開拓村の者はほとんど死んでいた。生存者はわずかに顔見知りのおじさんと妹のあつ子と彼の3人だけだった。妹はひどい火傷を負っていた。やがて中国の農民がどこからともなく現れて、別々の男が3人を引き取ってゆく。こうして兄妹がそれぞれちがった運命を生きてゆくのであった。……
 この小説は架空の話ではない。作者の山崎豊子は、事実だけにもとづいてこの小説を書いた。


       3

 彼女がこの大作を創作する際の資料の一つにしたかと思われる文章がある。「歴史と人物」昭和61年冬号に掲載された門脇朝秀「証言 惨!佐渡開拓団跡事件」である。それによると、小説の主人公勝男たちの開拓団一行が佐渡開拓団跡にたどり着いた8月24日には、すでに5つの開拓団、3千人ほどの民間人が集まっていた。彼らがどんな最期を遂げたのかを、その記事のなかの幾人かの証言が明らかにしてくれる。
 万金山高社郷開拓団に所属する滝沢隆四郎は次のように証言する。この開拓団600名がこの地に着いた23日夕方近くに、不時着したソ連の偵察機一機を一部の団員が焼いてしまうという事件が起こった。ソ連軍は報復攻撃をしかけてくるだろう。そうかといって、安全な所に逃げるだけの余力はなかった。追い詰められた一行は集団自決の道を選ぶ。次の証言はなんとも哀れを誘う。

 誰が持っていたのか、母親と子供たちには薄く口紅が塗られていた。一方、流れ出る血の海に足をとられながら、逃げようとする子供に銃を向ける若い父親。何もわからずに振り向いて父親を見る幼い姉妹。こうして馬小屋に積まれた死体はこの団だけで514体に達した。

 開拓団とは何だったのか。昭和不況の真っ只中の1936年(昭和11年)に、日本政府は、満州国へ20年間で100万戸を移住させ、人口の10パーセントを日本人で占めようとする計画を発表した。それも、同一地方出身者で一移住村をつくらせようとしたのである。その計画の裏側には、農家の次男・三男対策というか、農村の過剰人口の解消という狙いもあった。その計画に協力した県には補助金を出すという。その頃貧しかった長野県は、補助金欲しさに、率先して開拓村をつくった。『大地の子』の主人公勝男が所属した開拓団信濃郷は、長野県の南信濃郷開拓団をモデルにした。


       4

 『大地の子』にふたたびもどろう。
 一家が逃避行していた最中、息絶え絶えの祖父が嫁と勝男を手招きしてこう言った。

 わしは、もう助からん、タキエ(嫁)と勝男に詫びたいんじゃ、一家を挙げて満州へ移ろうと云い出し、しぶる息子を説き伏せて、開拓団に加わったのは、このわしのせいじゃ、お前たちの将来のため、お国のためと思うてのことが、今、国からは見捨てられ、お前たちをこんな酷い目に遭わせてしもうた、息子は現地召集、嫁と孫たちまで、生き地獄にさらしてしもうたが、……
        
 やがて、祖父は、骸骨のように痩せた体を異国の寂しい草原の木陰の下に横たえたまま死んでいった。
『大地の子』を読みながら、日本という国は、開拓団をつくって異郷の地へ送っておきながら、いざという土壇場では彼らを見捨ててしまったという重い事実に、頭を抱えてしまった。そのことがどうにも理解できなかったし、やり切れなかった。
 事実をもっと深く確かめようとして昭和史関係の本を読みだした。当時の指導者たちはなぜそんな非道なことをしたのか。私はそのことにいつまでもこだわってしまった。ところが、前号で紹介した半藤一利『ソ連が満州に侵攻した夏』のある箇所を目にした時、思わず絶句してしまった。
 ヨーロッパの戦史を開いてみるとわかるが、敗戦を覚悟した国家や軍が真先に行うべきことは、非戦闘民の安全を図ることである。あのヒトラーでさえソ連軍の侵攻から自国の非戦闘民を救うために、200万人もの民を4ヶ月も以前から陸・海・空全軍を使って安全地帯へと移送させていたのである。日本はなぜそうしなかったのか。著者は、日本の国や軍の指導者の考え方には「民を救う」という発想はなかったと言い、こう分析する。

 日本の場合は、国も軍も、そうしたきびしい敗戦の国際常識にすら無知であった。だが、考えてみれば、日本の軍隊はそのように形成されていなかったのである。国民の軍隊ではなく、天皇の軍隊であった。国体護持軍であり、そのための作戦命令は至上であった。
 『大地の子』の主人公勝男とあつ子は、中国人に引き取られてからどう生きていったのだろう。


       5

 中3の国語の教科書「国語 3」 (光村図書)に「お辞儀する人」という安西均の詩が載っている。この詩は、中国残留孤児の存在を私たちに知らせる。「だれにともなく深く一礼」する劉桂琴さんの「お辞儀」を前にして、私は絶句するばかりである。


   お辞儀する人
             安西均

 中国残留孤児の第7次訪日団45人は、3月3日(昭和60年)
午前十時十分、成田空港から日航横で中国へ戻って行った。
それを報道する翌日の朝刊の写真には―

めいめい手を振って別れの
挨拶をする、一行から少し離れ、
床に手荷物の紙バリクを置き、
こちらに向って、深々と
頭を下げてゐる女のひと。
劉桂琴さんといふそうだ。
推定(何と悲しい文字だらう)
前夜、叔父と名乗る人が、空港へ
駆けつけてきたが、別人だった。
記者団の質問に「日本が私の生みの親、
中国が育ての親です」と答えたきり、
深夜、ホテルの自室で、大好きな
ハルピンの民謡を歌ってゐたそうだ。

桂琴さんの写真に添へて「だれにともなく
深く一礼」と説明がある。だれにともなく!
こんなにも美しく、哀しいお辞儀の姿を、
私はかつて見たことがない、ただの一度も。
私は思わず胸のうちで、この姿に
会釈を返す。このひとが戻っていく国の言葉で
〈再見(ツアイチェン)〉と言ひたい気がする。
東京の空までが、春近い気配にうるみ、
じっと雨を耐へてゐる朝だ。

 出典http://ogaki.web.infoseek.co.jp/motto29.htm




       
                                


閉校・「山びこ学校」

2009-03-21 04:16:29 | こどもたち 学校 教育
 先日、坂戸のふるさとの湯で読んだ『読売新聞』のコラムで山形県上山(かみのやま)市の山元中学校が3月22日に閉校することを知りました。
 私たちの世代の人なら記憶にある「山びこ学校」が姿を消していくのです。日本中、至る所で進行している過疎・少子高齢化の現実がもたらしたものですが、ぼくのようなものにもさびしさを感じさせます。無着成恭(むちゃくせいきょう)と山元中学校の生徒たちが精一杯作り上げた学びの精神は「ふるさと」が滅びていく今こそ、省みられるべきではないかと思われます。
 
 「毎日新聞」(09年3月6日・山形版)の記事です。


「山びこ」の響きは…:半世紀経た山元中学校、冬から春/1 
 

 ◇古里・山元を知る--地区調べ「誇り持たねば」
 
 人間のねうちというものは、「人間のために」という一つの目的のため、もっとわかりやすくいえば、「山元村のために」という一つの目的をもって仕事をしているかどうかによってきまってくるものだということを教えられたのです。(無着成恭編「山びこ学校」より)

 風も冷たくなった昨年11月中旬の上山市山元地区。狸森(むじなもり)集落の山元中体育館は、ソバの香りと、地区の住民数を上回る約500人の熱気に包まれた。「でわかおり」の収穫に合わせ、新ソバを味わう「山元そば祭り」。今年で25回を数える。

 主婦に交じり、配ぜんや呼び込みを手伝った山元中3年の3人は集まった人に呼びかけた。「『ふるさと山元を知る』の発表を始めます」

 00年に始まった総合学習。今まで古代米や雑穀を育て、文化祭で振る舞っていたが、今年3月の閉校を前に「地区を見つめ直そう」と調べた。生徒が3人だけのため文化祭が中止され、発表の舞台がそば祭りに移った。

 江口奈々恵さん(15)は「山元の食」を調べた。農家から話を聞き、食用ほおずきケーキとワラビおこわを作った。「料理しても素材の味が感じられる」とまとめた。

 「山元の緑」を調べたのは伊藤亜子さん(15)。植林された杉が多く、近年の国産材の需要減で手入れする人も激減した現状を知った。「このままでは山が荒れてしまう」と警鐘を鳴らした。

 「緑は豊かで人は温かい。でも、携帯は通じず店は遠い。大人は地区をどう感じているのだろう」。田代耕大君(15)は「山元で生きる人」をテーマに大人に聞いて回った。「東京は便利だが水も空気もまずい。山元は不便だが畑で汗をかいてもおいしい水が飲める」「農林業はすべての土台だ」。みな誇りを持っていた。「一生暮らすつもりさ」の言葉に「僕も誇りを持たなければ」と思った。

 「山びこ学校」で、山元村のために仕事をすることが大切と学んだ当時の子供の何人かが、その通りに仕事を続け、今の子供たちに誇りを伝えた。

 かっぽう着姿で聴き入った中ノ森集落の団体職員、大宮裕子さん(48)は「地区には良さもあるし、課題もある。それを考えてくれて頼もしいし、うれしかった」と話した。白壁忠彦校長(54)は「生徒たちは地域から学んできた。地域にお返しをしたかった」と語る。

 ずっと山元地区で育った3人。改めて気付いた地区の良さを胸に、4月から山形市の高校に進む。

  ◇  ◇

 「山びこ学校」の舞台・山元村立(現上山市立)山元中学校は22日に閉校する。冬から春の山元地区を訪ねた。【細田元彰】=つづく

  出典http://mainichi.jp/area/yamagata/news/20090306ddlk06040124000c.html

 ぼくは手術後の抗ガン剤治療が一段落した06年5月、待ちかねたように山形に連れて行って貰い、偶然、「山びこ学校」を訪ねることが出来ました。当時の記事です。(『木苺』128号 06・7)

  列島ところどころ ⑫   山びこ学校
鈴木啓介(新宿山吹高校)
 
5月18日から山形県の置賜(おきたま)地方に連れて行ってもらった。飯豊(いいで)町の「源流の森センター」では〈草木塔〉というものの存在を知った。草木にも魂が宿るという信仰(?)から森林を伐採したあとに建てたものらしい。置賜という地名がアイヌ語に由来するというという説と共に自然と共に生きてきたこの地方の人々の精神世界を垣間見るようで興味深かった。

 20日、蔵王に向かう途中で、車窓に〈山元〉という標識が見えたような気がして、車を止めてもらった。近くに山元小中学校があった。地図でどんなに探しても見あたらなかった、あの「山びこ学校」に偶然、行き当たったのだ。ぼくは「山元」という学校の名前さえ忘れていて、上山市の地図とにらめっこすれば思い出すかとやってみたがダメだった。山元村が消えてから山元という固有名詞は地図のうえから消えていたのだ。

 興奮がまださめないうちに狭い校地内を探索してみたが「山びこ学校」のしるしは見つからず、歴史の彼方に消されてしまったのかと思った。この日は土曜日で、ものをたずねる人影もない。車に帰ろうとして学校の入り口にきたとき、尊徳像のそばに大きな石があるのに気づいた。
 それが「〈きかんしゃ〉から起つ鳥」と命名された山びこ学校の記念碑だったのだ。片方の面に「2004年8月吉日  無着成恭」の署名入りで『〈山びこ学校〉の合い言葉』が刻まれている。 


     おれたちはきかんしゃだ    きかんしゃの子どもは
いつも力を合わせていこう   かげでこそこそしないでいこう  
いいことは進んで実行しよう  働くことがいちばんすきになろう
なんでもなぜ?と考える人になろう
いつでももっといい方法がないか探そう
 
もう一方の面には佐藤清之助さんの〈山〉。

私は学校よりも山がすきです
それでも字が読めないと困ります
 

そばに〈山びこ学校の碑について〉という説明文の石碑もある。
 

 文集〈山びこ学校〉は、昭和二十六年三月に青銅社から発行されました。この本は昭和二十三年四月、山元中学校に入学した四十三人の生徒が、師範学校を出てはじめて教師になった当時二十一歳の無着成恭先生の指導のもとで三年間にわたってつくられた学級文集〈きかんしゃ〉(全十五号)を底本にして編集されたものです。

その頃の日本は敗戦という憂き目にあい、経済的にも文化的にもたいへん貧しく、学校教育も混乱の中にありました。一方で新しく始まった〈民主主義〉が新鮮な響きを持って迎えられた時代でもありました。そうした世相の中で刊行された〈山びこ学校〉は、新たな日本を構築する独創的な教育の実践として広く報道され、映画化されたり、中国語や英語に翻訳されるなどして、外国にも紹介されました。

そして半世紀を過ぎた今日でも〈戦後民主主義教育の記念碑〉といわれ、多くの人に読み継がれています。この碑はその意義と足跡を後世に伝えるだけにとどまらず、新しい世代に向けての日本の教育や文化、そしてこの地域、山元の発展の礎となることを願い建立したものです。

なお〈碑〉に刻んである六つのことばは〈きかんしゃ〉の創刊号に掲載された無着先生の詩の中にあるもので〈山びこ学校〉のすべてを貫く精神であり信条ともいえるものです。  平成十六年(2004)八月

 ぼくは感動に浸りながらこれらのモニュメントを建てたのは誰かという疑問にとりつかれた。説明文の下方に『〈きかんしゃ〉の同人』として43人の姓名が当時の姓のまま刻まれている石版があるのでこれらの人々なのであろうか。教育委員会や学校はどういう風に関与したのだろう。
そんなとき自転車に乗った一人の少年が近づいてきて挨拶してくれた。43人の一人、江口俊一さんの孫で昴志君といい、小5だという。
今春から山元小学校は休校となり、今は別の学校に通っていること、中学も近く休校となる見込みであることを教えてくれた。冬の雪の深さや友達のことを語る昴志君の表情や仕草は恥じらいを含みながらも聡明さを感じさせ、今時こんな子供がいるのかとぼくは心から嬉しくなった。
ぼくらが学校に近い谷間の村を車で一周して帰ろうとするときに自転車でまたあらわれて見送ってくれた。昴志君にあって山形の旅はぼくにとって印象深いものとなった。

 うちに帰ってから新宿区立の図書館にある山びこ学校に関わる本を借りて読んでみた。『山びこ学校』(角川文庫),『遠い〈山びこ〉―無着成恭と教え子たちの四十年』(佐野真一著 文芸春秋社)、『山びこ学校ものがたり―あの頃、こんな教育があった』(佐藤籐三郎著 清流出版)、『続山びこ学校』(無着成恭著 むぎ書房)。  
 ぼくは山びこ学校について何も知っていなかった。そして、無着成恭と43人の子供たちの3年間の営為に深く感動した。子供たち一人一人が生活の現実を刻んだ作文を教材として認識を共有し、深め、解決のための行動を模索する。子供たち一人一人の生活の現実ときり結ぶ無着の生き方は子供たちの大きな励ましになり、生き方を考える原点になったのだろう。

40年たち、50年たち、無着成恭の実践の不充分さを指摘する人もこの人と出会うことの出来た喜びを隠そうとはしていない。ぼくは教員生活を終えようとするときに山びこ学校と出会った。もう少し早かったらという思いがある。刺激にもなり、点検軸にもなる〈戦後民主主義教育の記念碑〉である。


※ここまで書き終えてから本棚の奥に百合出版(1966年5月10日第9版)の『山びこ学校』を発見した。1966年2月27日の『朝日ジャーナル』の記事(「山びこ学校」杉浦明平)がはさみこまれているところを見ると、大島高校に就職した年に読んだものと思われる。横戸惣重「私たちが大きくなったとき」の「私の家には財産があり、機械があるというだけで、頭を下げられたり頼まれたりするのだ」のところに線が引いてある。今回も同じところに線を引いたのである。

明日の閉校式には無着さんや山びこ学校のリーダーだった佐藤籐三郎さんなども参列されるのでしょうか。これらの人々の友と村と社会を思い、どう生きたらよいかを考え、自分たちに出来ることに挑戦し続けた営みは、学ぶとはどういうことかと問う人々にヒントと励ましを与え続けるに違いありません。

諸羽うち振る 鶏(クダカケ)は

2009-03-20 06:12:34 | 友人たち
 このところ気温も高く天気もいいのであちこちに出かけています。17日(火)は秩父・両神の四阿山(あずまやさん)を歩き福寿草見学、18日(水)は上尾・丸山公園までサイクリング。土手の菜の花が美しくなってきました。
 
 両神の行き帰りに歌を歌っているといろいろな疑問にぶち当たります。
ひとつ目がこの歌の「クダカケ」です。早起きが苦手な妻は昔からこの歌は苦手です。しかし、母親から「くだかけ」は「鶏(にわとり)」だと教えられたそうです。

 『朝は再びここにあり』http://www.hi-ho.ne.jp/momose/mu_title/asa.htm             

        島崎 藤村 作詞 (作曲 小田 進吾)
(1) 朝は再び ここにあり
  朝は我等と ともにあり
  埋もれよ眠り 行けよ夢
  隠れよさらば 小夜嵐(サヨアラシ)

(2) 諸羽(モロハ)うち振る 鶏(クダカケ)は
  咽(ノンド)の笛を 吹き鳴らし
  今日の命の戦いの
  装(ヨソオ)いせよと 叫ぶかな

(3) 野に出でよ 野に出でよ
  稲の穂は黄に実りたり
  草鞋(ワラジ)とくゆえ 鎌を取れ
  風にいななく 馬もやれ

 ≪疑問1≫ 鶏(にわとり)がなぜ「くだかけ」といわれたのか?

 答えはここにありました。
 
 NPO法人「くだかけ会」http://www17.ocn.ne.jp/~kudakake/rekisi.htm

 親鶏がひよこに心を「砕く」「懸ける」からとはこじつけ気味のような気もしますね。妻は落語『千早振る』みたいだね、と一席やってくれました。

 世の中には素晴らしい仕事をしている方が居られるものです。このHPをごらんになってください。代表の方が私たちの大学の後輩にあたることもわかりました。


  ≪疑問2≫ぼくが二番の歌い出しを「朝羽うち振る鷲鷹の…」と覚えているのはなぜだろう?

 その秘密の鍵はどうもこれです。


 秋風の歌  島崎藤村http://2style.net/misa/fuguruma/touson/touson_w35.html


         
朝羽(あさば)うちふる鷲鷹(わしたか)の

明闇天(あけぐれそら)をゆくごとく
 
いたくも吹ける秋風の

羽に声あり力あり


 高校生時代に読んだ『若菜集』の詩の一節と混同して覚えてしまったのでしょう。どちらも七五調です。「朝は再び」が藤村の作品とは気づいていなかったはずですが面白いですね。 
 藤村も信州(木曽・馬籠)の出身ですが私たちが訪ねる飯山を舞台に小説『破戒』を書いています。ぼくは青春期に藤村の作品をたくさん読みました。ぼくを信州につないでくれた人です。晩年には川越にも遊びに来たようです。妻だった人の墓が中院にあります。

天安門事件

2009-03-19 06:33:28 | 中国
 もう去年のことになりますが『時が滲む朝』という本を読んだことがあります。89年の中国天安門事件にかかわった学生たちの今と昔を描いた作品で芥川賞を受けました。運動にかかわった人々の思想的幼さのようなものを感じて民主化の道のはるけきことを思いました。(なぜこの小説が『芥川賞』なのかとも思いました。)

  「時が滲む朝」 http://ameblo.jp/tonton3/entry-10108603184.html


 昨日の新聞記事です。当時鎮圧に派遣された「人民解放軍」元兵士・張さんのインタビューが紹介されています。共産党の一党独裁政権がこの秋には満60年を迎えます。愛国のキャンペーンが全中国を覆い、民主主義の確立を願う人々は孤立を強いられているに違いありません。これに呼応して日本でも「友好人士」たちの手によって浅はかな「中国革命万歳」の運動が繰り広げられることでしょう。
 私たちに求められているのは民主主義と人権の確立を目指す人民と人民の友誼です。小説を読んだ時よりは遙かに力強いものを感じました。
 

『天安門鎮圧 今も罪悪感』 元解放軍兵士が告白

2009年3月18日 『東京新聞』朝刊


【滕州市(中国山東省)=平岩勇司】一九八九年の天安門事件で民主化運動鎮圧に加わった元人民解放軍兵士、張世軍氏(38)が十六日夜、本紙の取材に応じた。元兵士が二十年前の天安門事件の体験を語るのは異例。張氏は今月上旬、報道の自由や普通選挙の実施を求める公開書簡を胡錦濤国家主席に送っており、事件について「今も強い罪悪感がある」と語った。

 「白い鉢巻きを頭に巻いた学生が血の中で倒れているのを見て、私の心は砕かれた」

 張氏は山東省の自宅で、慎重に言葉を選びながら口を開いた。

 当時十八歳だった張氏は河南省に駐屯する五十四軍で広報活動を担当。四月下旬、民主化運動が高まる北京へ向かった。「首都の秩序回復が目的と聞いていた。当初は武力鎮圧の命令はなく、実弾も配備されなかった」

 六月三日夜、武力鎮圧を決意した共産党指導部から部隊に天安門広場南部へ向かうよう命令が下った。軍用機が低空飛行で弾薬を投下。広場への途中、市民から何度も抵抗を受けた。

 「私も顔面に投石を受けて血を流したが、部隊は上空への警告射撃にとどめ、人民に発砲しなかった」

 天安門事件をめぐる数々の証言や研究では、南部部隊は水平射撃を行わず、西部の三十八軍などが水平射撃に踏み切ったとされる。張氏は四日未明、広場に着くまでに多くの死傷者を目撃する。

 「後日、通信封鎖が解除され(民衆を虐殺した)軍の行為を知った。『人民は父母のごとし、学生は弟妹のごとし』が軍のスローガンで、大半の兵士は発砲に反対だった」

 罪悪感にさいなまれた張氏は退役を申請。すると「任務拒否」として軍を除名された。政治体制に疑問を感じ、山東省で中国革命の祖、孫文の勉強会を始めたが、九二年に「反党反社会主義罪」で逮捕。裁判を経ずに懲役三年の刑を受けた。

 張氏は出所後、名誉回復を求めたが党中央から回答はなかった。今月六日、インターネット上で「共産党は天安門事件の悲劇の代価として、民主化を実現してほしい」と訴える書簡を公開。同時に事件の体験を語る決意をした。

 書簡発表で当局に拘束される危険もあるが、十三歳の娘を持つ張氏は「私の血が流れることで、子どもの世代が自由になればいい」と語る。

 <天安門事件> 1989年4月、改革派の胡耀邦・元総書記の死去をきっかけに民主化を求める学生デモが北京で発生、100万人規模に膨らんだ。当局は「反革命暴乱」と断定し、戒厳令を布告。6月3日夜から4日朝にかけて軍を投入し、武力で鎮圧した。当局が公表した犠牲者数は319人だが、実際にはそれを上回るとみられる。 (中国総局)           

   出典http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2009031802000087.html

待たれる北信濃の旅④ リンゴの花

2009-03-18 09:06:29 | 出会いの旅
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北信の須坂・小布施・中野の千曲川から離れた山側を貫く果物街道を行くと5月初旬はリンゴの花盛りです。
 ぼくが初めてここを訪ねたのは1996年のことです。文京高校で「ASIAN同好会」を作った本多さんのお祖母ちゃんが小布施に住んでおられるというので卒業祝いをかねて同級生たちと押し掛けました。その後は大抵は私たちだけで毎年、春と秋に寄って、お祖母ちゃんに御馳走になりました。
 そのお祖母ちゃんも先年逝かれました。今では会社を辞めて母上を介護されていた長男の盛一さんが一升瓶とともに待っていてくれます。このご家族との交流がはじまってから毎年一回はリンゴの花咲く頃に果物街道を通るようになったのです。

  リンゴの花http://www.shinshu-tabi.com/toyota.html

 リンゴの花綻び 川面に霞立ち 君なき里にも 春は忍び寄りぬ

 カチューシャの歌は高校生の頃さびしい心を慰めてくれました。リンゴの花咲く町に親戚づきあいをしてくれる一家が出来るとは思いも寄らないことでした。

  http://bunbun.boo.jp/okera/kako/kachusha.htm

 この街道沿いには中山晋平の記念館もあります。晋平の作品にはもう一つの「カチューシャ」があります。私たち日本人の人格形成に大きな影響を与えた音楽家が二人も信州中野の出身なのです。 


 中山晋平記念館http://www.city.nakano.nagano.jp/shinpei/

待たれる北信濃の旅③ 『ふるさと』の原風景

2009-03-17 06:00:05 | 出会いの旅
高社郷開拓団集団自決の「生き残り」高山すみ子さんと連絡が取れました。5月9日、私たちが宿泊する『パノラマランド木島平』に近い村の中心部に住んでおられます。86歳になるが耳も聞こえるし目も見える。いつでもいらしゃい。楽しみにしていると言ってくれました。
 また、中野市にある新聞社の佐藤さんも慰霊行事を続けている高社郷同志会の会長さんとのコンタクトをとってくださっています。何時の時もそうですが私たち・きいちごの旅は地元の人々の草の根の活動に支えられて稔り豊かな学びが出来ます。

 北信濃の風景③は高野辰之(たつゆき)の生まれ故郷中野市永江です。

 小学校唱歌「ふるさと」を知らない人は稀でしょう。音痴を自認するぼくがハーモニカで吹ける唯一の曲です。この歌の作詞者が高野辰之です。
 『君が代』が国歌になっていますが歌詞も曲も多くの国民にとって親しみ深いとはいえないと思われます。少なくとももう一つの国歌を選定したらと思います。
 ぼくの案はこの歌です。
「帰りなんいざ、田園將(まさ)に蕪(あ)れなんとす」(陶淵明)です。日本の山も川も海も荒れ果てています。21世紀は「ふるさと」を取り戻すことから始める他はありません。人口に膾炙(かいしゃ)していることからもこの歌が『国歌』にふさわしいと思っているのです。

  陶淵明(とう・えんめい)の詩・全文http://tao.hix05.com/102kaerinan.html

 高野辰之の人とふるさとの村を紹介します。こんな村を歩いてみませんか。


 高野辰之http://www.city.nakano.nagano.jp/tatsuyuki/kinenkann1.htm 

 高野辰之の故郷http://www5a.biglobe.ne.jp/~p_giro/takano_tatuyuki.htm