川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

 『12人の怒れる男たち』

2009-08-08 04:24:46 | 政治・社会
 裁判員制度による裁判が始まりました。司法の民主化(司法に主権者である国民が参加する)を進めるという観点から僕はよい試みだと思っています。しかし、課題も少なくありません。
 「民主主義を支える倫理とは?」ということで18歳選挙権とともに文京高校時代から授業でも取り上げてきました。いつのときもアメリカの陪審制度を描いた映画『12人の怒れる男たち』を観賞します。

 山吹高校の二人の生徒の感想,意見を紹介します。生徒の多くを代表する意見のように思います。皆さんはどう考えますか。




 『12人の怒れる男たち』(1957 USA)

   民主主義を支える倫理とは?   M
 

 今日の授業で見たビデオは、簡素な作りながら、印象に残るものでした。思うことは多々ありましたが、その中でも、意見を述べるすべての人が、曇りのない目で物事を見ているのではない、ということを強く感じました。そして、結論を出すには一人の反対があってもいけません。そのことがこの映画の一番重要なところかもしれないと思いました。

 映画の中には、いろいろな視点から物事を判断できる人、つまりヘンリーフォンダの演じた「理性的市民」が12人の中にいました。しかし、現実にはこういう人は少ないです。もしも陪審制度が単純な「多数決」であったらこのような人の意見は少数派として押しつぶされてしまったでしょう。

 しかし、ここでのシステムは、12人が12人とも納得し、同じ結論を出さなければ結論は出ません。一番重要なのはそこだと思います。映画の中でも結論を出すために、一人の「無罪」を11人の「有罪」が説得しようとしていました。これは実は重要なことで強制ではなく、説得でなくてはなりません。
 そして、説得ということをするためには、相手が問題のどこに疑問を感じているかを知らなくては、自分も意見の述べようがありません。つまり、みんながその問題について積極的に考えるようになるのです。
 そして他の人の意見にも耳を傾けるようになるのです。他の人の意見を聞くことにより、自分の中に潜む偏見にも気づくチャンスがあります。自分が信じているものだけが世界ではない。そのことを知らなければ討論などできません。
 しかし、現実に、必ずヘンリーフォンダがいるわけではないのです。自分の世界だけを信じている人が簡単に物事を決めているパターンのほうが圧倒的に多い。そのことを考えると恐ろしいです。自分も注意しなくてはと思いました。

 (略)

 この「討論」というものは『人としての人同士』でしか成り立たないものだとも思いました。中には少数派を無理やり押さえつけるために暴力に訴える人、権力を使う人、また、そのような人に従ってしまう(従わざるを得ない)人などが存在します。つまり、この討論というのは、卑怯な人がいないという前提の下でなりたつシステムなのです。つまり、結局は一人ひとりがしっかりしなければいけない、そういうことなのかもしれません。

 そして現実には、一人ひとりの意見を聞く時間がない、少数派で居続ける勇気がない、そのようなこともあり、一人ひとりの意見よりも結論を尊重してしまうようになっています。これは考えるべきことかもしれないけれど、難しいです。


 『12人の怒れる男たち』  

            K

 (略)

 この映画の中では12人の陪審員のうちの一人が優秀な人だったからいろいろ話し合いが行われたが、ああいう人物がいなければ民主主義を誇る陪審制も無意味なものとなってしまうと思う。

 市民が裁判に参加することはよいことだが、公正な判決を導くためには課題が多い。
 私はまず義務教育の中でもっと法律を学ばせるべきだと思う。私たちの暮らしの中で必ずかかわるものなのだから、専門家だけが必死に覚えればいいものではない。
 あとは歴史や社会情勢を正しく学び、常に公平な目で物事を見つめられる国民を育てることが大事だと思う。

 半端に民主主義を唱えて国民に権利を与えても、何の準備も勉強もしてこなかった人々は結局、権力者に流されてしまうだろう。今の社会はどこの国のシステムも結局は権力者に都合のよいようにできている。
 国民一人ひとりが自立して国を作っていけるようにすることが、民主主義の第一歩であると思う。