川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

上野での出会い

2009-05-31 19:57:52 | 友人たち
 5月28日(木)雨

 「芸大生による木曜コンサート 第238回 『弦楽』」を楽しむため上野公園に出かけました。
 81年池商卒の明子さんの娘さんが出演するというのでずいぶん前から楽しみにしてきました。3月の花見の時に初めてその存在に気づいた「旧東京音楽学校奏楽堂」が会場だというので興味は津々(しんしん)です。

 明子さんが高1以来の親友・Kさんと一緒に早めに来て一等席を確保しておいてくれました。舞台の真っ正面の前から2列目です。
 
 「弦楽」とありますがパイプオルガンらしきものの手前の壇上にはコントラバスがずらっと並んでいます。他には何もありません。こんな風景を見るのは初めてです。
 プログラムから見ると東京芸術大学音楽学部器楽科弦楽専攻のコントラバスをやっている人たちが総出演しているのかと思われます。大学院から学部2年生までの学生のほか、卒業生も加わり、18名の出演者の名前があります。

 定刻前にプレコンサートがあり、4人の奏者のなかに夏奈(なつな)さんの姿がありました。名前もつい先刻、明子さんから教えて貰ったばかりで会ったことはもちろんありませんが、直ぐにわかりました。不思議なものです。どこかに明子さんと似たところを感じ取ったのでしょう。

 「コントラバスによるアンサンブル」ということで休憩をはさんで10曲の演奏がありました。4人ひと組(四重奏というのかな?)のティームで次々と舞台に立つのですが、みな仲がいいなあ、というのがぼくの印象です。学年を越えて力を合わせるというのはそんなにたやすいとは思えないのですが。
 けっこう緊張しているはずなのにそんな気配は微塵も感じられず、心を解きほぐしてくれるような演奏がつづきます。

 最後にヴェルディ作曲歌劇「アイーダ」より『凱旋行進曲』の演奏がありました。18台のコントラバスの織りなす響きを想像できるでしょうか。
 妻はセロ弾きのゴーシュのネズミになったような気持だといいます。身も心も軽くなって気持がいいのです。

 凱旋行進曲http://j-ken.com/category/all/data/622970/

 夏奈さんにお礼を言うチャンスがありました。握手もさせて貰いみんなで記念の写真も撮りました。ほんとうにありがとう。
 才能がある人たちが努力に努力を重ねてこんな素敵な発表会が出来るようになるのでしょう。明子さん母子のお陰で、思いがけず、楽しい思いをさせて貰いました。
 
 奏楽堂http://www.taitocity.net/taito/sougakudou/
 
 セロ弾きのゴーシュhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/470_15407.html


 芸大の構内を散策した後、夕方から上野駅駅ビルにある居酒屋に場所を移して4人の交流会です。二人の人生の話をゆっくり聞かせて貰いました。

 Kさんはものごころついた時から障害を持つ弟さんとどう生きるかが人生のテーマとしてあったといいます。
 小学生の時は弟さんの担任の教師までがいじめに加わり、悔しい思いをします。抗議するKさんもいじめられます。歯を食いしばって生きたのでしょう。
 今は老齢となった両親が心ある人の助けを借りながら面倒を見ていますが、これからのことを考えると気が重いようです。
 話を聞いていると家族だけで弟さんを支えることは不可能に見えます。だからといってどういう道があるのか、まだ誰にも見えていません。

 ぼくはKさんの高一と高三のHR担任です。しかし、今夜の話は初めて聞くことです。肝腎なことは何も知らなかったのです。Kさんは明子さん以外にはその悩みを相談してこなかったようです。今日は話が出来てよかったと言います。
 卒業して28年、ようやくぼくも友だちに近づいているのかな。うれしいことです。
 
 ぼくの元同僚にこの道の先達(せんだつ)がいます。四六時中、障害を持つ人たちと暮らしていると聞きます。神様のように思えて近づきがたかったのですが、何か、ヒントをもらえるかも知れません。勇気を出して訪ねてみようかと思い始めました。
 
 

北朝鮮核実験抗議声明案④あきらめない

2009-05-30 10:02:57 | 韓国・北朝鮮
 ◎意見  Oさん(在日コリアン一世)

 抗議声明を出すことに賛成します。
飢える人民を過酷な状況に追い込みながら一部の支配集団のために
傍若無人なヤクザ集団の暴挙に怒りが収まりませんが、聞く耳を
持たない彼らに如何ほど届くのかを考えるとむなしくもあります。


 Oさんは脱北者の世話を日々続けており、「北」の実態をもっともよくしっておられる方の一人です。「むなしい」と感じながら賛成のメッセージを寄せてくれました。


 このブログをのぞいてくださる方は毎日200人はおられます。ありがたいことだと思います。でもぼくの提案に意見を寄せてくださった方は此処に紹介したほんの数人です。「声明」なんてむなしいと考えられるのでしょうか。

 数十年間もつづく金王朝のやりたい放題を許してきたのは中ソ(露)の独裁政権・韓国の親北政権・日本の朝鮮総連とそれに随伴する保革勢力……。日本だけをとっても北の独裁に荷担してきた者たちの力は侮りがたいものがあります。
 「声明」好きの日本の「知識人」たちが「声明」を出したと言うことも余り聞きません。
 私たちの力は確かに小さく政治的には無力です。しかし、私たちは「北」の社会に住む人々の声を確かに聞き取ることが出来る人間にはなることが出来ました。02年の「拉致」の発覚以来、拉致被害者・家族の声に耳を傾け、北朝鮮難民の方々から学びをする事が出来たのです。
 この核実験をはじめとする「北」のならず者たちの暴挙のさしあたって最大の被害者は「北」の人々です。実験場やその周辺で働かされた人々の運命はもとよりですが、飢餓に追いつめられている無数の人々がいます。この人たちの犠牲のうえに核の花が咲いているのです。


 北の食料難、「危機的」に=90年代後半以降で最悪-アムネスティ
            (5月28日13時10分配信 時事通信)

 【ロンドン28日時事】国際人権擁護団体アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)は28日、世界の人権状況をまとめた年次報告書(2009年度版)を公表。この中で北朝鮮について、「1990年代後半以降で最悪」という危機的なレベルの食料難に直面する一方、当局は人々の生存に最低限必要な食料を確保する対策さえ怠っていると批判した。
 報告書によれば、北朝鮮は「過去10年間で見られなかった規模」の飢餓に見舞われ、何百万人もが苦境に陥っている。大半は雑穀などで胃を満たすことを余儀なくされ、野草で食いつないでいる人も多いという。
 こうした状況にもかかわらず、北朝鮮当局は米国からの食料支援受け取りを拒否した上、昨年3月末には米国の人道団体の国外退去を命令。食料不足の報が全国に広がるのを防ぐため、長距離電話回線が遮断されたとも伝えられるとしている。


 ぼくは「北」に知り合いはいませんがこの日本には「北」から来て日々悪戦苦闘する知人が数人は出来ました。ハンさんはこのブログにこう書いています。

私の置かれたこのような状況下で何ができるか。
 頭が破裂するほど考えても良い考えは浮かんでこない。誰か助け舟を出してくれないかな。

 「助け舟」と言えるものにはおぼつかないけれど、市井の友人たちに勇気を持って人々の声に耳を傾けようと呼びかけるくらいのことはできます。私たちの声は「北」のならずものたちに届かなくても友人たちには届くかも知れません。「北」の独裁に荷担する勢力の力を少なくともこの日本からそぎ落とすくらいの気力は持っていたいものです。

 権力を持つ者たちがきめる「制裁」だけでどうかなるとは思われません。結局のところ、日本と中国と韓国の人々が「北」の人々の声にならない声に耳を傾けることが出来るようになるかどうか、それが決定的な力になるはずです。時間はかかっても私たちに出来ることを少しでもやってならず者たちを追いつめていこうではありませんか。あきらめたらおしまいです。

 宜しかったらこの土日にあなたの声を寄せてくれませんか。来週になったら成案を得て、声明への賛同者を募れればと思っています。

 
 ◎番組のお知らせ◎ 31日(日)16時から NHK総合

 「故郷行 中国・家族のルーツをたどる旅」

▽中国残留孤児・家族の原点をたどる旅▽国交正常化前に独力帰国▽養母とのきずな

 日中の国交が正常化する前の1970年に命がけで帰国を果たした中国残留孤児が伊予市在住の城戸幹さんだ。去年秋、幹さんは、帰国までの道のりを記した著書で大宅賞を受賞した娘の久枝さんと、中国での軌跡をたどる旅をした。養母と過ごした中国東北部黒龍江省の村や高校生活を送った牡丹江市など、幹さんの人生にゆかりある土地や人たちを訪ねながら、日中間の歴史にほんろうされた「家族のルーツ」を見つめ直していく。

【出演】城戸幹,城戸久枝,【語り】加藤健一,【朗読】河本邦弘


 
 




 

「木島平の高山さん」 ハンさんのブログから

2009-05-29 11:40:44 | 韓国・北朝鮮
  ハン・ソッキュさんが「きいちご移動教室」で信州に行ったときのことをご自分のブログに書かれています。
 
 「自分の命を張って体験した人」同志の出会いに感銘を受けます。高山さんからすればぼくもまだ「はな垂れ小僧」です。お二人の思いに応えて生きたいものだと思います。

 順番は逆ですが「帰国者チャンネル」から二つの記事を紹介させていただきます。




 2009年05月20日
  

   木 島 平 の 高 山 さ ん
   
 長野県へいってきて何日もたつのに・高山さんとおっしゃるおばあさんの満州開拓団の頃のお話が繰り返し思い出されるし、彼女の姿が目の前で去来する。

 86歳というご高齢にもかかわらず、とてもパワフルでエネルギッシュな方だった。戦争は二度とあってはならないと再三再四強調され、そのためには政治から目を離してはいけないということを訴えられた。

 ドンピシャリ、まさにその通りだ。人間社会は政治がすべてを解決する。誰に教わらなくても自分の身を持って体得した真理である。おばあさんのお話を聞きながら私は顔も素性も知らない二人がくしくも同じ結論に達していたことに驚きを禁じえない。まさに自分の命を張って体験した人のみが到達することのできる境地ではないだろうか。

 いくら肥沃な国土を持ち、ざくざくうなるほどの地下資源のあるすばらしい国土を持っていたとしても政治が悪ければ国民は飢えを免れることはできないし、理不尽に命をとられても抗議の目つきさえ送ることができない、

 ばかげた政治をするとどんな結果を招くのかということを北朝鮮は世界の面前にさらけだしている。肥沃な土地と豊富な地下資源、そしてまれに見るすばらしい自然の景観に恵まれた国土を持ちながら、その上で毎日痩せさらばえた餓死死体が積み重なっていくのを見ながら、一言の異議も唱えられない自分自身の胸をどれほどかきむしったことか。
 
 そうなのだ。政治が脱線しないように全国民は神経を尖らせて監視しなければならないものなのだ。 
 このことをあのご高齢のご婦人は誰に教わることなく体得されたのだ。そして私と同じく年をとっていく自分にあせりを感じているのかもしれない。

 自分亡き後、日本がまた戦争という悲劇に巻き込まれないように一人でも多くの反戦勇者を育成して、未来の日本に対して安心して死んで行きたいと思っておられるのであろう。

 私の心にはそのおばあさんのおっしゃりたいことが私の思いと重なってひしひしと迫ってくる。

 若者たちよ!今の幸せが多大な犠牲の上に成り立っているということを認識して「政治なんか私に(俺に)関係ない」なんていわないで、がんばってあのおばあさんの後について行って下さい」
もちろん私も後に続かせていただきます。




2009年05月13日
  
 生 ま れ て 初 め て の 温 泉 旅 行
 
 多民族共生に関する活動をしていらっしゃる団体からのお招きで長野県の菜の花公園をメインに信州一泊二日のバスツアーに参加させていただいた。

 前日から体調の優れなかった私は行けそうになかったのだが、子供たちが楽しみにしていたのに私のために不参加というのもかわいそうだと思って薬をいっぱい飲んで、持って無理をして出かけていった。

 大型連休明けということもあってか高速道路はスムーズに流れ、すばらしい天候にも恵まれて文句なしの行楽だった。

 菜の花公園でそれぞれ持参した弁当で昼食をとりホテルについて、生まれて始めて温泉に入った子供たちはびっくり仰天、大はしゃぎのしまくりである。

 大量のあふれるお湯が地底から熱いまま出てくるといぅことがなかなか納得できないし、露天風呂に屋根や壁がなくても一年中熱いお湯があふれていると言うことがどうしても理解できない。

 うるさくなって「いいからプールで遊びなさい」といったら今度は母親ともどもいくら時間がたっても出てきてくれない。

 地元で取れる山菜を主にしたホテルの食事はとてもおいしかった。シーズンオフの山頂のホテルは景色良し、空気良し、食べ物良し、全て良し、で言うことなしというところだ。

 心配した私の体調も澄み切った空気のためか、悪くなるどころかずいぶん良くなった感じで皆様にご迷惑をおかけすることなく旅行を続けることができてホット胸をなでおろした。

 夜は満州開拓に参加されたおばあちゃんの体験談を聞かせていただいた。86歳だというのに元気いっぱいで戦争は二度とあってはならないということを再三再四強調しておられた。
「こんなにご高齢の方が現役で活動していらっしゃるのに私は何をしているのだろう」と自分自身を反省しても見る。

 千曲川を後にして二日目のバスは信州の山道をどんどん高度を上げていく。すばらしく整備された道路はバスの揺れさえ感じなくて乗り物酔いのひどい北朝鮮出身者3人もけろっとしている。2100メートルまで上り詰めると、そこではスキーを楽しんでいる人たちが楽しそうにスローブを滑走したり、リフトで上へ上がったりしている。まさに夢を見ているようだ。

 山頂の店で山菜とか記念品とか買い物をして下りはバスの中でカラオケを楽しむ。
私の家族をはじめ皆さん楽しく時間を過ごしている中で、その雰囲気に完全に溶け込めない自分を発見する。

 北朝鮮にいた時、私には長野県出身の友人がいた。彼女の父親は朝総連の活動家で、母親は日本人妻だった。
一家は父親が結構大物活動家だったらしく帰国してからピョンヤンでよい暮らしをしていたそうだ。

 1970年代の後半、急にトラックに押し込まれた彼らは、一度入れば二度と生きては出てこられないという強制収用所へ連行された。
父親は初めから別に連行されて、どこで、いつ殺されたかも知らされなかったらしい。

 母親と彼女を筆頭とする5人兄弟の一家6人は、12年以上を犬畜生にも劣る生活を送りその間に母親を初め3人の家族を葬った。

 入れられるときと同じく急に地獄から出されて私が住んでいる都市に来た彼女は縁あって私と親交を結ぶことになった。聡明で美しい彼女は何とか生き延びようとありとあらゆる手段を選ばなかったが、あまりにも過酷だった収容所で得た心臓病で1994年頃、うらみ多いこの世を去った。

 生きていた頃、彼女は自分が生まれ育った信州の話を良くしてくれた。千曲川とその上流の冷たく澄み切った水で育てられるわさびについて。食べるのは好きだったがわさびが水の中で育てられるということを彼女からはじめて教わって驚いていたら「あなたでも知らないことがあったんだ」と手を打って喜んでいた彼女の顔が脳裏に焼きついている。

 限りない愛情を込めて夢見るような目つきで故郷について話していた彼女の顔がバスの窓ガラスに浮かんでくる。

「このバスに彼女と一緒に乗っていたら今の私はどんなに幸福だっただろう」と思うと涙がこぼれそうになる。
「たった一度でいいから故郷の山を見たい」といっていた彼女!何も悪いことをしていないのに檻(おり)の中に監禁され、殺された彼女!

 いつになったらあの国は滅び、日本から騙されていった人たちが胸を張って自分の故郷に帰ってくる日が来るのだろうか。

 自分の感情に負けて勝手なことをいってごめんなさい。楽しく貴重な旅行を体験させてくださった皆様方に心から感謝いたします。


 出典 帰国者チャンネルhttp://blog.livedoor.jp/kikokushachannel/archives/51166730.html





北朝鮮核実験抗議声明(案)③鈴木倫子さん

2009-05-28 02:15:49 | 韓国・北朝鮮
 寄せられた声明(案)・意見・感想を紹介しています。市民が連名で抗議声明を出そうというぼくの提案に賛成していただけるなら、あなたの<案>を是非紹介してください。ぼくのメールアドレスは keisukelap@yahoo.co.jp です。

  ハン ソッキュさんのメッセージを読んで
       〈鈴木倫子の個人的抗議声明〉

 自由にものが言えない社会というのがどんなものなのか、私たちは、戦前の歴史から学んできました。だけど北朝鮮における「言論の不自由」は、あんな生やさしいのもではない。「批判めいたことは一切、寝言で口にすることも出来ません」と、ハンさんは電話で言いました。それがどんな社会なのか、そこに身を置いたものにしか理解できないでしょう、と。たしかにそうです。あらためて考えてみると、今、この日本では、自分が信じるところを語ることに対して、ひとかけらの勇気も要らないのです。ただし、あっちにもこっちにも「いい顔」をしていたいとさえ考えなければの話ですが。
 同じ時空にいながら、北朝鮮に親族を残してきたハンさんの状況は違います。「残してきた親族をあんな奴らにむざむざと殺させてなるものか」という思いと、北朝鮮がどんな社会なのか、人々がどんな状況に追い込まれ殺されているのか伝えていかなくてはならないという思いのはざまで、薄氷を踏むような気持で日々過ごしているに違いないハンさんです。自分に何が出来るだろうか、何とかしなければならない、考えて考えて、「頭が破裂しそうになる」というハンさんからのメッセージの尊さに胸が詰まりました。
 「北朝鮮には親族がいる。朝鮮総連は人質を取られているようなものだから、何にも言えない」という言葉をよく聞きます。ほんとうにそうなのでしょうか。一人一人は「怖くて何も言えない」でも、朝鮮総連が総体として「何も言えない」というわけがないと思うのです。言えないのではなく「言いたくない」のだとしか考えられません。仮に在日民族団体がほんとうに「何も言えない」のだとしても、「怖くて何も言えない」一人一人の胸の中には、言いたいことが山とあるはずです。「うちの何某が原爆製造の現場や地下実験施設の建設に追いやられてはいないか、安全設備の整わない現場で死んだりしていないだろうか」と心配している人たちだっているはずです。「うちの何某」でなくたって、そういうところで働かされている人たちの身の上は、考えるだけで身の毛がよだつ、恐ろしいことです。
 核実験や核兵器の保有は、北朝鮮だけでなく既に「核保有国」として認められている全ての国について、厳に非難されるべきことです。それは、子孫末代にまで至る人類に対する敵対行為であるばかりでなく、地球上の生きとし生けるもの、否、地球そのものに対する、許し難い暴力行為です。核を保有するのは人間です。その人間に伝わる言葉を持っているのは人間しかいないのです。だから、地球と全ての命を代表して、「人間」が抗議の声を挙げなくてはならないのです。
 「原爆の図」を描いた丸木俊さんは、かつて中国の核実験に際して「原爆にきれいなものとそうでないものの区別はありません」と抗議して、日本共産党と袂別したそうです。広島で原爆を体験した丸木位里さんのお母さん、丸木スマさんは「ピカ(原爆のこと)は、人が落とさにゃ落ちてこん」と言いました。私は、核兵器の廃絶は、必ず実現させなくてはならない、「核兵器」というパンドラの箱を開けてしまった人類の全地球に対する債務だと考えます。だからこそ、北朝鮮の二度にわたる核実験に対しても、断固たる抗議の意思を表明します。
 
 

北朝鮮核実験抗議声明(案)②渡辺鋭幸さん

2009-05-27 14:50:10 | 韓国・北朝鮮
 昨日は川越公園の河川敷の林を散歩しました。今日は山田の入間川の土手まで自転車で行って一休みしてきました。プラスチック製のグライダーを飛ばす同年輩の方の話を聞きました。その心は紙飛行機に夢中になった少年の頃に戻りつつあるようです。 


   抗議声明(案) 渡辺鋭幸さん(千葉県在住)
 私たちは日本に暮らす、在日韓国・朝鮮人と日本人のグループです。私たちは貴
国のこの度の地下核実験に、強く抗議致します。
 私たちはこの抗議を「北朝鮮憎し」の立場からするものではありません。私たち
のグループには様ざまな背景の人が集まっています。
 貴国の行動は、日本に暮らす朝鮮籍の人びと、また貴国に暮らす日系の人びとの立場を失わせかねない事、また今回の実験に従事し、また影響を被った貴国の人びとの身心に重大な影響を及ぼし得る事を、私たちは危惧しております。
 
 そして、日本は世界「唯一」の核被爆国です。いえ、厳密には核実験を行った多
くの国で、実験による犠牲を強いられた人びとが存在し、劣化ウラン弾など核を用いる兵器の犠牲となった、多くの人びとが世界に存在しています。しかし核開発を求める国では、核の恐怖を公言し、その廃絶を祈ることは困難を極めます。

 日本は甚大な犠牲の上に核の恐怖を学び、歴史の教訓としても公教育においても、その廃絶と平和の到来を希求する国です。そして日本に暮らす私たちが世界に平和を訴える事は、世界の過去・現在・未来の戦争犠牲者への責務であり、かつて世界の平和を乱したこの国の罪の一端を贖う責務と考えます。
 戦争はその勝敗に関わらず、ごく一部の権力者のために一般民間人が犠牲を強い
られます。そして核の使用は、人類のエゴのために全ての生きとし生けるもの、
いえ地球全体に犠牲を強いる行為です。国ではなく、人類や生命の全体、地球全
体のための貴国の自制を切に要請します。


◎意見 Mさん(在日コリアン4世)

 かなり、恐怖を覚えますよねえ。日本人を拉致したり、ミサイルをかすめたりし
た過去のある国が、核実験を行う。これは日本の安全保障上、危機を覚えます。
 何年か前に話題になったフランス、インド、パキスタン、中国などといった国も
核実験をしてますが、日本に特に脅威を与えていないので、危機を感じません。
しかし、北朝鮮が持つと、恐怖を感じます。だけど、彼らは日本人が抗議したと
ころで、放棄するとは思えません。だけど、抗議はしたいと思います。

 ◎意見 Iさん(コリア系市民)

 鈴木さんの呼びかけに応えようと思いますが、私自身、日常の課題に忙殺されて
おり、北朝鮮の核の問題にまで時間を割けないのが現実です。
 取り急ぎ、鈴木さんの呼びかけに賛意を表明します。

北朝鮮核実験抗議声明(案)① ハン・ソッキュさん

2009-05-26 21:46:33 | 韓国・北朝鮮
 北朝鮮の核実験に抗議声明を出そうというぼくの提案にハン・ソッキュさんが何か役に立てるかといわれて一文を寄せてくれました。

 ハンさんは10代の後半に北朝鮮に「帰国」し、40数年後の2003年脱北を敢行後、日本に帰ってこられました。帰国者と日本人家族の実情を世界に報すため2007年『日本から「北」に帰った人の物語』(新幹社)を刊行するなど、日に日を継いで活動されています。

 ぼくはハンさんの文章を何度も何度も読みました。心に響いて元気が蘇ってくるような気がします。

 皆さんはどうでしょうか。どうぞ、読んでみてください。
 宜しかったらぼくの願いに答えてあなたの声明(案)を書いて寄せてください。 お願いします。      



      私 に で き る こ と

                    ハン ソッキュ



 1960年、 金 日成総合大学の物理学部に初めて核物理学科が設置され、新入生の入試が実施された。日本から朝鮮へ渡って何ヶ月にもならない私は、この国にも先進科学の先端を行く核物理学科ができたことを喜んだものだった。今考えると、おめでたいにもほどがあったというものだ。
 その後、ニョンビョンに核物理学研究所ができ、北朝鮮出身の私の友人がニョンビョンに派遣され二度と彼と会うことはなかった。
彼はニョンビョンへ行く前に私に会いに来て、「その研究所で10年も働けば子種がなくなるそうだ。行きたくないのだが、行かなければ大学卒業資格ももらえず炭鉱送りになるから行かないわけにはいかない」と、嘆いていたことを思い出す。
 それが北朝鮮の核への暴走の始まりだった。
 北朝鮮になぜ核兵器が必要だというのか。あれだけ地下資源が豊富で、風光明媚な国土を持ちながら、東北アジアで唯一数百万人もの餓死者を出している。そんな国になぜ核兵器が必要なのか。
核兵器は人民を救いはしない。核兵器を振りかざして世界に脅かしをかけても得るものは何もない。
社会主義のモットーも面子もかなぐり捨てて彼らが得たいものが何なのか。


あの国へ入って40数年。どんなに間違ったことを見ても聞いても一言も言わないで黙っていなければならなかった。それがどんなに辛く耐え難いことか。自分が思ったことをいつどこででも発言でき、行動できる社会に住んでいる人たちには、それはどんなに理解しようとしても理解することのできない社会なのだ。

「この国をどうにかしなければならない。どうにかするためにはまずこの国から脱出しなければならない」。その思いだけを胸に国境を越えた私だったが、日本に戻ってきて何をしたのか。
 昨日、今日の核実験の報道を接するにつけても、自責の念に臍をかむばかりである。「あの国に残してきた肉身の命は私のものではないし、ましてやあんな犯罪者たちの手にかけさせるわけには行かない」という私の考えは利己的なのか。私の肉親たちの命を犠牲にしてでも全面戦争に挑まなければならないのか。
 私は自分自身を本当に小物だと思う。しかし、今この瞬間も、私の立場は変わらない。私の置かれたこのような状況下で何ができるか。
 頭が破裂するほど考えても良い考えは浮かんでこない。誰か助け舟を出してくれないかな。
 今、私に言えることは北朝鮮の非核化のためには、あの国の核武装化に手を貸した朝鮮総連が、反対運動の先頭に立たなければならないということだ。
 9万4千人もの在日朝鮮人たちを北朝鮮に送り込んで不幸のどん底に叩き込んでもだんまりを決め込み、今また北朝鮮が時と場所もわきまえずに核兵器を振りかざしているのを見て見ぬふりをするということになればこの日本に朝鮮総連の居場所はなくなって当然なのではないか。
 もうこのくらいにして朝鮮総連は北朝鮮離れをして、今まで犯してきた過ちを認め、日本を始め国際社会に謝罪をし、北朝鮮の非核化のために努力をすることによって自身の立場を正さなければならないと思う。
 これ以上黙っていることは許されないし、このままだと日本社会に存在の場所がなくなるだろう。
 今の私にはこんなことくらいしか言えない。
 なんとも歯がゆく、情けないが、こんなことからでも北朝鮮の暴走を抑えるための運動の足しになればという願いを込めて、この文を書いた。

 『日本から「北」に帰った人の物語』http://aoinomama13.seesaa.net/article/78371870.html
                          

核実験に抗議声明を出しませんか

2009-05-25 22:39:35 | 韓国・北朝鮮
 先週から体調が今ひとつでごろごろする日が続いています。土曜日にあった精さんの退職祝いも遂に欠席する始末です。
 そんなときに松本さんが奥多摩の帰りだといってヤマメの塩焼きを届けてくれました。病身のお母さんをときどき温泉に誘って痛みを和らげる手助けをされているのです。ぼくのことにも気をかけてくださるなどありがたくもったいないことです。

 さて、そんなぼくですが今日は一気に現実世界に引き戻されました。北朝鮮が核実験を行ったというのです。こんどは成功したらしく、平壌放送は「強盛大国」への道を自賛しています。

 北の独裁政権がその独裁を維持するために進めている核武装が危険きわまりない冒険であり、東アジアに生きる私たちに直接的な脅威となることはいうまでもありません。
 実験が行われたのは日本海の対岸です。地下実験だからといって安心していいのでしょうか。実験がこの地域の生態系に及ぼす影響は? 実験場で働かされた人々はどうなっているのでしょうか。北朝鮮の社会の最底辺に落とし込まれた日系人や在日帰国者の運命も気がかりです。

 ぼくは非戦・非核を願う市民の一人として「北」の核実験・核武装をどんなことがあっても認めてはならないと思います。これを認めてしまったら私たちがこの数十年間、大事に育ててきた「私たち自身」が崩れ、壊されてしまいます。ぼくの命も輝きを失います。

 とりあえず、市民の一人として、「許さない」という声を挙げたいです。出来ることなら日本中の人々が声を挙げてほしいと思います。

 そこで友人たちにお願いです。「北朝鮮の核実験を許さない!市民声明」の原案を書いてくれませんか。いろいろな方の賛同を募って社会に私たちの声を届けましょう。コリア系の方々を含む多彩な人の声になるといいですね。

 おまえが書けといわれそうです。今ちょっと元気がないのです。それにこういうことは少しでも若い人がいいのではないかと思います。それで提案しています。


 「非常事態」と考え、今日は「妻」が特別出演させて貰います。
 北朝鮮が二度目の核実験をやったことを知って、今日は一日中眉間にしわを寄せていたなあと思っています。夕方のニュースで、広島の平和公園に座り込んだ被爆者達の様子が報道されました。じっと座り込んだ人たちの姿から、静かな怒りが伝わってきて、私もやりきれない思いでいっぱいになっています。
 かつて、中国が初めて核実験をやったとき、「原爆の図」を描いた丸木俊先生は、「核兵器にきれいなものとそうでないものの区別はありません。わたしたちはあらゆる核兵器に反対します」と言って、中国の核実験に対してきっぱりと抗議したそうです。もしも、俊先生が生きておられたら、今日のニュースをなんておっしゃるかしら。きっと、今日は朝から、来る人来る人つかまえて「黙ってちゃいけないわ。抗議声明でも何でも早く出しましょ。」そう言い続けておられたに違いありません。私は「核兵器にきれいも汚いもありません」と言い切った俊先生の心に惹かれて、今、丸木美術館で評議員やボランティアをやっています。
 丸木美術館の偉い人たちが何か声明出すのか出さないのか知りませんが、私は、ここに「北朝鮮の二度にもわたる核実験」に対する満腔の怒りを表明しておきます。
 核兵器の保有と核実験は、人類はおろか、全ての生きとし生けるもの、いいえ、この地球そのものへの許し難い敵対行為です。核兵器の廃絶は、きっと実現させなくてはなりません。そのために何かしなくちゃならないんだとは思うけど、一人で、とっさに出来ることをやっておきたい、そう考えて、ブログの「間借り」をさせて貰いました。(倫)

 

内原義勇軍資料館

2009-05-24 22:08:01 | 中国残留日本人孤児
 『木苺』121号(05年3月)からの転載です。 


     内原郷土史義勇軍資料館
 
                          鈴木啓介

 2月13日に8年ぶりに茨城県内原を訪ねた。木いちご移動教室の下見というわけだが、役場の近くに「内原町郷土史義勇軍資料館」という立派な施設が完成していた。館内は郷土史ゾーン(歴史民俗資料館)と義勇軍ゾーンにわかれている。
 義勇軍ゾーンは1938年に開設された満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の歩みやここでの子どもたちの生活が農具や教科書、写真などで紹介されている。元義勇隊員たちから〈心のふるさと〉などと呼ばれているという日輪兵舎も隣接して復元されている。建坪30坪直径11㍍の「パオ包」にヒントをえて考案されたという円形の建物だが、中央に広い土間があり、その周囲に少年たちが起居したという二段づくりの床板が張られている。開館したのが03年2月1日とのことで、新しいせいか明るい感じ。一巡したところ所長であった加藤完治などの目論見を理解することはできるが、ここで2-3ヶ月を過ごし、「満州」に送られた少年たちの生活の実態と本音はほとんど知ることができないように思った。日輪兵舎にしてもここに60人の少年が詰め込まれ、一人あたりのスペースは畳一枚というではないか。
 「当時、この日輪兵舎を褒める者はあっても批判する者はなかったが、今にして思えば、鶏舎の鶏のように詰めこまれてプライバシーを持つことの許されぬこの兵舎は、まことに非人間的な建物であったといわなくてはならない。満州へ兵農植民を強行しようとする為政者は、貧農の二・三男など人間と思っていなかったから、少年たちを非人間的な日輪兵舎に詰めこんだのであろうか」
 30年余り前に買って読んだ『満蒙開拓青少年義勇軍』(上笙一郎・中公新書)にはこう書かれている。これでもかこれでもかと悲劇を強調することはないかもしれないが、当時の生活の実態を参観者が想像することができるよう必要な説明をつけることは、博物館として最低限の責務ではないだろうか。
 家に帰ってここで購入した『曠野に消えた青春―満蒙開拓青少年義勇軍・群馬根岸中隊』(大利根同志会編・上毛新聞社刊)を読んだ。戦後50年を期して、当時の隊員たちがその体験を綴った記録集だが、編者は「紙のお墓」と称し、「紙の墓はカネでは建ちはしない。体験者がコツコツと建てるしかない。だが、建てておけば紙の墓は激動の昭和を命を賭けて歩んだ少年の真実を、いつでもどこでも、いつまでも語りつづけて、平和の尊さを伝えてくれることを信じて止まない」とあとがきに記している。まことにその通りで、ぼくはこの分厚い本をめずらしく一気に読んだ。加藤が暗記復唱させた『心得』に「他民族ヲ敬セヨ」という徳目があるが、この本には義勇隊は現地人の間では「ショートル小盗児 義勇隊」と呼ばれていたことが「こんな野蛮人に何故なった。誰がした!」という痛責の念とともに記録されている。
 これはほんの一例にすぎないが、体験者でなければ書けない少年の日の叫びやうめきが歴史の彼方から聞こえてくるような気がするのだ。内原を再訪して一番よかったことは、この本にめぐりあえたことかもしれない。3億円以上をかけたというこの資料館が何も語ってくれない「石の墓」にならないよう、関係者の熟慮をお願いしたい。

 内原義勇軍資料館http://sabasaba13.exblog.jp/4090302/

朴保(ぱく・ぽう)デビュー30周年

2009-05-23 07:38:13 | 友人たち
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 疲れが出たせいか、この一週間ごろごろして過ごしました。昨日、ふるさとの湯に連れて行って貰ったせいか、いくらか、楽になったような気がします。

 京都で朴保くんの応援をしているコさんから新しいアルバムの名前と曲目が決まったと連絡がありました。

 『架橋~未来へ』で13曲が納められます。

 コさんたちが中心になり「朴保新アルバム制作100人委員会」を作り、アルバムの作成とライブ活動に取り組んで居られます。
 ぼくもその一員になっていますが20周年の時とは違って何が出来るというわけではありません。

 朴保ファンのみなさんへ。

 身近でライブを計画してみませんか。ミニライブでも喜んで出かけるそうです。この10年どんな変化があったのか、交流しあうのもいいかも知れません。
 京都を中心にあちこちで連続したライブがつづいているようです。

 朴保http://www.pakpoe.com/news.htm

 問い合わせ先 keisukelap@yahoo.co.jp 鈴木啓介

鹿児島・苗代川

2009-05-22 08:16:43 | 出会いの旅
 『木苺』112号(2003年5月)に掲載した文章です。東市来町は現在、日置市東市来町となっています。 

  苗代川
          鈴木啓介

 2月に家族で鹿児島を旅行したおり、友人の案内で苗代川(なえしろがわ)を訪ねることができた。今は日置郡東市来町美山となっているこの地に、朴平意ら17姓の朝鮮人が住みついたのは1603年(慶長8年)のことというから、今年はちょうど400年ということになる。
 彼らは1597年、朝鮮に再侵略した秀吉軍が全羅北道南原を包囲殲滅したとき、島津義弘の捕虜となり串木野(くしきの・鹿児島県)の浜に連行され、やがて薩摩焼の祖となったことは読者の知るところであろう。ぼくがこの人々の子孫、沈壽官さんのことを書いた『故郷忘じがたく候』(司馬遼太郎・文春文庫)をはじめて読んで深い感動にとらわれたのは80年2月のことだが、いつか訪ねてみたいと思いつづけてきた。
 退職とはいいものである。こんなふうに思いついて旅をして、出会ったことなどをこれからときどき紹介させてもらうことにしたい。

 薩摩焼の博物館ともいうべき壽官陶苑を見学したあと、村のはずれの丘の上にある玉山神社を訪ねた。一番印象に残ったことはあちこちに朝鮮名が刻まれていること。檀君を祀(まつ)ってあるという神社の入口にある「戊辰役従軍記念碑」には官軍苗代川小隊として従軍した車道竜などたくさんの朝鮮名が刻まれている。一番新しいと思われたのは、「皇太子成婚記念碑」(大正13年=1924年)の建碑者として刻まれている卞氏などか。のちに訪れた鹿児島市内の南洲顕彰館に隣接する「西南の役薩軍戦歿者名碑」にも伊集院(苗代川は伊集院村の一部だった)のところに朝鮮名が並んでいた。
 生家に昔からずうっと『敬天愛人』という南洲の書がかかっているせいか、薩摩といえばぼくは西郷隆盛を連想する。その西郷の軍隊にこれらのコリア系薩摩人も従軍し、はるか東北地方に転戦(戊辰戦争)したり、城山に奮死(西南戦争)したりしたのである。ぼくは何か新しい発見をしたような気になったものである。
 大正13年といえば、ほんの最近のことである。苗代川の出身で「大東亜戦争」の開戦時と敗戦時の外相をつとめた東郷茂徳(しげのり)が朴から東郷へと姓を改めたのは1885年(明治18年)だという。沈壽官さんにしても戸籍名は別にある。ぼくは明治期に民族名は失われたものと思っていた。しかしそうではなく、脱亜入欧のスローガンのもと朝鮮蔑視の風潮が強くなったあとも、ルーツを示す姓を守りぬいていた人々がここにはいたのである。神社の帰りに墓地を見つけたので寄ってみた。
 “朝鮮人陶工「季(ママ)氏元祖」の墓”という標柱のあたりに江戸期の墓石がいくつか並んでいる。夫婦墓と思われるものが多い。姓が同じ(李)ものがあった。女性の名が片仮名。それにしてもと思わないわけにはいかなかった。400年近いコリア系薩摩人の歴史を刻んだ文化財があちこちにただ放置され、荒廃にまかされていたのである。

すぐ近くで墓地の改修工事が行われていて、どこにでもある新しい墓が次々につくられている。今、朝鮮名の刻まれた墓は珍しいというわけではない。高野山や房州の海辺、そして陳石一さんの眠る東松山の墓地など、在日一世の墓の立ち並ぶ風景をぼくはあちこちで見てきた。しかし、日本に他にあるとは思えないこの貴重な共同墓地が荒廃にまかされている現実を、どう考えたらいいのだろうか。

 帰ってから司馬遼太郎の本や『祖父・東郷茂徳の生涯』(文芸春秋社)をよみかえし、旅で買った『新薩摩学Ⅰ』(南方新社)、『薩摩秘話』(同)を読んでみた。以下メモ。

 ①共同墓地にあった「伸」という姓のいわれ。鹿児島につれてこられた申さんが薩摩藩の役人に“さる”と紹介されたのに腹をたて、以後「伸」と名のったという。伸さん一族の墓は1980年、第11代医学博士伸友裕さんの手によってきちんと整備されているが、今も一族が伸と名のって活躍しているのだろう。
 
 ②薩摩藩は苗代川の人々に士族に近い待遇を与え、姓名・言語・祭祀など朝鮮の伝統の維持をはかり、男性が日本人と結婚することを禁じた。これは、毎年のように行われた朝鮮船の漂着を装った密貿易の際、苗代川の人々が通詞として活用されたこととかかわっている。しかし、世代交代を重ねるにつれて、母語として朝鮮語を話す人は少なくなり、雨森芳洲の『交隣須知』を教科書にして、朝鮮語教育が行われた。同化政策をとった鍋島(有田焼)や毛利(萩焼)とちがう海洋国家薩摩の姿が垣間見える。
 薩摩藩は幕末、調所広郷(づしょひろさと)が中心になって薩摩焼を振興し、ヨーロッパなどに輸出。巨利をあげた。玉山神社の参道に調所の墓があるのは、人々の感謝の念から。

 ③沈壽官さんの邸内にハングルで書かれた「下男」「下女」の墓があるという。これはもともと共同墓地にあり、沈さんが代々管理してきたが、所有者が東京の青山に墓を移転する際、沈さんが模して作ったものだという。

 沈寿官陶苑http://www.lit.kyushu-u.ac.jp/~adachi/essay/Yakimono/chinjyukan/chinjyukan.htm

『楽園の夢破れて』

2009-05-21 11:50:54 | 韓国・北朝鮮
 次の文章は 『木苺』112号(2003年5月)に発表したものです。

  本の紹介 『楽園の夢破れて』(関貴星著)   鈴木啓介
 
 幻の書にやっと出会うことができた。ぼくは110号の小論で『左派知識人たちの思想的頽廃』について書き、それは「スターリン主義的思考の残滓、植民地支配への贖罪意識、反日民族主義などのさまざまな要素が彼らを蝕んでいるからであろう」と指摘したが、ぼくもまた、決して例外ではなかった。その証拠が『楽園の夢破れて―北朝鮮の真相』を読もうとしなかったことである。「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の手によって復刻されたこの本(発売=亜紀書房・1997年)によると、著者は当時 、朝鮮総連中央本部財政委員だった関貴星さん、発行は1962年のことだったという。いつのころだったかは、はっきりしないが学生のころにぼくはこの本の存在を知った。もしかしたら、東京教育大学新聞会にあったのかもしれない。日韓会談に反対するキャンペーンにもかかわっていたぼくは、その出版社が「全貌社」であることを理由に読まなかった。反共を看板とする右翼系の品のない出版社だととらえていたからだと思う。それから40年ぶりに、はじめて目を通して、故人となった著者の勇気に深い敬意を感じるとともに、自分自身の不甲斐なさにあらためて思いをめぐらせることになった。
 本の内容は読者が直接手にとって確認していただきたいが、近年、脱北帰国者の手記によって明らかにされている北朝鮮帰国運動と帰国者の実態が、1961年の時点ですでに完璧に暴露されていることに驚きさえ感じる。著者は日本国籍をもっていたため同胞に先駆けて、1960年8月、日朝協会の使節団の一員として、約1ヶ月北朝鮮を訪問した。このときの衝撃をいかんともすることができずやがて生まれたのが本書だが、その「あとがき」にこうある。
 ……欺瞞、北朝鮮の実態、虚偽朝総連の実情を本書にえぐり尽くすことは、到底私の筆の及ぶところではないが、私は、私の後半生をかけ、怒りをこめてこの欺瞞と虚偽をあばきつづけるだろう。それが、せめても帰国者に対する私の償いであり、在日朝鮮同胞に対するはなむけであると信ずるからである。……
 帰国運動がまっ盛りのときである。同胞に真実を伝えようとする関さんに対する総連の対応は……。関さんは娘さん(呉文子さん)とその夫(李進熙さん)や孫たちと義絶して出版の道を選んだという。
 ……私は両瞼をとじて、じっと耐えた。その網膜にはあの北朝鮮で虐げられた生活をしている数百万の同胞が写っては消えた。あの人たちは、いま、必死になって光への窓口をもとめているのだ。私がこの役割を果たさずして、誰がこの役割を果たそうとするのか。私は私情に負けてはいけない。人間の絆のとりこになってはいけない。親子、骨肉の情に溺れてはいけないのだ!……
 ぼくはまだ20歳をすぎたばかりだとはいえ一応は「学生新聞記者」であった。手にとって読むことさえしようとしなかった自分を思い返すと若気の至りではすまない気がする。「イデオロギー」や「思想」や「宗教」やでとらわれてしまっていることの怖ろしさを思う。岩波の本であったら読んでいたにちがいない。この国で、左派がなぜ信用されなくなったかをしっかりと考えさせてくれる。この事態は40年たってもあまりかわっていないことをこの半年ぼくは悲しいほど感じている。不甲斐ない自分と対決し、独裁とそれに加担するものたちに立ち向かっていく勇気をふるいおこしてくれる本である。

朝鮮族自治州

2009-05-20 20:09:40 | 出会いの旅
 突然の暑さのためか体調が今ひとつです。2004年7月、中国吉林省朝鮮族自治州を訪ねたとき、妻が書いた文章(「木苺」125号)を紹介します。


  国境の街・延吉で聞いた話
                         鈴木倫子(川越市)

 しょぼしょぼと冷たい雨の降る延吉空港で私たち一行を待っていてくれたのは、現地ガイドのAさん。朝鮮族の女性だった。
 到着が夜中の12時にもなろうという時間。私たちも疲れていたが、明るい笑顔で迎えてくれたAさんも、くたびれた顔色だった。
 翌朝ホテルへ来たときは、前夜のスカート、パンプスといった「お出迎えモード」とはうって変わったカジュアルなパンツルックで、はじけそうな女の子。一瞬、別人かと思ったほど。聞けば、私の息子と同年ぐらい、夫も子どももいるのだから、けっして「女の子」なんかじゃないのだけれど、とにかく元気いっぱい、よく笑い、闊達におしゃべりしてくれた。
 埼玉にある留学生のための宿舎で暮らし、東大宮のスーパーなどでアルバイトをしながら日本語学校に通っていたというAさんの「ガイド」は、紋切り型のそれではなくて、自分の家族の暮らしや来歴を率直に語りながら、延吉のひとびとの生活を生き生きと伝えてくれるものだった。おかげで私は、旅行社のガイドさんではなく、まるで知り合いの「女の子」に生まれ故郷を案内してもらっているような、ほっこりした気持で旅をすることができた。Aさんと交わしたたくさんの話の中から、私の使い古した記憶装置に残っていることをいくつか、ここに書きとめておこうと思う。

●そこは満州族の「聖地」だった
 延吉は、延辺朝鮮族自治州の州都だ。延辺は昔は間島省と呼ばれていた。高知県の詩人、槇村浩が「間島パルチザンの詩」で描いた、あの間島である。Aさんの話では、もともと「間島」というのは、豆満江の川中にある島だけを指す地名だったのだという。ちなみに豆満江(トマンガン)は朝鮮での呼称で、中国では図們江と呼ばれている。 はじめは耕地が乏しい朝鮮側の人たちが、川を渡って島で出づくりしていたのだという。彼らはやがて対岸の中国側にまで、手を広げるようになり、「間島」と呼ばれる地域も広がっていったのだという。それが19 世紀の終わりごろのことだ。当時の中国は清朝である。長白山とその麓一帯は、皇帝の薬草を採取するための土地で、人々が住むことの許されない「聖地」だった。だがそれは中国での話であり、朝鮮からみれば「無人の地」ということになる。「聖地」は同時に「辺境の地」であり、そこは昔から辺境の民が跋扈する土地でもあった。漢族が支配していた時代には、彼ら主として女真族はまさに辺境の、王化に従わない野蛮な夷狄だった。女真族改め満州族の王朝である清朝にとって、そこは民族の故地として、特別な土地となった。でも辺境であることには変わりない。そして辺境というのは、政府の目が届きにくい。異民族であろうとなかろうと、アウトローたちの天地となり、やがては中央の支配者たちを脅かすことになる。
 内憂外患の清朝末期、政府にとって、国内の不穏分子よりは、異民族ではあっても地道に畑を耕す人たちの方がはるかに安心だと思われたのだろう。朝鮮の人たちの潜りの耕作と居住は半ば公然のものとなり、やがて日本が朝鮮を植民地支配するようになると、さらに多くの人々が国境の川を渡って住み着くことになった。
 
●北朝鮮に親戚があるAさん
 延吉というところはまさに「国境の町」で、そこにすむ朝鮮族の人たちは、紛れもなく「国境の民」だ。陸続きの国境をもたない日本人にとっては、行ってみて、人々と出会って、はじめて痛切に実感できることに違いない。それはまったく新鮮な感慨だった。
 Aさんの家族の「延辺朝鮮族」としての歴史はごく新しい。たぶん私とそう年は違わないと思われるAさんのお父さんが、若いころ、最初は一人でこの地にやってきたのだというから、それは解放後のことだ。何度か往ったり来たりするうちに定着して、家庭をもち、両親を呼び寄せたのだという。いまでもお父さんの兄弟や親戚が北朝鮮に住んでいる。文革の時代は北朝鮮の親戚にずいぶん助けてもらった。いまは、中国にいるAさんたちが朝鮮の親戚を援助している。Aさん自身も年に何回か衣類や食料やお金を送っているそうだ。親戚の人たちは、延吉からの援助がないと生きられないという。人民政府で働いている夫の方には、北朝鮮にいる親戚はいない。援助はAさんの実家の問題だから、夫の稼ぎを当てにしてするわけにはいかない。Aさんは、北朝鮮に仕送りするためと、子どもの教育費のために、稼がなくてはならないのだということだった。

●あんた日本にまで行って、なにやってたのよと言われて
 延吉で生まれて育ったAさんは、留学中の夏休みに帰省したとき知りあったBさんと結婚して、延吉に戻ってきた。そんなAさんのことを、友人たちは「せっかく日本に行ったのに、大金も持たずに帰ってきて、地味に暮らしているなんて、貴女はいったい日本でなにをやってきたの」とあきれかえっていたそうだ。日本に行った若い女の子たちは、こんな田舎町にもどってはこない。日本でお金持ちをみつけて結婚するか、中国に帰ってきても北京とか上海とか、大都会に行って派手な暮らしをすることができる。戻ってくるときは大金を掴んで戻ってくる。みんなそう思いこんでいるようなのだ。日本での生活がどんなものか、みんな知らないの。たくさんお金を稼ごうと思ったら、水商売や風俗店で働くしかない。確かにそうやってお金を稼いでいる女の子もいたし、運のいい子は金回りの良い日本の男をゲットして日本国籍を取ることもある。でもそういう道を歩んだ子のほとんどは、ズルズルと深みにはまって学校卒業はおろか、人生を踏み誤ってしまう。物価の高い日本でアルバイトをしながら勉強するというのはたいへんなことだったけれども、私は地道なアルバイトだけやってきた。だから大金を持って帰ってくるわけがないし、結婚相手の仕事先が延吉で、両親もこの街にいるのだから戻ってきた、そういうことよ、といっしょうけんめい話をして、このごろやっとみんなわかってくれたみたい。Aさんは、そう言って笑った。

●「棲み分け」をしている漢族と朝鮮族
 延吉は漢族と朝鮮族が共存する町。町の看板や道路標示は、必ず漢字とハングルが並んでいる。しかし生活する場所こそ共有されているが、人生において両者が重ね合わされることは少ないようだ。まず学校が、漢族と朝鮮族、それぞれ違っている。実際には「越境」も行われているが、制度としてそうなっている。朝鮮族の女の子には、「朝鮮族の男は威張るだけでダメ、漢族の男は優しくて、家の中のこともやってくれる」と、漢族の男性への評価が高いが、二つの民族間の婚姻は、ごく最近の話で、まだまだ一般的にはなっていない。朝鮮族は朝鮮族と、漢族は漢族と結婚するというのが、伝統的な婚姻のあり方だ。ことばや生活慣習といった文化の違いが、そのまま受けつがれているからなのだろう。
 私は「生活の場所が共有されている」と書いたが、これは単に、互いに排斥しあうことなく「同じ街に住んでいる」「同じ職場で働いている」ということを言ったにすぎない。「生活の場」ということになると、それはむしろ截然と仕切られていると言った方があたっているかもしれない。二種類の文字の看板が林立し、画一的な外観のビルや集合住宅が建ち並んでいる都市部だけを見ているとわからないが、一歩農村部に足を踏み入れると、それが歴然としてくる。
 長白山に行く途中、Aさんに注意を促されて、車窓に目をやった。一面に耕作地が広がっているが、畑地のところは畑地ばかりが続き、水田が現れると今度は水田だけが続く。日本の農村風景では二つが入り混ざっているのが普通なのだが、ここではけっしてそういう風景は現れない。さらに、家の屋根の形が二種類あって、これも互いに入り交じることがなく、しかもよく見ると耕地の種類に対応するように存在している。ひとつは切り妻の屋根。これが畑地に囲まれるようにして現れる。もう一つは入母屋の破風がついた屋根、しかも屋根の裾が反り返っている。それは必ず水田の中に現れてくる。あ、朝鮮の民家の屋根だと気づいた。すると、味も素っ気もない切り妻屋根の方は漢族が住んでいるのか。「当たり」だった。つまり、村はひとつの村かもしれないが、その中で漢族と朝鮮族は画然と棲み分けをしているのだ。
 延辺は中国東北地方随一の米倉らしいが、Aさんの話によると、この地で稲作をはじめたのは朝鮮族だそうだ。以来朝鮮族は米を作り続けている。漢族は畑作だけだという。米は、少し前まで日本にもあった食管制度のようなもので価格を統制されているので、米作農家は実入りが少ない。畑作物は統制されていないのでよいお金になる。だから漢族は、苦労ばかり多くて、年一回しか収穫できない米作りをわざわざやろうとは考えない。では、朝鮮族はなぜ、実入りのよい野菜農家に鞍替えしようとしないのか。Aさんは、「野菜は堆肥や人糞を肥料に使うから汚い、という理由で朝鮮族は決してやろうとしないんです」と説明してくれた。朝鮮族は好んで米を作り、漢族は野菜を作る。農村では漢族と朝鮮族が、住む場所だけでなく作物まで「棲み分け」して、両者が競合することはない。この文章の冒頭で、「共生」ではなく「共存」ということばを置いてみたのは、そんなわけだった。 

小康状態つづく

2009-05-19 07:10:19 | 父・家族・自分
 18日(月)癌研有明病院の西尾医師の診察がありました。血液検査、肺の間接撮影ともに格別の異常はなく、出来ることは何でもやって宜しいという診断です。
ありがたいことです。

 新型インフルエンザの患者さんが関西方面に激増中です。どういうことになるのか、ぼくもしばらくはなるべく人混みの中には出ないようにします。風邪やインフルエンザは呼吸器障害を持つ者には大敵です。
 妻の指示でマスクをして出かけました。電車の中ではそのような人はほとんど見かけません。病院でも少数派のようでした。

鳩山内閣

2009-05-17 22:13:52 | 政治・社会
 鳩山由紀夫さんが民主党の代表に選ばれました。55年前、鳩山内閣が出来た頃のことを思い出します。
 ぼくは中学に入ったばかりで親元を離れて下宿生活でした。小学生の頃からラジオ(NHK)は良く聞き、新聞も読んでいました。
 長くつづいた吉田内閣が倒れたときにはこどもながら明るい気持になったことを覚えています。

 当時のことを「近代日本総合年表」(岩波書店)から抜き書きします。


 1953・4・19 衆議院選挙(自由党199・改進党76・左派社会党7            2・右派社会党66・分党派自由35)

      5・21 第5次吉田茂内閣成立
 1954・4・21 犬養法相、検事総長に対し指揮権発動。自由党幹事長・佐           藤栄作の逮捕許諾(造船疑獄)を請求しないよう指示。

      4・24 内閣不信任案208対228で否決。
      9・6  衆議院決算委員会 佐藤藤佐検事総長、指揮権発動で捜査           に支障と証言。吉田茂首相の証人喚問を決定。
      9・18 吉田首相、喚問を拒否。決算委、首相告発動議可決。
      9・19 鳩山一郎・重光葵(まもる)ら反吉田新党結成で合意。
     11・24 日本民主党結成(総裁・鳩山一郎)
     12・6  民主・両社共同で吉田内閣不信任案提出。
     12・7  吉田内閣総辞職
     12・9  衆参両院、鳩山一郎を新首相に指名。民主・両社、55年           3月までに総選挙を行うと共同声明。
     12・10 第1次鳩山内閣成立。

 鳩山一郎とは由紀夫さんの祖父にあたる方です。1946年4月、自由党総裁として首相になる直前にGHQから戦争犯罪に荷担したとして公職追放となり、代わって吉田茂が組閣することになったのです。旧憲法下ですから国会の指名ではなく天皇の「大命」に基づく最後の総理大臣です。麻生首相の祖父にあたります。

 吉田茂は46年から54年までの長期に渡り政権を担当し、良かれ悪しかれ、戦後日本の進路を導いた人です。父母が高知県人で、選挙区も高知でした。
 ぼくがものごころついたのはこの年表のころで「吉田内閣ぶったおせ」という声が巷(ちまた)にあふれていました。朝鮮戦争をきっかけに警察予備隊の創設など「逆コース」がはじまり、「吉田=反動」というレッテルが貼られるようになったのです。そこへ中枢部の汚職が発覚したのですから、さすがのワンマンも自制心を失ったのでしょうか。指揮権発動という今では考えられない行動に出た末、退陣に追い込まれたのです。

 8年ぶりに宿願を果たした鳩山首相は日ソ国交回復に取り組み、その結果日本の国連加盟も実現しました。ぼくは鳩山首相が病身をおしてモスクワに飛び立つとき、羽田空港で「至誠天に通ず」という言葉を残したことを記憶しています。
 しかし、社会主義国との友好関係を築こうとする鳩山首相がなぜ、学生達に血の弾圧を加えるのか不思議でなりませんでした。彼らは米軍の砂川基地(東京)の拡張に反対して座り込みを続けていたのです。

 鳩山内閣時代の年表です。

 1955・2.27 衆議院選挙(民主185・自由112・左社89・右社6           7) 護憲派 3分の1を確保。

      9・13~砂川基地拡張のための測量を廻って警官隊と反対同盟など           の衝突つづく。
     10・13 社会党統一大会
     11・15 自由民主党結成(いわゆる55年体制はじまる)

 1956・5    政府、小選挙区法案の強行するも結局廃案に。
      6・11 憲法調査会法公布
     10・12 立川基地強制測量。負傷者1000人を超える。14 測           量中止決定。
     10・19 日ソ共同宣言 国交回復
     12・18 国連総会、日本の加盟を全会一致で可決。
     12・20 鳩山内閣総辞職 23 石橋内閣成立。

 鳩山首相は日ソの国交を回復し、日本を国際社会に復帰させるとともに、憲法を改正し、国防力を整えようとしました。そのためにハトマンダーと呼ばれるほどの与党に有利な小選挙区制度を導入しようとさえしました。これには社会党をはじめとする革新勢力が激しく抵抗し、遂にあきらめざるを得ませんでした。以後長くつづいた55年体制の下では護憲勢力が国会の3分の1を占めつづけ改憲は事実上不可能となりました。
 
 鳩山内閣は吉田自由党内閣に引導を渡す形で登場し、朝鮮戦争の休戦という冷戦の緩和期に日本の国際社会への復帰を実現し、55年体制の発足とともにその役割を終えたといえます。
 東京の護国寺に「友愛」という文字が台座に刻まれた鳩山夫妻の銅像がありましたが今は軽井沢に移されたそうです。http://www.yuaiyouth.or.jp/katudo2006_douzou1.html
 

 自民党の長期政権に末期症状が顕著となり、55年体制も完全に崩壊しました。
あたらしい鳩山民主党は政権交代を実現させ、日本を大掃除するといっています。
 明治以来の官僚支配の中央集権政治を終わらせるというのです。リーダーに選ばれた人は政治家4世でいかにも日本の閉塞状況を反映しています。失礼ながらその任に堪えられるでしょうか。しかし、これが現実です。
 鳩山由紀夫さん、その言やよし。
 協力体制を整えてこの国に民主主義を根付かせるためにリーダーシップを発揮してほしいと思います。希望を持ち始めた人々を落胆させることがあってはなりません。

沖縄「返還」から37年

2009-05-16 07:22:59 | 友人たち
 5月15日といえば沖縄の施政権が日本に返還された日です。72年のこと。学校(都立池袋商業高校)に新里金福という方を招いて全校講演会をやったことを思い出します。
 どういうお話だったか思い出せませんが、生徒が次第にうるさくなり新里さんが遂に「怒鳴った」(?)のではなかったか。よほどの体験だったのか、この日のことを自著に書かれているのを読んだことがあります。
 興味と関心を持って聞いてくれる人の前でしか講演したことがなかった方がごく普通の高校生の反応に当惑しながらそのことの持つ意味を考察されていたのではないかと思います。

 生徒部講演会係のぼくがお願いして講師を引きうけて貰いました。新里さんには申し訳ないことですが、恥ずかしいというより、これもまた偽らざる現実であり、ここから出発する他はないと開き直っていたのではないかと思います。

 感想文集を作り、授業で読みあったりしました。
あれから37年が経ちました。当時の生徒達にはどういう印象がのこっているのでしょう?聞いてみたいものです。

 後に出会った金城実さんたちが今年が「薩摩侵略400年、琉球処分130年」ということで新たな取り組みを始めました。今年は「琉球決起元年」という心意気です。

 「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」http://www.ntt-i.net/ryukyu/

 ぼくは2002年10月に初めて沖縄本島を訪ねました。そのとき「戦争と人間」という途方もなく巨大なレリーフの制作を続けていた金城さんのアトリエを訪ねました。思い出してくれて歓待を受けました。台風のため折角の作品が一部破損したばかりでしたが気落ちした様子はありません。雨の残波(ざんぱ)岬に行って残波大獅子をみせてもらいました。

 戦争と人間http://www.youtube.com/watch?v=9QAddONOh3w

 残波大獅子http://www.geocities.jp/mafekaji00xyz/haru5wa.html
 
 エネルギーの塊のような方です。「泊まっていけ」「またこい」といってくれましたがぼくにはとても付き合い切れません。泡盛を飲む力も熱い議論についていく気力も及びもつかないのです。

 金城さんからこんな本を出したというニュースレターが届いたばかりです。宜しかったら皆さん、読んでみてください。金城さんたちの問題意識が今どこにあるのか、ぼくも取り寄せて読んでみようかと思っています。読み切る力があるかどうか、かなり不安なのが現実です。 

ブックレット『薩摩支配400年 琉球処分130年を問う』
http://hayao.at.webry.info/200904/article_12.html