久しぶりのご報告(倫子 記)
三回目のお盆帰省の後10月5日から、また墓参帰省してきました。今のお墓の様子をここで入れられるといいのですが、ごめんなさい。あたしはまだそこまで進化していません。メールでなら送れるんですが。もし知りたいと思って下さる方、K介のEメールアドレスと携帯の番号はまだ生きておりますからご連絡ください。
池商の卒業生が数人お墓参りに行って下さるので10月末にまた室戸に行ってきます。
こうして今なお心を寄せていて下さる方々がおいでるのは、ほんとうにありがたいことです。
久しぶりのご報告(倫子 記)
三回目のお盆帰省の後10月5日から、また墓参帰省してきました。今のお墓の様子をここで入れられるといいのですが、ごめんなさい。あたしはまだそこまで進化していません。メールでなら送れるんですが。もし知りたいと思って下さる方、K介のEメールアドレスと携帯の番号はまだ生きておりますからご連絡ください。
池商の卒業生が数人お墓参りに行って下さるので10月末にまた室戸に行ってきます。
こうして今なお心を寄せていて下さる方々がおいでるのは、ほんとうにありがたいことです。
2013年9月6日午後11時14分、鈴木啓介は肺癌のため永眠いたしました。72歳でした。
このブログの記事にもございますとおり、癌による呼吸困難のために8月31日に川越・赤心堂病院に入院し、呼吸改善のための処置を受けておりました。しかしながら日を追うごとに状況は悪化し、9月4日には苦痛軽減のためのモルヒネ投与が始まりました。
いったんは9月5日に癌研有明病院への転院が予定されたのですが、移送中の危険が大きすぎるとの判断で、断念せざるを得ませんでした。
9月5日午後には妻倫子、娘陽子、息子紹平を前に2時間ほどの「最後の授業」を行いましたが、夜には呼吸困難に睡眠時無呼吸が加わり、いっそう苦しい時間をすごしました。
6日未明から何度か「おしまい」という一言を笑顔で繰り返しておりましたが、朝には意識がはっきりとして、午前8時半ごろ「今日が僕の最期の日かもしれない。もしそうなら教えてね」と言っておりました。
午前10時半ごろから眠りにつき、その後は無呼吸状態も無く、連続した睡眠をとることができていたと思います。時折目を覚まして笑みを浮かべたり、主治医の山内先生に御礼を言いたげな様子も見せてはいましたが、結局その後は会話を交わすことが無いまま、最後は静かに息を引き取りました。
本人の強い希望により、通夜・告別式等葬儀は一切執り行わず、近親者のみで9月9日に荼毘に付しました。斎場の係員の方に「めったに出会わないほど立派なお骨です」と褒めていただくほど、骨量が多く喉仏や頭蓋骨もしっかりと形をとどめた遺骨でした。
現在は自宅にて安置しておりますが、後日これも本人の希望通り、故郷の室戸岬にございます墓所に埋葬する予定でおります。
遺言により、香典・供物・供花等につきましてはご辞退申し上げます。大変失礼なことではございますが、生前の啓介をご存知の皆様には、ご理解いただけるものと思います。どうかご容赦ください。
なおブログ「川越だより」はこのまま皆様に閲覧していただける状態を保つ予定でおります。たまにアクセスしていただき、啓介の面影を偲んでいただければ幸いです。
最後になりますが、啓介が生前にいただきましたご厚情に深く感謝申し上げます。
2013年9月10日 遺族一同
8月29日(木)
体調に好転が見られないので医師と相談して抗がん剤イレッサの服用を止めることにした。化学療法はこれで終った。
土佐の山里でこんな展覧会が行われているのを知ると何とはなしにうれしくなる。
僕らがこの地を訪ねたときには吉井勇記念館はなかったように思う。まして木村久夫という人について何も知らなかった。企画してくれたかたがたに「ありがとう」といいたい。
高校生だった木村さんは吉井勇を慕って彼が隠棲したことがあるこの地に一ヶ月も滞在したという。吉井勇の歌にあこがれたことのない僕には想像がつかない。2人を結びつけた歌風とはどんなものなのか、知りたいとも思う。勇の歌のいくつかは記憶にもあるが、何とはなしに「あそび人」という印象が残っているだけである。
空海をたのみまゐらす心もて
はるばる土佐の國へ来にけり
空海が大きみ足のあとも見る
室戸岬のたちばなの道
友人たちが猪野のを訪ねてくれるといいなあ。
「明日」が見えなくなっている今、木村久夫という人との出会いは新鮮な力を与えてくれるかもしれない。
『きけわだつみのこえ』で知られる木村久夫。勇を敬慕し、文学に注いだ情熱やその生涯を紹介します。山田高校書道部による木村久夫の短歌を書いた書道作品も展示。
共催:高知大学。
関連イベント:8月3日(土)有田芳生氏による講演会。
会期中イベント:8月11日(日)~8月17日(土)星祭~旧・七夕まつり~
8月28日(水)晴れ
朝の室温は25度。快適なはずだが体調の回復は思うようには進まない。栄養をしっかり摂るように妻が心を砕いてくれる。
ネットで『きけわだつみのこえ』におさめられているという木村久夫さんの遺書を読んだ。不完全な引用もあると思われるが概要はつかめる。いい加減で申し訳ないが一部を紹介します。
「カーニコバル島事件」
島民がイギリス軍機に信号を送っていたというスパイ容疑で
島民を虐殺したとされる事件。
尋問中の死者3名、自殺者1名を出し
81名の島民が銃殺された。
シンガポール英国軍事裁判により
虐殺に関与したとして、C級戦犯として処刑された、
木村久夫上等兵の遺書(享年28歳、京都帝国大学経済学部在学中召集)
「私は死刑を宣告せられた。誰がこれを予測したであろう。年齢30に至らず、かつ、学業半ばにしてこの世を去る運命を誰が予知し得たであろう。波瀾の極めて多かった私の一生はまたもや類まれな一波瀾の中に沈み消えて行く。我ながら一篇の小説を見るような感がする。しかしこれも運命の命ずるところと知った時、最後の諦観が湧いて来た。大きな歴史の転換の下には、私のような陰の犠牲がいかに多くあったかを過去の歴史に照して知る時、全く無意味のように見える私の死も、大きな世界歴史の命ずるところと感知するのである。
日本は負けたのである。全世界の憤激と非難との真只中に負けたのである。日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道を考える時、彼らの怒るのは全く当然なのである。今私は世界全人頭の気晴らしの一つとして死んで行<のである。これで世界人類の気持ちが少しでも静まればよい。それは将来の日本に幸福の種を遺すことなのである。
私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である。しかし今の場合弁解は成立しない。江戸の敵を長崎で討たれたのであるが、全世界から見れば彼らも私も同じく、日本人である。彼らの責任を私がとって死ぬことは、一見大きな不合理のように見えるが、かかる不合理は過去において日本人がいやと言うほど他国人に強いて来た事であるから、あえて不服はいい得ないのである。彼らの眼に留まった私が不運とするより他、苦情の持って行きどころはないのである。日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。笑って死んでいける。
(中略)
しかしこの日本降伏が全日本国民のために必須なる以上、私一個の犠牲のごときは忍ばねばならない。苦情を言うなら、敗戦と判っていながらこの戦いを起した軍部に持って行<より仕方がない。しかしまた、更に考えを致せば、満州事変以来の軍部の行動を許して来た全日本国民にその遠い責任があることを知らねばならない。
我が国民は今や大きな反省をなしつつあるだろうと思う。その反省が、今の逆境が、将来の明るい日本のために大きな役割を果たすであろう。それを見得ずして死ぬのは残念であるが致しかたがない。日本はあらゆる面において、社会的、歴史的、政治的、思想的、人道的の試煉と発達とが足らなかった。万事に我が他より優れたと考えさせた我々の指導者、ただそれらの指導者の存在を許して来た日本国民の頭脳に責任があった。
かつてのごとき、我に都合の悪しきもの、意に添わぬものは凡て悪なりとして、ただ武力をもつて排斥せんとした態度の行き着くべき結果は明白になった。今こそ凡ての武力腕力を捨てて、あらゆるものを正しく認識し、吟味し、価値判断する事が必要なのである。これが真の発展を我が国に来す所以の道である。
(中略)
あらゆるものをその根底より再吟味する所に、日本国の最発展の余地がある。日本は凡ての面において混乱に陥るであろう。しかしそれでよいのだ。ドグマ的な凡ての思想が地に落ちた今後の日本は幸福である。マルキシズムもよし、自由主義もよし、凡てがその根本理論において究明せられ解決せられる日が来るであろう。日本の真の発展はそこから始まるであろう。凡ての物語が私の死後より始まるのは悲しいが、私にかわるもっともっと立派な頭の聡明な人が、これを見、かつ指導して行ってくれるであろう。何といっても日本は根底から改革し、構成し直さなければならない。若き学徒の活躍を折る。
(略)
出典●http://toyosisou.fc2web.com/wadatuminokoe.html
●http://homepage3.nifty.com/senriyama-kai/kaishi/02k/w16.htm
木村さんがこの遺書を書き残したのは1946年5月のことだった。67年がたった。
僕は遅れてきた「若き学徒」で「幸福」を享受した世代だが「日本の真の発展」にいささかでも貢献できただろうか?
ドグマ的な思想に反発しつつもマルキシズムのドグマにいかれてしまったのではなかったか。
高校時代までに学んだ「自由主義」の哲学?ともう少しきちんと向き合うことがどうしてできなかったのか。結局は世の大勢に付き従うだけの学徒だったのか。
日本は大事な人を殺してしまった。あらためて思うことである。
参考●有田芳生「木村久夫 没後65年に寄せて」
8月27日(火)
有田芳生さんのfacebookで戦犯として処刑された木村久夫という人のことを知らされました。
大阪の人ですが旧制高知高校に学び、物部川の奥地に隠棲していた吉井勇の歌風の影響も受けたようです。『聞け わだつみの声』に遺書が掲載されているそうです。読んだことがあるかも知れませんが記憶にはありません。
故郷にゆかりがあると聞くと急に身近な人に思えてくるのだから不思議です。有田さんがゆかりの土地で講演されたのが機縁です。有田さんもぐっと身近な人になってきた感じです。感謝の気持ちをこめて今日のfacebookの記事を紹介させてもらいます。
木村さんの歌碑が立つという香美市猪野々の吉井勇記念館を訪ねてみたいなあ。
有田芳生
8月26日(月)晴
昨日は急に涼しくなったので往生しました。肺に疾患を持つものの宿命なのか、気温の変化に体がついていかないのです。困ったものです。
こんな記事があるのに気づきました。小泉元首相の言葉です。小沢一郎さんもドイツの旅で脱原発に確信を持ったようでした。
安倍さんは小泉さんに首相にしてもらった人です。小泉さんの声も耳に入らないのかなあ。
東電福島第一原発の事故は国家の非常事態です。自民党内からも声を挙げる議員が続出してほしいものです。
毎日新聞 2013年08月26日 東京朝刊
脱原発、行って納得、見て確信−−。今月中旬、脱原発のドイツと原発推進のフィンランドを視察した小泉純一郎元首相(71)の感想はそれに尽きる。
三菱重工業、東芝、日立製作所の原発担当幹部とゼネコン幹部、計5人が同行した。道中、ある社の幹部が小泉にささやいた。「あなたは影響力がある。考えを変えて我々の味方になってくれませんか」
小泉が答えた。
「オレの今までの人生経験から言うとね、重要な問題ってのは、10人いて3人が賛成すれば、2人は反対で、後の5人は『どっちでもいい』というようなケースが多いんだよ」
「いま、オレが現役に戻って、態度未定の国会議員を説得するとしてね、『原発は必要』という線でまとめる自信はない。今回いろいろ見て、『原発ゼロ』という方向なら説得できると思ったな。ますますその自信が深まったよ」
3・11以来、折に触れて脱原発を発信してきた自民党の元首相と、原発護持を求める産業界主流の、さりげなく見えて真剣な探り合いの一幕だった。
呉越同舟の旅の伏線は4月、経団連企業トップと小泉が参加したシンポジウムにあった。経営者が口々に原発維持を求めた後、小泉が「ダメだ」と一喝、一座がシュンとなった。
その直後、小泉はフィンランドの核廃棄物最終処分場「オンカロ」見学を思い立つ。自然エネルギーの地産地消が進むドイツも見る旅程。原発関連企業に声をかけると反応がよく、原発に対する賛否を超えた視察団が編成された。
原発は「トイレなきマンション」である。どの国も核廃棄物最終処分場(=トイレ)を造りたいが、危険施設だから引き受け手がない。「オンカロ」は世界で唯一、着工された最終処分場だ。2020年から一部で利用が始まる。
原発の使用済み核燃料を10万年、「オンカロ」の地中深く保管して毒性を抜くという。人類史上、それほどの歳月に耐えた構造物は存在しない。10万年どころか、100年後の地球と人類のありようさえ想像を超えるのに、現在の知識と技術で超危険物を埋めることが許されるのか。
帰国した小泉に感想を聞く機会があった。
−−どう見ました?
「10万年だよ。300年後に考える(見直す)っていうんだけど、みんな死んでるよ。日本の場合、そもそも捨て場所がない。原発ゼロしかないよ」
−−今すぐゼロは暴論という声が優勢ですが。
「逆だよ、逆。今ゼロという方針を打ち出さないと将来ゼロにするのは難しいんだよ。野党はみんな原発ゼロに賛成だ。総理が決断すりゃできる。あとは知恵者が知恵を出す」
「戦はシンガリ(退却軍の最後尾で敵の追撃を防ぐ部隊)がいちばん難しいんだよ。撤退が」
8月24日(土)曇
この夏は体調不良で意見を書くのが億劫になっています。この国と地球はとんでもない方向に動いているというのに…。
気になっていることを挙げてみます。若い友人たちはどう考えているだろうか。奮起を願います。
A 東電福島第一原発事故の災厄は人類の手で「終息」させられるか?
(日刊ゲンダイの見出し)
近頃は汚染水問題が浮上しているが半ば永遠に続く問題に果たして打つ手はあるのか?東電に解決能力がないことは誰にでもわかる。少なくともこの原発を国有化して国家を挙げて取り組まなければならない。全世界に助けを求めて人類の叡智を結集する以外にない。それでも打開の道を切り拓けるのか?
知識に乏しい僕でさえ憂えているのに、この国の中枢部はノーテンキである。犯罪企業・東電の始末をしないどころか、柏崎・刈羽原発の再稼動さえたくらんでいる。原発輸出の行脚やオリンピック招致に浮かれている。
海洋汚染の実態が露呈するようになれば周辺諸国のみならず、世界中の恨みを買うことになろう。
途方もないカネもかかる。もはや手遅れかもしれない。それでもこの国が取り組まなくてはならない第一課題である。
B 「アメリカとともに戦うぞ!」
周辺に中国・北朝鮮という独裁国家が存在し、脅威となっていることは事実だ。
安倍政権は「集団的自衛権」の政府解釈を変更し、アメリカ軍とともに戦争ができる体制を作ってこれに対抗するという。憲法改正には時間がかかるから、内閣法制局長官を更迭して国民が気づかないうちに静かにやるつもりらしい。
石原慎太郎前都知事は「憲法破棄」を公言していたが、こちらは静かに憲法を抹殺する作戦だ。国会を制し、マスコミの大半も味方につけたから大丈夫と踏んでいるのだろう。
「戦争だけは絶対にしない」という久しく持ち続けてきた国民的合意を一内閣の「解釈」で破棄するのだから今正にクーデターが行われつつあるということになる。
国民にアメリカとともに戦う決意があるのだろうか。ない!と知っているから上からおっかぶせて無理やりに国民精神の革命をやるつもりだ。
更迭された前長官がいくらなんでもそれは無理と発言したが、さてどういうことになるか。
「戦争だけは絶対にやらない」という思いを持ち続けている国民にとって運命の秋(とき)が訪れようとしている。
東アジアに平和の秩序を回復するために何をしたら良いのか、自分なりの考えを整え、安倍政権に立ち向かっていかなければならない。
8月23日(金)曇
21日にガン研有明病院の西尾医師の診察がありました。
「血液検査に顕著な変化はないので、抗がん剤イレッサの服用を今しばらく続けよう」。
次回検査は9月9日。
長時間の通院に疲れ果てたのか 家に着くのがやっとでした。病院を出るとき雨が降り出したので駅まで急ごうとしたのが体調不良の直接的な原因ではないか、妻はそういって足裏に膏薬を張るなどの手当てをしてくれました。
昨日今日と療養中です。少しずつ恢復しているのか、パソコンに向かうことができました。
「北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会」の機関誌『かるめぎ』が送られてきました。
郷土の先輩でもある萩原遼さんが個人雑誌を新たに発刊し、北朝鮮の独裁=朝鮮総連と闘う決意を表明されています。
日ごろから精力的な活動に敬服するばかりですが、新たな挑戦の言葉に元気を奮い起こされるような感じです。