川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

戦争を記憶する(続)

2009-08-15 06:11:04 | 中国残留日本人孤児

昨夜NHKの番組が陸軍の末端幹部であった人が部下のほとんどを犬死させた事実に恐れおののき、戦後60余年社会に顔を出さなかったと伝え、その方の言葉を紹介していました。人のあり方として深く考えさせられます。
 僕は昭和天皇のことを思いました。退位することもせず、恥知らずにも人前に立ち続け、日本人の道義を荒廃させた張本人です。この人の影に隠れて岸信介・中曽根康弘などの歴代宰相は戦争を美化することが愛国であるかのごとき風潮を振りまきました。その弟子である石原慎太郎都知事とその郎党は今日なお恥ずかしげもなく愛国を気取って、侵略を美化する教科書を教育現場に押し付け、「君が代」は歌えないという少数の教員を処分し続けています。
 左派にイデオロギー的な偏向があり、戦後一貫して国政を任せなかった国民の判断は尊重しなければなりませんが、今日なお石原慎太郎とその郎党に一票を投ずる人々の判断は本当に正しいのでしょうか。折からの選挙に当たり、大いに議論してほしいことです。

 さて僕の心に残った戦争にまつわる話の二つ目です。

 高山すみ子さんのお話です。「きいちご移動教室」の下見に行って初めてお会いしたときと5月9日に皆さんと一緒に聞きました。

 佐渡開拓団跡の集団自決の証言です。高山さんは21歳で二児の母親です。
 『ノノさんになるんだよ 満蒙開拓奈落の底から』(日本図書センター刊)から書き写します。


 8月25日

 (略)この佐渡開拓団跡で何千人の人が死んだのかわからない。そのほとんどが銃殺だった。高社郷だけでも570余人が死んだといわれている。
 井戸の中へこどもを投げ込んだ人もいる。井戸はたちまちいっぱいになって、死に切れない人もいた。そういう人は上から銃で撃って殺してやった。
 どの家もどの家も、自決した人たちの死体でいっぱいになった。日本人同士、敵味方の殺し合いを見ているうちに、私も覚悟を決めるよりほかなくなった。

 私が、旭を背負い、怜子を抱いて馬小屋へ入ったときには、仲間のほとんどは自決していた。
 ふたりのこどもを胸に抱き、最後のキャラメルを食べさせた。そして、
「ノノさん(仏さん)のところへ連れて行ってあげるから、母ちゃんの言うとおりにするんだよ」
と言い聞かせた。
 四歳になる旭は、
「ノノさんのところに行けば誰がいるの」
と聞いた。
「ノノさんのところには内地のおじいちゃんもいて、白いご飯がたくさん食べられるんだよ」
と答えた。
こどもたちはにっこり笑った。
「じゃあ、早くノノさんのところへ連れてって」
と旭がいうと、怜子もうなずいていた。
「おじいちゃんのところへ行くにはどうすればいいの」
と聞くので、
「こうやって手を合わせていればいいんだよ」
と、東の方を向いて手を合わせてみせると、こどもたちは私のまねをして手を合わせた。

 私を中にして、右に怜子、左に旭を座らせると、間髪を入れず先生の撃った銃声が聞こえた。怜子は瞬間、兎のようにピョンと2メートルも飛び上がり、旭も血しぶきを上げて絶命した。私は今でも私をじっと見つめていた二人の子供の顔と姿が脳裏に焼きついている。

 二人の死体を片付けて、私の死ぬ番が来た。

 以下(略)

 この本はお近くの図書館にあるはずです。読んでみてください。

 よっぽど覚悟を決めた人でなければ人前で話すことはできません。でもそういう体験を持った方々が私たちの近くにおられるのです。問題は私たちの側にあります。問題意識を持って学ぶ姿勢があるかどうかです。人生の最後に本当は伝えたかった思いを誰もが聞いてくれないとしたらどんなにかさびしくむなしいことでしょう。
 戦争を知らない世代が大半です。僕もその一人です。高山さんの旭さんと同じ年です。知らないと開き直っている人を僕は尊敬しません。若い人でも同じです。わかることは難しくても知る努力をしなければ軽薄な人間になるだけです。身近な人に直接聞いた話は僕のような苦労知らずでもすこしは身について行くような気がします。
 どうしてこのようなことになってしまったのか、どうしたら戦争をせずに国際紛争を解決できるのか、今を生きる市民の一人として精一杯学び、議論する一日でありたいものです。