川越だより

妻と二人あちこちに出かけであった自然や人々のこと。日々の生活の中で嬉しかったこと・感じたこと。

8月6日は原爆の図・丸木美術館へどうぞ

2008-07-31 04:05:51 | 友人たち
 今日は午後、癌研有明病院にいって胸部などのCT撮影の予定です。4月からの抗ガン剤治療が効果があったかどうかがわかる検査です。判定は一週間後です。6月の検査で効果の程は確かめられていますので希望を持っています。

 さて明日からは8月です。暑い日々がやってくるかと思いますが、戦争に駆り立てられ、戦火の中を生きなければならなかった人々を思えば何でもないですよね。ぼくも体調は日に日に良くなってくるはずですから、少しでも楽しい日々にしたいと思います。月の後半はKくん夫妻の好意に甘えて伊豆大島で過ごそうかと考えています。
 
 6日は原爆が広島に投下された日です。原爆の図・丸木美術館で一日を過ごすのが私たちの習わしです。
 
 
2008年8月6日[水]
       被爆63年 丸木美術館 ひろしま忌

入館無料//ボランティア募集中//模擬店・ フリーマーケット もあります


     当日スケジュール
午前中~ とうろう作り  

 12:00~14:00  丸木美術館クラブ・工作教室
海からの贈り物で驚くような工作をします。
案内人:鈴木好子さん(アーティスト)
材料費500円

 14:00~14:30 城西川越中学・高校 和太鼓「欅」

  ひろしま忌の演奏は3回目となる城西川越和太鼓「欅」。
今年は中学生が若々しく力強い演奏を披露します。


 14:40~15:10 木村はるみさん
「わらべうた ワークショップ」
大人も子どももいっしょになって楽しく遊べる、わらべうたのワークショップです。


  15:10~16:10 若麻績敬史さん講演
「祈りの力」
私たちは人生を真剣に生きる上で、さまざまな願いや苦しみを持ちます。
それらをあきらめずに行動して乗り越えていくための「祈りの力」についてお話し下さいます。


  16:30~17:20 館野公一さん「語り歌コンサート」
劣化ウラン弾や原発事故などを、市井に生きる人々の物語りにして、ギターやマンドリンの調べにのせる館野さんの「語り歌」コンサートです。


  18:00~18:30 ひろしま忌の集い 灯籠流し


 ぼくにとって今年の楽しみは若麻績(わかおみ)さんのお話を聞くことです。若麻績さんは善光寺のお坊さんです。北京オリンピックの聖火リレーの朝、チベットで犠牲になった人々の追悼法要を善光寺で行った際、その中心になった方です。お話は「祈りの力」と題されています。数年前からのおつきあいですが、この種のお話を聞くのは初めてです。よろしかったら皆さんも是非お出かけください。きっと何か生きる力の源に気づかせてくれるのではないでしょうか。

 善光寺を訪ねたときの記事です。http://blog.goo.ne.jp/keisukelap/d/20080510


 丸木美術館はぼくの自慢の場所です。美しい風光に恵まれ、時がゆっくり流れていきます。私たちのひとりひとりの命がかけがえのないものだと気づかせてくれます。8月6日は人が多いかも知れませんが、この日原爆の図の前に立つと普段とは違った出会いがあるような気がします。

 丸木美術館のHPです。交通などはこちらで。連絡いただければぼくが案内します。http://www.aya.or.jp/%7Emarukimsn/event/080806/080806.htm

あいさつ

2008-07-30 16:55:35 | 友人たち
  このところ夕方雷雨などがあり、過ごしやすい日が続いています。副作用のため一日中ごろごろしているしかない身にはありがたいことです。退院した後、むんむんする熱気の中でどうやって過ごそうかと心配していたのです。
 忠幸さんとカツヨシさんが心を込めて編集した「きいちご」2号が届きました。「きいちご多文化共生基金」のニュースです。中国語の原文とそれの日本語訳が並んでいる6人の文章が掲載されているのが特徴です。
 
 残留孤児のお嫁さんとして昨年末来日した張麗梅さんの『私の日本での生活は半年たってだんだん楽しくなった』という中文の文章の中に「あいさつ」というひらがなの単語が2カ所出てきます。

 …成田空港に到着して直ぐに出会った職員の穏やかで親しみのある態度と上品でていねいな礼儀は日本人が誇るべきもので、私はとても啓発されました。あちこちで人々が交わしている<あいさつ>にも同様の良い印象をうけました。

 これは忠幸さんの日本語訳です。原文を書いた人が日本語を勉強しようというとき役に立つようにと行き届いた配慮がされています。張さんはなぜ「あいさつ」だけ、ひらがなで書いたのでしょう。
 「こんにちは」「いらっしゃい」「おはようございます」。日本の人々が出会うたびに交わす挨拶がよほど印象に残ったのでしょうか。
 子供の頃、珍しく父と外出したことがあります。近所のおじさんやおばさんと会うと父は「おはようございます」などと挨拶を交わします。僕はこの光景を見て不思議に思ったことを記憶しています。僕の世界では親しい人々との間に改まって挨拶する習慣がなかったのです。大人の世界とはこういうものかと思ったのに違いありません。
 挨拶を交わす関係はすがすがしくていいものです。私たちの祖先がたくさんの挨拶言葉を残してくれたのは助け合い、いたわりあって生きていくことの大切さを身につけていたせいかもしれません。そういえば「親しき仲にも礼儀あり」という言葉もあります。
 中国黒龍江省の張さんが50年を過ごした世界では人と人の関係はどんな風になっているのでしょう。挨拶ということはしないのでしょうか。
 
 人にほめられるとうれしくなります。桜の季節のすばらしさなど自然の恵みについては僕も自慢したくなるほどですが礼儀や挨拶となると普段は気づかないことです。心のこもった挨拶が自然にできるような生き方、社会のあり方をこれからもいっそう大事にしていきたいと思った次第です。

 5月のきいちご移動教室に参加できなかった僕を励ましてくれる言葉を記してくださった方々がいます。山崎忠明さん「大自然的風光之美祝福鈴木先生早日恢復健康」、泉田旭太くん「鈴木先生のクイズを聞きたいです。僕もみんなも鈴木先生にたくさんのパワーをあげます。病気とたたかって、早く元気になってください。」
 本当にパワーがあふれてくるような気がします。皆さん、ありがとう。10月の足尾の旅を楽しみにしています。今度は大丈夫です。

『きいちご』を読んでくれる方がおられたら遠慮なく連絡してください。無料で結構です。

 今朝、娘が電気屋さんに連れて行ってくれ新しいノートパソコンを買ってきました。これで旅先からも「川越だより」を出すことができます。これが新しいパソコンから発信される第一号です。

独り歌ー江口きち抄(上) カツヨシ(寄稿)

2008-07-29 10:14:31 | 出会いの旅
 カツヨシさんからコメント欄に寄稿がありました。読みやすいようにこちらに登載します。川場村は群馬県の沼田ICから近く、上州武尊山(じょうしゅうほたか)の麓です。武尊のブナ林を歩いた後、旅の第一夜はここのSLホテルで泊まりました。短い距離ですが実際に動く蒸気機関車D51が常時停車しています。ホテルに隣接して歴史民俗資料館があります。




独り歌―江口きち抄(一)その死


●けいすけさんから「上州武尊の麓のブナ林を歩きませんか」と誘われたとき、「ああ、またあの人に会える!」と心が躍りました。旅の2日目、「あの人」に会いました。旧・川場尋常高等小学校の昔懐かしい木造校舎を移築した川場村歴史民俗資料館の、歩くとギシギシと音がする廊下の奥で、「その人」は待っていてくれました。江口きち、享年25歳。「ふるさとを詠う薄倖の歌人」と呼ばれ、「女啄木」と謳われる「その人」は、着物姿で、丸縁眼鏡の奥の瞳を聡く輝かせて立っていました。(「女啄木」へのぼくの異議は別項で触れます)
●「人」を語るとき、まずその死について語らねばならないことは、悲しく残念なことです。しかしその人の死が多くの問いを投げかけている以上、避けて通れない主題です。
 1938(昭和13)年12月2日午前4時、知的障害者の兄・広寿(29歳)を道連れに服毒自殺。辞世の歌2首が便箋に書き残されていました。
○睡(ね)たらひて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初(そ)む
○大いなるこの寂(しづ)けさや天地(あめつち)の時刻(とき)あやまたず夜は明けにけり
 何という静かで澄み切った心のたたずまいでしょう。死の前夜、十分に眠り、自裁の朝は明ける。この世の聴き納めの雀が鳴き始める。愛してやまなかった武尊の大自然に今日も過たず夜明けが訪れる。今、荘厳な静謐と寂寥に包まれている。自らの死を決行しようとする者の生へのいとおしみと凛とした訣別の思いが響いてきて、読む者を粛然とした感情へと誘います。薄倖の歌人は、この2首だけでも世に記憶されるに値するとぼくは思います。
 なぜ死を選んだのか。所詮かなわぬ問いではありますが、その「人」に近づき、想像力で寄り添うことはできます。決して数多いとは言えないけれど、先達の研究者の優れた論考もあります。ここでは江口きちの言葉(短歌・日記・手記など)を手がかりに、一人の女性の生と死の軌跡を辿ります。


(二)その生活


●江口きちの自死は冷静沈着に、周到な準備のもとに実行されました。友人に出した手紙を回収し日記と一緒に焼き捨て、新たに日記をつけ始めます。(死の半年前)母の墓碑を建て開眼供養を行います。(8ヶ月前)○かかづらふこの生きの身に思ひゐしことは果たしぬいまこそ果たしぬ
 それまで作った歌を「歌稿ノート」にまとめ(9ヶ月前)、青酸カリを用意してその効き目を実験し、また自分が死んだときの友人たちの反応を確かめたふしもあります。(8ヶ月前)年季奉公に出ていた妹・たき(22歳)の年季も明けます。死に装束には自分で仕立てた純白のドレスをまとい、胸には真っ赤なバラの花をつけ、服毒後嘔吐したときのために洗面器まで用意して……なんという悲しい周到さでしょうか。資料館に残されているそのドレスは、布地の清楚な白とバラの花の鮮烈な赤が悲しく胸に迫ります。
●なぜ死を選んだのか、に戻ります。江口きちの生い立ちや生活環境を見てみましょう。
○火の如くわが瞳(め)に燃ゆる憎しびはけはしかるらし父を刺しつつ……きちが生まれた年に博打打の父・熊吉は傷害事件に関与して出奔、9年間村に戻らなかった。きちはそんな父を許さず、疎んじてさえいた。自決の4日前、父を湯治に送り出し、道連れにしなかったのは「父への愛」のためであったとは思われない。
○この世にて生きがたかりし人は今日星夜をえらびて
去り逝きにけり○亡き母が借りてありとふ金のこと霹靂(へきれき)の如く聞けど術なき……女手ひとつで3人の子を育てるべく働きづめだった母が急逝したのは、きち16歳の折。以後、一家の命運は若き双肩にかかった。
○きき分けぬ兄を叱りてはかなしもその憤りのすべなかりけり○こまごまと心つかひて出しやりし妹の行きて気弱くなれる……加えて、知的障害を持つ兄の介護、東京へ奉公に出した幼い妹への気遣い。
 こう見てくると江口きちを取り巻いていた不幸や苦難が理解できます。その憂さ・辛さを吐き出すようにきちは作歌をはじめ、河合酔茗・島本久恵夫妻主宰の「女性時代」に投稿を始めます。
 しかし、小さな雑貨店兼簡易食堂「栃木屋」の経営だけでは、この「生活苦」はいかんともしがたいのです。では、その「生活苦」が自死の理由だったのでしょうか。問題はそれほど単純ではないようです。
 実は、きちには「忍ぶ恋」がありました。18歳年上の、今で言う「不倫の恋」、けれど「相思相愛の恋」でした。


(三)その愛



●江口きちが愛した人は18歳年上の、妻子ある、村の長者で、教養も人望もあるMという人物でした。詞書を付した次の短歌がきちの恋情を余すところなく伝えてきます。
○あけくれ平常のもの云ひをかつて越えたりしこともなくて、この夜、忠義めく使ひに立ちけるを呼びかヘされつ。その手肩にかかりて無言のうちにちからこもりぬ。ただそれだけのことながら、霊を衝きて受けしものありき。  
さりげなくいだきしものをちからこもるかひなの中に死なばやと思ふ
……さりげなく手が肩にかかる、だがその手にひそかにこもる力、「ただそれだけ」で「霊を衝きて受けしもの」を感じ、「この腕の中で死にたいと思う」のです。その激しくも切ない思い。
 だが、小さな村での、道ならぬ恋、忍ぶ恋でありました。
○ただにただに君が苛らちの悲しきを小さき身もて護らんと思ふ
○からうじて掟の下にわが保つちからし尽きば君も悔ゆべし
……恋の炎を燃やしていらだち求める男、「掟の下に」「からうじて」せつなく拒む女。終幕は突然訪れます。
●きちから妹・たき宛てに密封して送られ、自分の死後、Mに手渡してほしいとの依頼が添えられていた手帳が、多くを語ってくれます。
その一節に「あなたのためにこれまでも生きたいのちでこそあれ、あなたのために死ぬのではないことは、幾度もくりかへした通りです」「最後の最後まであなたの息吹きの中に生きてゐました。瞳に映るすべての象の中にあなたがありました」そうして次のように歌っています。
○わが投ぐる波紋の揺れの揺れ及びいたみあらすなその君の上に……自分の自死の波紋がどうかあなたに及びませんようにときちは祈っているのです。
●きちの恋はプラトニックでストイックなものでした。
○ただ直く笑(え)まひかへせば言の無きさきはひふかし白日(まひる)のひかり
○とりし指まさぐりにつつ言ひしこと聞きしことはや昼の静寂(しじま)に

 では、このような「さきはひ」(幸福感)の中で、結ばれぬ恋をはかなんで江口きちは死を選んだのでしょうか。問いはまだまだ続きます。


(四)呼ぶ勿れ「女啄木」と

●江口きちは「女啄木」と呼ばれることがあります。「夭折の歌人」(啄木1886明治19―1912明治45/きち
1913大正2―1938昭和13)「薄倖の歌人」「生活苦の中で優れた歌を詠んだ歌人」「故郷・友人・恋愛を歌った青春性豊かな歌人」……共通点はいくつも見出せます。でも、ぼくはこの呼び方に反対です。理由はひとつ。「同じところを強調するあまり、何事かを理解した気になり、違いを注意深く見ることがおろそかになる」からです。俵万智が登場したときに「与謝野晶子の再来!」という惹句を見て思わず笑ってしまったのを思い出します。与謝野晶子は与謝野晶子であり、俵万智は俵万智です。
 こんな当たり前のことを言うのは、石川啄木と江口きちの違いに着目したいからです。病死と自死、平明・率直に嘱目の事柄を歌う啄木と、同じ生活詠でも端正で大ぶりな万葉調の歌を作ったきち、甘い叙情性や虚無的な心情をストレートに歌い、人々に愛唱されている歌と、生活苦の中で孤高に生きる青春を丹念に描きながらもいまだ世に知られていない数々の歌……何よりもそこには「生き方・死に方」の違いが横たわっているように思います。



























ただいま、帰りました。

2008-07-28 16:40:38 | 父・家族・自分
 本日、午後2時半頃、退院して帰ってきました。抗ガン剤治療の第4クールということで5泊6日の入院でした。点滴後、3日目と4日目は我慢の日々でしたが、今日はいくらか楽になり、帰ってから身の回りの片付けごとをしました。退院間際には中川医師(院長)が来てくれ大いに励まされました。これで4月から続いている治療は一段落です。
 これから一週間程度は様々な副作用が予想され、要注意です。しばらく、自宅療養ですがパソコンはやれるでしょう。明日ぐらいから書き始められるかな。留守中もたくさんの方が覗いてくれました。感謝。

梅雨明け・好日

2008-07-23 05:36:39 | 出会いの旅
 
 昨夕、上州の小旅行から帰りました。明日から癌研有明病院に入院しなさいと言う連絡が届いていました。だいたい予期していたとおりです。今回の抗ガン剤治療で4回目の入院になりますが期間は数日です。これが終わるとよかれ悪しかれ、治療は一段落です。あと一息です。
 残念なのは71年3月池商卒業のSさんが会主となって10周年記念の民謡発表会(27日・王子・北とぴあ)をみられそうもないことです。高校生の時からお母さんの民謡酒場を手伝っていたSさんが、やがて津軽三味線の高橋裕次郎というかたと一緒になり、自らは民謡のお師匠さん・高橋祐貴恵になったのです。
 Sさんの晴れの舞台を見ることを夏の楽しみにしてきました。旦那さんとの合奏「津軽じょんから節」も是非聞いてみたいのです。
 癌研の先生が日曜日の退院にOKを出してくれ、ぼくの体調がよければもしかしたら、帰りに寄れるかも知れません。

 上州の旅のメモ。
 
 7月20日(日)
 カツヨシさんと3人で群馬県武尊(ほたか)牧場へ。リフト終点近くで遅い昼食。武尊登山口のブナの森を案内。川場村のSLホテル泊まり。
 倫子の誕生日。
 
 7月21日(月)
 宿舎の近くの歴史民俗資料館を見学後、水上へ。奈良俣ダムで昼食。奥利根水源の森を散策。利根川の源流部の冷たい流れに脚を浸す。泊まりは水上の去来荘。
カツヨシさん浪曲などを披露。

 7月22日(火)
 谷川岳一の倉沢の景観を楽しむ。http://lian.webup.co.jp/gallery/ichinokurasawa.htm

ロープウェイで天神平に登り、昼食。残念ながら視界不良。 遅くならないうちに帰越。

 梅雨明け直後、入院直前の貴重な3日間。付き合ってくれたカツヨシさんありがとう。土佐人が上州人を上州に案内するという小旅行です。森の恵みに感謝する大自然教の体験的学習ツアーでもあります。
 
 ぼくはこれから入院です。短期間ですからパソコンは持ち込みません。「川越だより」は数日間お休みさせてください。暑い日々が続きます。みなさん、どうぞご自愛ください。

都立文京高校・残念

2008-07-20 06:17:43 | こどもたち 学校 教育
玄関脇の百合が咲き誇っています。夏本番です。
昨日、神宮球場に着いたのは11時10分頃です。どういうわけか、1回の裏の文京の攻撃中です。前の試合がコールドゲームになり、30分以上早くはじまったようです。
 無死満塁から長打が出て一挙に5点の先取です。文京の誇る吹奏楽部の演奏に乗って応援も快調です。今日は行けるかな、と思ったのですが相手はやはりシード校です。


4回戦        合計
修徳  0 0 0 4 1 1 3 1 2 12
都文京 5 0 0 1 0 3 0 0 0 9
【投手】修徳:森谷→曽我→武内
都文京:大久保→藤村→大久保→小林 【本塁打】修徳:遠藤

 いったん同点に追いつかれますがまた3点のリードと頑張ります。しかし、終盤に守備力と打力の差が出た感じです。ベスト16進出はかないません。グラウンドで泣き崩れる選手がいました。精一杯頑張ったのです。照りつける太陽の下、ぼくも快い声援を送り楽しい思いをさせて貰いました。ありがとう。

 三人の卒業生が声をかけてくれました。二人は見覚えのある顔です。97年入学の吉田くんたちでした。入学したばかりのこの人達の「倫理」を担当しました。陳くんの名前が出てきます。そういえば彼らはみんな野球部だったのです。
 姜さん、王先生…懐かしいひとびとの名前が出てきました。ゆっくり近況を聞けばよかったのですが、久闊を叙しただけで帰途につきました。誰にも会えないのかなあとあきらめていただけに嬉しい出会いでした。ASIAN同好会で仲良しになった人が多い学年です。みんなどうしているのかなあ。

 今日はこれから群馬県に出かけます。カツヨシさんが一緒です。上州武尊(ほたか)の周辺のブナ林を歩きます。

 武尊牧場 http://www.vill.katashina.gunma.jp/kankoujouhou/sonei/hotakabokujou/

 奥利根水源の森 http://www.kanto.kokuyurin.go.jp/invitation/suigennomori/index.html

「荒れ野の40年」 歴史を見る目 

2008-07-19 09:17:45 | 政治・社会
機会が与えられたので今日は神宮球場にいって文京高校の応援をすることにします。相手は修徳高校、シード校です。不敗を誇っていた帝京が敗れたところを見ると東東京大会の行方も混沌としてきました。足立新田・広尾・江戸川・文京など都立高校にもチャンスがあるかも知れません。頑張ってほしいものです。今日は土曜日だからどなたかと会えるかな。

 6月29日の「イムジン河 3」の締めくくりにぼくは次のように書きました。

  ぼくは19世紀から続く帝国主義の時代の歴史を深く学ぶことに賛成です。侵略や植民地支配、それらに対する抵抗についてはとくにきちんと学ばなければなりません。それは共に未来を創るためにであって、若者に他民族への憎しみを植え付け、自己の支配を正当化するものであってはなりません。同時に、若者に贖罪意識を植え付け、ありのままの現実を直視する目を曇らせるものであってはなりません。

 今日はここに書いた「若者に贖罪意識を植え付け、ありのままの現実を直視する目を曇らせるものであってはなりません。」という文章にかかわって補足します。


 ぼくは歴史の教師ではありませんが、今を知り未来に生きるために近現代史にかかわる授業をやってきました。生徒たちが中国と戦争をしたことさえキチンとは知らない現実があるからです。いくら60年がたったとはいえ、これでは今が理解できるわけがありません。
 ぼくがやってきたことは歴史の授業とはいえません。「侵略」という映画をみせて解説するといった、歴史の事実の一端を知って貰うだけです。
 
 その後で必ず、つぎの文章を紹介しました。よろしかったら皆さんも声を出して読んでみてください。
 

 「荒れ野の40年」から  ヴァイツゼッカー(1985・5・8)

 一民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく個人的なものであります。

 人間の罪には、露見したものもあれば隠しおおせたものもあります。告白した罪もあれば否認し通した罪もあります。充分に自覚してあの時代を生きてきた方がた、その人たちは今日、一人ひとり自分がどう関り合っていたかを静かに自問していただきたいのであります。

 今日の人口の大部分はあの当時子どもだったか、まだ生まれてもいませんでした。この人たちは自分が手を下してはいない行為に対して自らの罪を告白することはできません。

 ドイツ人であるというだけの理由で、彼らが悔い改めの時に着る荒布の質素な服を身にまとうのを期待することは、感情をもった人間にできることではありません。しかしながら先人は彼らに容易ならざる遺産を残したのであります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 心に刻みつづけることがなぜかくも重要であるかを理解するため、老幼たがいに助け合わねばなりません。また助け合えるのであります。

 問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけはありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。

 出典 「荒れ野の40年」全文はこちらで
  http://www.asahi-net.or.jp/~EB6J-SZOK/areno.html
 


 敗戦から40年目の5月8日、当時の西ドイツの大統領が国民議会で行った演説のごく一部です。ユダヤ人に対するホロコースト(計画的皆殺し)という国家的犯罪が行われたとき、子供だったり、生まれてもいなかったりした若い世代のドイツ国民に大統領が語りかけた言葉です。

 人を殺すという罪を犯す、またはそれに荷担するということは本当に取り返しのつかないことです。罪を自覚するなら犯人は贖罪の生涯を生きざるを得ません。
大変なことです。
 ぼくが昭和天皇を尊敬できないのはこの点において欠けると思うからです。日本が行った戦争犯罪はドイツのホロコーストとは違います。しかし、誤った戦争指導のもと「無辜」のひとびとを死に追いやったことは事実です。その罪と責任を自覚するなら、少なくとも退位し、「閉門蟄居」するくらいであってほしかった。田舎の学校の一教師に過ぎなかったぼくの父でさえ、敗戦の後、徐々にではあっても「戦犯」の自覚のもと生き始めたというのですから。
 罪を犯したひとびとがその責任の重大さに恐れおののき、贖罪の道を生きるのは当然のことです。この社会の倫理の根幹にかかわることです。

 しかし、罪のない人に贖罪を求めることは出来ません。若い世代が歴史を学ぶ重要性はならばどこにあるのか。ヴァイツゼッカーの訴えの核心はここにあります。

 罪の有無、老幼いずれを問わず、われわれ全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関り合っており、過去に対する責任を負わされているのであります。

 生徒のほとんどがこの演説の趣旨に共鳴し、賛同する意見だったように記憶します。ただ、親しい生徒達と話し合ったとき、この種の勉強をして自分もまた犯罪者ではないかと深く落ち込んだことがあると聞いたことがあります。私たちの授業が贖罪意識を植え付け、日本人として、人間としての誇りと自覚を押さえつけてしまったのかも知れないのです。罪人であるとすれば謝り続けなければならず、償い終わらない限り相手と対等な関係を築くことは出来ません。「自虐史観」の強制という言葉が投げつけられていたときでもありましたから、ぼくも自分の授業のあり方を考えさせられました。

 BC級戦犯に問われた朝鮮人の補償問題に取り組んでいる方の文章があります。


     戦後世代の戦争責任    田口祐史
 私は1963年生まれなので、まるっきりの戦後世代だ。だから、 前の世代がやったことの責任を直接問われても困る。だって、私が生まれる前の出来事について、私は関与していないのだから。 「謝れ」と言われても、私は謝らないだろう。 むしろ、 謝ってはイケナイとさえ思っている。 謝ってしまえば、その場は収まるかもしれない。しかし、当時生まれてもいなかった私が口にする謝罪など、 嘘っぱちでしかない。心からの謝罪など、できるわけがない。(もちろん、今の日本政府や日本社会のあり方について謝れと言われれば話は別だ)            私には、謝ることができない。しかし私には、あの非道な過去を 「反省」することはできる。 前の世代がやったことを、自分に重ね合わせながら、「反省」 することはできる。類似した行為をおかさない責任を、自分から背負っても良いのではないか。

 「俺たちには関係ない」…そんな意見が、僕らの世代の(あるいはもっと若い世代の)正直な気持ちだということを私は認めよう。ただ、私はそこから一歩踏み出したところで発言をしたい。被害者たちとのこれまでの出会いが、「おまえにも関係があるのだ」ということを私に教えてくれたからだ。彼らの痛みを知ってしまったから私は、開き直ることができない。そして、日本がやってきたことの責任を背負ったほうが、僕らはむしろ豊かになるのではないか、と私は思うのだ。

 以上のようなことを、私は自分の本の中に書き、あちこちで喋ってきた。さて、皆さんはどんなふうに考えるだろう。ぜひ意見を聞かせてください。

 
 歴史を学ぶことが自分の人生を豊かにできるとしたらそれこそ学びの名に値するでしょう。そのような人の目はどのような人権侵害にも注がれる普遍性を獲得しやすいのではないかと思われます。どうしたら公平で普遍的な目を養う歴史の学びが出来るか、ぼくにとっても変わらぬ課題です。           

 

 


頼りになる隣人

2008-07-18 11:45:34 | 友人たち
 昨夕、隣のMさん夫妻が来てくれていっぱいやりました。ぼくの事を気にかけて「ビールがのめるようになったら」と言ってくれていたのです。いつものように奥さんが奥羽山脈の山里の料理を作ってもってきてくれました。その「ニシンのひしこ漬け」のせいか、ビールがおいしく、だいぶすすみました。
 若い頃、和賀岳の麓で林道工事を請け負って働いた頃のエピソードをを聞かせて貰いました。そういえばMさんは大型重機や大型自動車のベテラン運転手でもあったのです。最近、幼稚園の送迎バスの運転手をやる話があったといいます。
 これはいい人に気づいたと思いました。さっそく、きいちご基金の小旅行のマイクロバスの運転をお願いしてみました。嬉しい答えがたちどころに返ってきます。これで年来の企画が実現できるかも知れません。
 ぼくとしては春・秋の「移動教室」とは別に残留孤児とその配偶者との小旅行をやりたいと考えてきました。言ってみれば老人会のバス旅行です。「おおるり観光」を利用して、昨年の夏休みにやって喜ばれたのですが、いくつかの難点があることもわかりました。
 やはり自前のバスがベターです。旅をしながら人生を交流する貴重な一時です。そのメンバーにMさん夫妻が加わってくれるというのですから鬼に金棒です。日本語と中国語の達者な老人が忠幸さんひとりなのが問題点です。老人でなくとも、平日に付き合ってくれる通訳が出来る方が居られたら声をかけてください。

 行方が知れなかった「月」が真夜中に帰ってきました。夕方、小宴がはじまった頃、いったん顔を見せて一同を安心させてからの正式帰宅でした。

「月」はどこへ行った?

2008-07-17 17:30:01 | 父・家族・自分
 我が家の飼い猫の「月」が昨日の朝から行方不明です。数年前、脳梗塞をやり、脚にいくらか障害が残りましたが元気を回復していました。一ヶ月ほど前、近所の猫と喧嘩して傷を負って以来、いいことがありません。傷口からばい菌が入り、病院通いが続きました。だいぶよくなってきたところで今度は肛門付近に割き傷をこしらえ、簡単な手術を受けました。
 今までは家から出入り自由の気ままな生活でしたが、包帯をしてからはそういうわけにも行きません。高齢に伴う痴呆症も併発したのか、家中のあちこちを尿で汚します。洗濯や掃除などで妻はノイローゼになりそうです。昨日は汚された玄関を掃除中に脱走されたのです。
 1日半がたちましたが帰りません。探し回ったあげく、妻は近所のお宅やあちこちの関係機関に「捜索」依頼をしてありますが通報はありません。
 1995年暮れ、東松山市の岩殿観音の近くで娘や妻が拾ってきて以来13年近くになります。栄養失調でやせこけた雄の子猫でした。クロネコですが、喉のあたりに白い三日月模様があり、「月」と名付けられて我が家の一員となりました。北海道帯広の生活を切り上げて、川越で再出発しようとしていた娘がかわいがってきました。娘の足音がすると玄関に迎えに行きます。寝るときも二階の娘の部屋です。
 我が家では昔から猫がいなかった時期はありません。面倒見が大変ですが、イヌと違って散歩につれて行くわけではありません。ですから、猫好きというわけではないぼくも子どもたちがつれてくれば文句を言わず、まあいいかと一緒に生活をしてきました。しかし、親身になって病気の猫の世話をするなどと言うことは出来ません。せいぜいぼくが元気のいいときに、ブラシをかけてやるぐらいです。
 娘や息子のお連れ合いの弘子さんなどは違います。「猫かわいがり」とはこういう人のことかと思われます。

 息子夫妻が横浜でバーを開店したときに付けた名前が「Bar 招福堂」です。世田谷の豪徳寺の境内にある招き猫のお堂の名からいただいたそうです。

 豪徳寺の招き猫伝説  http://blog.livedoor.jp/forte_umegaoka/archives/50354840.html

 ぼくは60年代の始め豪徳寺の門前に住んだことがありますが、猫伝説のことは記憶にありません。こんな名前のバーがあるのかといぶかったくらいですが、ここ4年お客さんに恵まれているそうですからありがたいことです。

 Bar 招福堂 http://r.gnavi.co.jp/a181700/
 
 失踪以来、二日目の夜を迎えます。「月よ、帰っておいで」。


 患者が多くて4回目の抗ガン剤治療のための入院が来週になりそうです。脚などのシビレが取れないのでぼくには好都合です。数日間の休養日をプレゼントされた格好ですがさてどうしよう。
 教育大学新聞会のHPに先日の同窓会の写真が登載されました。新しいヘアスタイルでデビュウしたぼくが写っています。
 
 「OB会ニュース」に出ている大きな写真の方です。わかりますか。http://members.jcom.home.ne.jp/lionsboy/index.htm  

 



 

健投 大島高校永野くん

2008-07-16 07:22:21 | こどもたち 学校 教育
 副都心線で行ってみようなどと思ったため、神宮第2球場に着いたときには2回表の世田谷学園の攻撃中。外野へのフライを落球し、大島1点を献上。(今日はついてないな)。
 スタンドを見渡しても知り合いの姿は見あたリません。大島側の応援は年輩のOBの方がときどきラッパで校歌を吹奏してくれ、私たちはそれに和して手拍子を打つだけです。学生のリーダーもいません。これは例年どおりですがこの日は20人程度の男子高校生が数名の野球部の選手と一緒に声援を送っています。
 対する世田谷学園の応援ぶりにはぼくは違和感を覚えました。数十人の野球部の選手と同数程度の保護者が同じような格好をして統制の取れた賑やかな応援を展開します。同じ学校の生徒達の姿は見えません。
 ぼくの記憶にある応援には野球部の選手もその親も登場しません。応援部のリーダーのもとブラスバンド部の協力を得て、多くの生徒が声援を送り応援歌を歌いました。先日の市立川越高校も同じようにやっていました。
 高校野球と言うからには少年野球とは違うはずです。何故こうなっているのでしょうか。野球部の夏の大会も学校や生徒とは関係なく、子と親の異様な合体の私的行為になってきたのでしょうか。
 1時間ほどたってからO君が駆けつけてきました。仕事のやりくりをして、職場からバイクできたといいます。69年の卒業生です。今年は2回目の応援だそうです。
 Oくんが来た頃、長打で1点を追加されました。大島は敵失で1点を返すのがやっとで残念ながら、3回戦で敗退となりました。
 この試合で印象に残ったことが一つあります。何回だったか、相手打者に死球を与えてしまった時の大島高校の永野投手の振る舞いです。一塁に駆け込んだ打者に帽子を取って頭を下げたのですが、相手に通じなかったと見て、相手の顔をきちんと見てやり直したのです。相手の選手も手を挙げて「気にしてないよ」と応えているように見えました。
 永野投手がとっさのうちに示した行動にぼくは嬉しい思いをしました。 死球ではあっても相手にかすり傷一つ附けたわけでもありません。(この選手は直後に二塁への盗塁を決めています)。でも、「悪かったなあ、ごめん」という気持ちを伝えたかったのです。そういうことが自然に出来る永野くんが好きです。
 
  試合には負けたけれど大島高校の選手諸君の健闘をたたえます。

 
 ふだんは100人前後の方がこのブログを覗いてくれますが昨日は176人にのぼりました。感謝。

高校野球応援

2008-07-15 06:29:56 | こどもたち 学校 教育
 13日(日)前日、長野に帰る新聞会の先輩を囲む交流が遅くまであり、ゆっくり起床。2時過ぎに川越初雁球場へ。家からは新河岸川沿いに自転車で下ること10分ほどのところ。市立川越高校の応援。朝霞高校との前日の試合が延長15回、引き分け再試合ということになり、観戦の機会が訪れた。
 前の試合が川越初雁と川越東(私立)ということもあったのか外野の芝生席まで満員に近い。やっと席を確保して隣のおじさんから昨日の試合の様子を聞いていると座席移動を命令される。チアガールの活動のためあけてほしいということのようだが、応援に駆けつけた市民に対し、きちんと説明し協力をお願いするということが出来ない川高の教師と生徒である。
 入場料を払い、前の試合から観戦している市民はそれでも応援頑張ってやと生徒に声をかけてどこかへ移動するがありがとうの一言もない。ぼくもいくらか感情を害したが、外野寄りに空席を見つける。
 試合は8回裏、川越が長打2本で1点をとり、そのまま逃げ切った。しかし、ぼくの見るところ、朝霞高校の選手達の方が攻守にきびきびとしていた。市立川越はもとの川商でただ一つの市立高校。春の県大会で優勝したそうだ。試合も応援も市民の共感を得られるようにぴしっとしてほしいものだ。


 14日(月)蒸し暑い一日。教育大新聞会の大先輩から電話をいただきびっくりする。先日の同窓会でぼくが近況報告がてら配布した「きいちご」などを読まれて、闘病激励をしていただいた。面識があるともいえない年の離れた後輩に対してである。戦後新制教育大になった頃、新聞会の活動を支えてくれた先生にかかわるお話もあった。ありがたく感謝するばかりである。

 15日(火) 癌研からのお呼びが掛からないので今朝は都立大島の応援に行こうかと思案中。昨夜の内に大島OG4人に声をかけてみたが、都合のつくひとはゼロ。どなたかと会えるかな。


東京教育大学新聞会

2008-07-14 12:28:49 | 友人たち
 12日(土)11時、六本木の国立新美術館の毎日書道展。小学校の同級生の功子さん夫妻が入選し、その作品が展示されている。展覧会の規模が大きく、お二人の所にたどり着くのが一苦労。功子さんは「桜貝のうた」。ご夫婦でもう20年以上も書をやっているという。お連れ合いの義治さんの趣味はただごとではない。ぼくが知っているだけで、アマチュア無線、花火師。仕掛け花火の職人としてプロと同じ。土日に全国を駆け回ったはずだ。書もやっていたとは。あらゆる創造活動に臆病で無趣味な人間には想像を絶する生き方である。
 先日送っていただいた野菜たちのお礼を言うと勤務先の学校でも300坪の農園を管理しているという。子どもたちに農業を体験させるためのものだが最近は畑や田圃の手入れを出来る教員が少なくなり、義治さんたち現業職に仕事が一任されるのであるらしい。定年後の嘱託勤務だが、どんな仕事でもきちんとこなす貴重な人材で今も週5日勤務だという。
 この夏は功子さんのお母さんの法事でご夫妻で室戸に帰る。同じ頃帰られればいいが…。

 一時過ぎ、新橋の汐留駅あとのビヤホールに到着。教育大学新聞会の同窓会。教育大が廃校になって30年、学生新聞が廃刊になって35周年の記念の会である。集うもの、1951年入学者から68年入学者まで39名。
 日本の国立大学で「廃校」という処分を受けた学校は珍しい。筑波大学開校の陰で東京教育大は消滅させられた。したがってもっとも若い人でも60近い、ほとんどが老人の同窓会なのである。
 ぼくだけでなくここに集まった人の多くは「新聞会」の卒業生である。授業というものには縁がなく、部室に通い、大学は卒業しなかった人もいる。安きに流れたともいえるが、こちらの方が面白かったのである。
 佐賀県に住む岩本君。80年夏、「在日朝鮮人生徒の教育を考える会」の仲間達と対馬を訪れたときに世話になった。長崎県の教育界でどんな風に歩んでこられたのか、どっしりと風格が感じられる。ぼくの不注意で久闊を叙しただけでゆっくり交流できなかった。残念。
 Aさん・Bさんとは卒業以来である。BさんはCくんと一緒になったが、先年先立たれてしまった。電話でお見舞いを言ってて以来か。40年以上の月日は流れたが直ぐに昔に戻れるのは嬉しい。
 Aさんはぼくが人生の中で直接本人に「愛を告白」した最初の人である。妻を除いて後にもいない。残念ながら相手にされなかった。
 「倫理」を担当し、「青春期」について問われたとき、その時の様子をぼくは時に生徒に話すことがあった。「大学の屋上にひとり佇んで、秋の空にすいこまれるような気持ちであった」。こんな話をするところまでは行かなかったが久しぶりに会えて楽しい時をすごすことができた。
 妻はこの人ひとたちの後輩である。ぼくが曲がりなりにもこの年まで社会人生活を送ることが出来たのは妻がいてくれたお陰だが、このひとをぼくのために「ガード」してくれたO君も逝ってしまった。
 思えば文京区大塚窪町24の教育大新聞会はぼくにとって大切な青春の学校であった。
後輩たちが「縮刷版」を作ってくれたので僕らの活動の痕跡はきちんと保存されている。ぼくが書いた記事も幾つかはある。
 彼らは教育大学新聞OB会のHPも運営している。
  教育大学新聞OB会のHP
 


 歴史の彼方に消えた教育大研究の資料としても貴重である。今回の同窓会も彼らのお陰で楽しむことが出来た。ありがたく、感謝。

巻口シズさん

2008-07-12 00:07:14 | 友人たち
 北高の生徒だった巻口(旧姓)さんが『追懐の情  満州・柏崎村に生きた巻口シズ追悼録』という冊子をおくってくれました。巻口さんのおばあちゃんが書き残してあった手記を1周忌を期して伯父・弘さん(おばあちゃんの長男・新潟県柏崎市在住)が編集発行したということです(07・6・15)。

 巻口シズさん。1942(昭和17)年29歳の時、5人の子供を連れてソ満国境の開拓団に入植。45年8月、ソ連侵攻後二人の子供を失う逃避行の中で子どもたちともども王徳財さんに助けられやがて結婚、3人の子を産み育てる。1975年帰国。夫や子どもたちとその家族をことごとく呼び寄せる。06年6月逝去。93歳。
 1953年、帰国のチャンスが訪れたとき、結局長男の弘さん(当時17歳)だけが日本に帰ることになります。この時のことを回想するシズさんの文です。

 今すぐにも帰りたいのは山々であるが、私たちがどうして帰れましょう。本当に毎日悩みました。弘は帰宅の道中私を説得するのです。「母さん、みんな一緒に日本に帰ろうね。私たちは日本人なんだから、誰がなんと言おうと帰るんだよ」。
 私は返事もなく、家に帰って話すことも出来ず、一人苦しんで居りました。弘は妹弟たちにも言い聞かせ「みんな日本に帰るのだ」。稔、綾子、圭子は「お母さんが帰るなら私たちも帰る。お母さんが帰らないならいやだ」と言って聞きません。私の心はくるいそうです。
 5人の命を助けて貰った王徳財にはどうしてはなしてよいのか。その当時、王徳財との間に二人の子供も生まれていたのです。5人の命を助けて貰った恩人と子供二人を捨ててどうして帰れましょう。仕方なく弘は一人で日本に帰る申し込みをしたのです。
 昭和28年の5月頃だと思います。依蘭の船着き場まで弘を送りに行きました。これでもう会うことは出来ないと思うと涙が止めどなく流れてなにもいうこともできず、別れてしまいました。船のドラのなる松花江の川岸で、小さな乳飲み子を背におぶい、3,4歳くらいの女の子の手を引きながら、一生懸命手をふっていた中国人の男の人がおりました。きっと弘たちと一緒に日本に帰る奥さんを送りに来ていたのだと思いました。その姿を見た私は気の毒で、自分と同じ境遇の人であるなあと思い、とっても哀れでなりませんでした。
 人間はひとりひとりの気持ちは違うけれど、自分があまりにも決断の出来なかったことを後悔しました。

 両親、夫、二人の子供…再び会うことのない別れの連続です。別れることが出来ないが故に長男とまた別れる。何という事でしょう。しかし、引き裂く力に屈しない再結集のたゆみない努力に敬服します。

 先に帰国した弘さんの母や兄弟・恩人たる義父の帰国・来日によせる執念は30年近い年月をかけて、一族の再結集を勝ち取るのです。

 27人の孫を代表して述べた莉恵さんの弔辞が心を揺さぶります。子供の時、日本にかかわることはおばあちゃんも両親も教えてくれなかったと言います。


 私たちは日本に来て、皆それぞれが言葉や文化という大きな壁を乗り越え、たくさんの方々のお助けをいただきながら、日本で頑張っています。(略)
 最近『幻の満州柏崎村』を手に取り一気に読み切りました。おばあちゃんや父たちが中国に渡ったときの状況、残されたあとの状況を知って涙が止まりませんでした。でも、おばあちゃん。莉恵は本当はおばあちゃんの口から聞きたかったのです。とうとう、そのことが実現出来なかった。今は残念でなりません。
 これからは自分なりに先祖のことや歴史のことなどを調べながら、おばあちゃんの生きてきた道を辿りたいと思います。
 おばあちゃん長い間ありがとう。
 中国でたくさんの苦労をしてきたけれど、そんなおばあちゃんが私たちの誇りです。おばあちゃんがいたからこそ私たちはこうやって、この世に生まれてきたわけです。この命を大切にして、これからも頑張って生きていきます。(略)

 おばあちゃんには語って聞いてほしいことが山ほどあったのです。可愛い孫に語れなかった気持ちとはどんなものだったのでしょう。また、70を過ぎて人知れず、広告紙の裏に書きつづった思いとは。
 一周忌を前にして伯父さんの手によって冊子にされたおばあちゃんの言葉は孫たちの命を励まし、更にその子どもたちに伝えられていくことでしょう。
 ぼくの生徒であった洋子さんはおばあちゃんの次女・(故)圭子さんの娘さんです。この6月から残留孤児の支援相談員という仕事を始めました。おばあちゃんの歩みを心に刻みながら、同胞の支援に取り組んでいくことでしょう。
 手記に同封されていた手紙に「私は今の仕事、一生懸命頑張っております」とあります。

 巻口弘さんは家族の再結集のためばかりではなく、満州・柏崎村に関わりのあった方々のリーダーとして、慰霊碑の建設、柏崎村跡地への慰霊の旅など尽力してきた様子が地元の新聞でわかります。
 「勝つ見込みもない戦に国民を信じさせ巻き込み、甚大な取り返しのつかない悲劇が生じたのでした。戦争は必ず国民を犠牲にし、結果は奇禍と哀れな運命を残します。」と書かれています。(「追懐の情」発刊につき)


 
 満州柏崎村の塔碑前祭、今年で最後に  『柏崎日報』05・10・4
 
 終戦時、旧ソ連の参戦による逃避行の中、大勢の人が亡くなった中国・旧満州の柏崎開拓民を慰霊する第20回満州柏崎村の塔碑前祭が2日、市内赤坂山公園内で営まれた。関係者が高齢化したため、やむなく今回を一区切りとするとあって、例年より多い130人が参列し、雨の中を献花の列が続いた。

 柏崎からの開拓民は、旧三江省通河県(現黒竜江省)で約60世帯、200人を超える人が「柏崎村」建設に従事するなどしたが、軍から見放されて悲惨な逃避行を迫られた。戦後の年月を重ねるとともに、「歴史を風化させてはならない」とする声が市民の間から起き、1986年、多くの協力を得て鎮魂の碑・白亜双柱の満州柏崎村の塔が建立。柏崎から満州の土となった244人の名前が記された。開拓民の悲劇を描いた「二龍山」「幻の満洲柏崎村」の著者、故・深田信四郎さんの活動も大きな原動力となった。

 碑前祭で代表世話人の巻口弘さん(70)は、深田さんや碑の建立に尽力した高橋源治さんらの努力に感謝。「今回を碑前祭のけじめとするが、これからは現地に赴き、慰霊を続けていきたい」とその思いを語った。会田市長も来賓代表としてあいさつし、来年5月に計画されている柏崎村跡地への旅に参加することを改めて表明した。
  出典 https://www.kisnet.or.jp/nippo/nippo-2005-10-04-2.html

さようなら、敏明さん

2008-07-11 18:36:31 | 友人たち
 9日(水) 6日に亡くなられた鹿倉敏明さんの葬儀。近所に住む一級建築士。娘さんが息子の中学校の同級生で、奥さんと妻がPTAで出会った。以来長いおつきあい。改修が不可能と診断された我が家のメインテナンスをときどきやってくださった。闘病中も能面の制作に励む匠。おだやかでやさしくダンディ、妻でなくともファンになるだろう。人生の最愛の人と別れ、奥さんがつらそう。ぼくにとっても大切な人をまた喪った。合掌。
 
 10日(木)早朝せっかく書き上げたブログ「巻口シズさん」を「投稿」すると共にうしなう。もう何度目になるだろう。どなたか知恵を貸してください。
 カツヨシさんと鳩山の森を散歩したあと、4時から忠幸さんが加わって我が家できいちご基金の世話人会。10月4・5日に一泊2日の移動教室を行うことにする。目的地は前回雨のため行けなかった日光市足尾。お二人の尽力で日漢両語による「きいちご」2号が近く発行。このお二人もまた、匠の気配。本当に細かいところまで筆者の気持ちを忖度して仕事する。9時過ぎまで交流。

 11日(金)足尾の国民宿舎「かじか荘」や「緑を育てる会」に電話して移動教室の骨格が出来る。荒れ地に植林も可能とのこと。バスの手配もすませる。きいちご基金としては大金を投入しての一泊旅行である。どなたにとっても楽しい学びの場になるようにしたい。この日本に骨を埋める決断をした残留孤児とその家族の方々が喜んでくれるといいな。
 ニュース発送用の宛名書きもすんだのでぼくの役割は終了、安心して(?)来週は入院。午後、不要書籍など廃棄処分の準備。抗ガン剤点滴から今日で4週間になるが、シビレがなかなか取れない。ちょっと心配。
 明日は功子さん夫妻の書道展と教育大学新聞会の同窓会で久しぶりの上京です。
 

モンゴルはどうなっているのか

2008-07-09 10:22:48 | 中国
 抗ガン剤点滴から4週間が近づいていますが、脚のシビレがなかなか取れません。横になっているのが楽ですからついつい眠ってしまいます。
 昨日は晴れ間が出たので自転車で外出してみました。西川越の安楽亭で昼食のあと、水上公園の池のベンチで横になり一休み。河川敷の自然林を散策。帰ってシャワーを浴び、昼寝。こんな風にして一日が過ぎていきます。
 先日こんなニュースがありました。  


  中国『少数民族』のデモ続く 「内モンゴル」留学生ら150人  
            2008年7月6日 「東京」朝刊
中国内モンゴルの留学生らで作る「モンゴル自由連盟党」日本代表部(ダシ・ドロノブ代表)のメンバーら約百五十人が五日、中国当局による同自治区での「人権抑圧」に抗議し東京で初めてデモ行進した。在日の中国「少数民族」によるデモは三月のチベット騒乱で本格化し今回はチベット、ウイグル人に続く動き。「中国当局」という共通課題を軸に相互連携を強める構えだ。
 主催者側によると、この日のデモは、八月に迫った北京五輪を前に同自治区のモンゴル人らが置かれている劣悪な人権状況を日本の市民に訴えるのが目的だが、同じ民族の住む隣接のモンゴル・ウランバートルでは選挙の「不正」への抗議が多数の死傷者を出す惨事に発展し非常事態宣言が出されたばかり。

 ダシ代表は騒乱について「中国の“植民地化”による経済格差拡大への不満が内・外モンゴル双方の社会でともに強まっている現れ」と指摘。デモが同様の問題を抱える他の少数民族の在外活動などに影響を与える可能性もある。

 同党は中国の内モンゴルでの人権侵害や文化・自然破壊を阻止するため一昨年末結成。この日午後、メンバーらは港区の公園で決起集会を開いた後、「モンゴル人に自由を!」「中国当局による文化・自然破壊と人権弾圧下の北京五輪反対」とシュプレヒコールしながら都心を約一時間に渡りデモ行進した。  (外報部・佐々木理臣)

 内モンゴルといっても何も解りません。旭鷲山が国会議員になったというモンゴルと何故分離されたのか?そんな基本的なことも知りません。かの地から来日したBさんという方が「きいちご移動教室」に参加し、示唆に富む文章を寄せてくれて友達になり掛かっていたのですが…。ぼくの怠惰から放置したままです。皆さんも是非読んでみてください。よかったら意見を寄せてください。交流がはじまるかも知れません。

 「異文化についての考え」

 http://www.geocities.jp/kiichigokikin/kiichigokara.html

 デモのニュースを読んで内モンゴルについて知る努力をしたいと思うようになりました。近くに内モンゴルの砂漠の植林に取り組んでいるかたがいますがこんな話は聞いたことがありません。今は漢人が圧倒的多数派でモンゴル人の苦難が見えないのかも知れません。元気になったらBさんを招いて話を聞く機会を創りたいと思います。


  モンゴル自由連盟党
           http://www.lupm.org/japanese/index.htm