牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月14日(金) 「説教論③」 加藤常昭著

2014-02-14 07:41:06 | 日記

 本書を読み終えた。最後の第四章のタイトルは「説教の方法」。言い換えれば、「いかにして現実的説教を目指したらよいか」ということである。

 特に講解説教について書いている。本からの引用。「講解説教は教理と無縁どころか、むしろまさしく聖書を説くことによって教理を説く説教なのである。」

 著者は「講解説教におけるテキスト立体化の諸段階」として以下のように説教を準備することを勧めている。

 第一段階 第一のテキストから第二のテキストへ      
 第一のテキストとは、礼拝において会衆と共に読む聖書テキストのことである。説教者はこのテキストについて集中的な黙想をすることから、その準備作業を始める。この過程を第一の黙想と呼ぶ。第一の黙想から生まれたテキストを第二のテキストと呼ぶ。

 第二段階 第二のテキストから第三のテキストへ      
 注解書の助けにより歴史の中の聖書の言葉の意味をできるだけ忠実に捕らえていく。この歴史的釈義の過程から生まれたテキストを第三のテキストと呼ぶ。

 第三の段階 第三のテキストから第四のテキストへ         第三のテキストについて、再び黙想が行なわれる。いわゆる説教黙想の過程である。この第二の黙想から生まれたテキストを第四のテキストと呼ぶ。

 第四の段階 第四のテキストから第五のテキストへ         第四のテキストは、そのままでは、説教とはならない。説教の原稿として整えられなければならない。説教の原稿として確定されたテキストの言葉を第五のテキストと呼ぶ。

 第五の段階 第五のテキストから第六のテキストへ         第五のテキストとしての原稿に基づいて礼拝で実際に語られる説教が、礼拝の現実的な出来事の中で一回的に語られる神の言葉として、初めて本来的な意味における説教になる。この時のテキストを第六のテキストと呼ぶ。

 第六の段階 第六のテキストから第七のテキストへ         聞き手は、それぞれにこの説教、すなわち第六のテキストを聞き取る。この聞き取られたテキストが各個人の信仰者、求道者の心に保持され、その生活を形成する。また教会を形作る力として働き続ける。これを第七のテキストと呼ぶことにする。


 黙想を通して、自分の言葉としての説教をすること、語るべき教理をつかむこと、正しい日本語による福音表現を獲得すること、などが特に大事なことであると学ばせられた。


 最後のあとがきで著者はこのように書いて本書を締めくくっている。「率直な思いを語らせていただきます。説教を芸術とは呼び得ないかもしれません。しかし、説教もまたクンスト(技巧・芸術)であることは明らかです。技術の体得、そのための修練が不可欠です。しかし、日本の説教者は、その点でまことに怠慢です。そのために福音の言葉が届くべきところに届いていないのです。、、、、説教の力ある証言が求められています。説教者の再生が待たれています。」

 私たち説教者は自分たちの怠慢を反省しなければならないだろう。修練が必要である。そのことは常に努力し練習を続け本番に備えているオリンピック選手たちを見ていても教えられることである。