牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月13日(木) 「人間の絆 上」 モーム著  新潮文庫

2014-02-13 07:43:40 | 日記
 
 モーム著の『月と六ペンス』が面白かったので、モームの最高傑作と評価されている本書を読んでいる。本書は著者の自叙伝的長編であるようだ。

 主人公は幼くして両親を失い、牧師である叔父と牧師の妻である叔母に育てられる。牧師を養成する学校(中学校)に入学するが、足が不自由なために劣等感に苦しむ。友達がいなく孤独であった。読書が大好きで、本が彼の友であった。神様に仕えることを強く欲していた。ある時、神様に「足を癒してください」と一生懸命に祈るが、癒されない。このこともあって信仰を失い始め、牧師の道に進むのを棄て、叔父と叔母や校長の反対を押し切って学校を中退する。

 モームはキリスト教嫌いになってしまったのである。それは『月と六ペンス』にもあらわれていたが、本書では更に顕著にあらわれている。その一つの理由が祈りに答えられなかったというものだ。癒しの問題と祈りの問題は非常に難しい問題であると感じる。癒しが起こることはある。それも超自然的にである。しかし、癒されないことがあるのも事実である。また祈りが答えられることがある。それも奇跡的にである。しかし、祈りが答えられないことがあるのも事実である。癒されないことによって、祈りが答えられないことによって、信仰を失う人々を私は牧師として見てきた。心が痛む経験である。それを超越した神の愛を信じることができるかどうかが鍵になるように思う。

 ただ多くの教会は逃げ道として、癒しを否定し祈らない、という方向に逃げているように感じる。はじめから癒しを信じなければ、祈らなければ、願い通りにならなかった時に失望しなくてすむ、ということだろう。そのような消極的な姿勢は人間的な知恵であって、聖書的な方法ではないと思う。私たちの役割は、癒しを求めること、祈ること、である。ただ結果は神にまかせるべきであろう。結果を人間が決めることはできない。神の主権である。自分の願う結果の通りにならないならそのような神を認めない、そのような神なら棄てるというのでは、本当の信仰とは言えないであろう。それはあくまで神中心の信仰ではなく、自分の幸せ中心の信仰、すなわち自分中心の信仰である。
 でも癒されない、祈りが答えられないために、失望してしまうのはよく理解できる。同情を覚える。信仰を失い、神と教会から離れるというのは、近くで見ている場合、非常に心が痛む。モームもその一人であった。

 物語に戻る。主人公はイギリスからドイツへ渡り、一年間自分を見つめなおし将来について考える時間を持つ。その中で芸術特に絵画に魅了され、一か八かやってみようと決心してパリへ旅立つ。偉大な画家は、描かなければならないから描くのだ、自分の人生をすべて芸術活動に捧げて情熱を持って描くのだ、ということに気づく。その一人が『月と六ペンス』の主人公であったゴーギャンである。そのことにも言及している。パリで2年間過ごして修行をするが、自分の限界を知った彼は、画家になることをあきらめてパリを離れ、イギリスへ戻る。しばらく故郷で過ごした後、今度は医学を志しロンドンへ出発する。

 世界のあちこちへ行き、自分自身を探し、自分の生き方を模索し、自分の生涯の仕事を見つける旅をする。途中間延びした部分(パリでの生活)があったように感じたが、自叙伝的長編なのでやむを得ないのかもしれない。文学的に非常に優れている作品であると思う。モーム自身の魂の遍歴であり、魂の叫びがこめられている。「下」へ続いていく。