牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月15日(土) 「これからの「正義」の話をしよう」 マイケル・サンデル著  早川書房

2014-02-15 07:40:12 | 日記

 男子フィギュアスケートで羽生選手が金メダルを獲得した。おめでとう! ショートプログラムで最高の演技をし、フリープログラムでは落ち着いた演技をしたと思う。最初の4回転で転倒したにもかかわらず、次の4回転をしっかりと決め、最初の転倒を引きずらずに素晴らしい演技をした。若いのにすごい精神力の持ち主である。大したものである。女子フィギュアスケートも頑張って欲しい。


 さて本書は数年前のベストセラーになった本である。著者はアメリカハーバード大学の政治哲学の教授で、この本は授業の内容が基になっている。副題は「今を生き延びるための哲学」。著者の授業をテレビで観て、引き込まれたことを思い出す。本書は再読であるが、前回読んだ時より、考えながら読むことができた。もしかしたら私の理解に多少の間違いがあるかもしれないが、以下は私の解釈と考えである。

 本書は「正義」がテーマで、正義とは何かが問われる。特に生きていく上で直面する問題において、何が正義であるかを、古今の哲学者の考えを参考にしながら掘り下げていく。

 著者は正義を考える上で、三つのアプローチを挙げる。三つの理念とは、幸福の最大化、自由の尊重、美徳の促進である。

 第一のアプローチは、社会全体の幸福を最大化にする方法を考えることで正義を定義化するのである。これを功利主義という。第二は、公正な社会(正義)とは、各人が良き生き方に関する自らの考え方を選ぶ自由を何よりも尊重する、とする。これをリバタニアンと呼ぶ。第三は、道徳的な観点から見て人々にふさわしいものを与えること、美徳に基づくアプローチを正義と見なす。

 第一の理念である功利主義の提唱者ベンサムは、人間は快楽を好み、苦痛を嫌うもので、社会は多くの人々が幸福になれることを基準に考えるべき、それを求めていくことが正義であると主張する。
 でもこれでは、多数決のようなもので、少数派の個人は犠牲になる危険がある。個人の権利は優先されないので。絶えず優先されるのは、多数が考える幸福である。これは非常に危険であり、私は賛成できない。これが正義だとは思えない。著者自身もそのように言っている。
 歴史的に見て、ローマの平和という時期があったが、それはローマの多数にとっては平和で幸福な時代であったかもしれないが、少数のクリスチャンはライオンの餌食となり犠牲になったのである。また共産主義的な考えもこれに近いのではないだろうか。

 次に自由を正義の基準とする第二のアプローチである。その主な提唱者はカントである。彼は何より自由を、人間の人格そのものを尊重する。功利主義のように全体の福祉(幸福)のために人間を利用するのは誤りであるとする。カントの言う自由とは人間が何でも好き勝手にし、自分の欲望を何にも妨げられずに追求するということではない。彼の言う自由とは、意志を自律的に決定している時のみ、すなわち自分が定めた法則(定言命法)に従っている時のみ、人間が真に自由であるとしている。自分に与えられている理性によって考え行動することを非常に重視する。逆に外部の力に従う場合は、人間は自由ではないとする。自由とは自律的ということであり、自律的とは自ら与えた法により統治されることと主張した。自ら与える法とは、「純粋理性」である。

 自由主義を主張するのはカントだけではなく、ロックやロールズなどもいる。ロックは「人間は誰でも自由で、平等で、独立している」とし、ロールズは正義の原理として、言論の自由や信教の自由といった基本的自由をすべての人に平等に与えることを主張している。彼らのことをまとめて大きく言えばリバタニアニズムと呼ぶ。他者の権利を侵害しない限り各人は自由であり、政府が干渉すべきでなく、個人を最大限尊重すべきであるとする。またこれが大事なのだが、カントとロールズは、何が道徳的に正しいかを決定することは人にはできない、とする。

 私はこれに賛成である。もちろん正しい道徳はあるのである。それを各人が自分の意志で決定するならば良い。自分と周りの人々で完結するなら良い。しかし、何が善であるかを政府が決めるべきではない。それは客観的ではなく、政府の主観なのである。自分で善を決め、自由に選べるようにすべきである。ただ他人の自由を奪う場合は別である。その行為は罰する必要がある。そのために法律がある。その法律を元に政府がある。だから私は個人の自由を最大限に認める、最小国家が一番良いと考える。

 第三は、美徳が正義のアプローチで重んじられる。これはアリストテレスの考えである。すなわち人間には最善の生き方があり、共通善があるという主張、だからその共通善に従って、人々とコミュニティーをもっと言えば国を治めていくのが正義であるとする。要するにコミュニティーから独立した個人などは存在しない、コミュニティーにふさわしい役割を個人が共通善を基準にして果たしていくというものだと思う。これがコミュニタリアン(共同体主義者)であり、著者の主張・立場でもある。そして意見を交換し、違いを乗り越えて公共の文化を作ろう、と呼びかける。これから「正義」の話をしよう、というわけだ。

 これでは国にとって善い人(国が提唱する善に従う人)が善人となり、国にとって悪い人(国が提唱する善に従わない人)が悪人となる。すなわち目的論的であり、個人と国の目的を決めるところからスタートしているのである。その目的に適うことが善であり、正義となっていく。目的論を私は否定しない。しかし、誰が目的を選ぶかである。それは自由で独立した個人が、自分の生きる目的(道)を選ぶべきであろう。

 著者は皆が積極的な市民生活をすれば、違いを乗り越え一致でき、相互的尊重に基づいた政治ができると論じる。私は著者は楽観的すぎるのではないかと感じてしまう。

 私はアリストテレスが言うように、共通善があるのは間違いないと思う。彼の考える善と私の考える善は違うが。しかし、やはり何が善であるかは他人の自由を奪わない限り個人が選ぶべきであると思う。国が国旗、国家、天皇制が善であるとすれば、それが善になるのは恐ろしい。それが善であると考えた人が、自分の判断で実行するのは私は良いと思う。しかし、それが善と考えない人がいるのは事実である。それにも関わらず功利主義のように全体の秩序を乱さないでくれ、これが皆の幸福になるのだと言って反対する少数派を排除するなら、またこれが変わらない普遍的な美徳なのだからということで望んでいない人々を強制するなら、それが正義だとは私には思えない。最大幸福と共通善(美徳)を正義の基準に置くなら、言論の自由が奪われ、信教の自由が奪われ、基本的人権が奪われ、人格が壊され、人間はひいては社会は間違った方向へ進み、不幸になると思う。

 これは難しい問題である。私は自由主義がすべて正しいとも思っていない。著者の主張だが、著者自身は第三の立場なのだが、本を読む限り第二の立場の論理の方が説得力があったように感じた。第三の立場を擁護する論理が弱かったのではないだろうか。今のアメリカには危うさを感じる。オバマ大統領は演説は上手いが、政治力はどうだろうか。彼はアメリカの象徴である自由を奪っているように見える。それは大統領自身が第三の立場に立っているからではないだろうか。アメリカは今、様々な意味で正念場かもしれない。

 人々の注意を引きつけ、学生たちに考えさせる授業をするのはマイケル・サンデル教授の優れた力だろう。私たち日本人もアメリカ人のように考えること、議論することが必要だと感じる。そのことによってより良いコミュニティー(共同体・文化)を作ることができるようになるのは事実だと思う。