牧師の読書日記 

読んだ本の感想を中心に書いています。

2月18日(火) 「教会論②」 ハンス・キュンク著

2014-02-18 11:40:07 | 日記

 日本では機会がなくカトリック教会に行ったことがないのだが、海外ではカトリック教会のミサ(礼拝)に参加したことが何度かある。ニュージーランドで何事も勉強・経験と思ってミサへ行ったのだが、思いがけずそのミサで非常に恵まれた。その後は、聖書学校が休暇になった時に、その教会のミサに度々参加した(10年以上前になる)。おそらくそのカトリック教会には聖霊によるカリスマ運動が入っていたと思う。賛美と聖書朗読と聖餐のハーモニーがとても素晴らしかった。今でも非常に印象に残っている。そこに「いのち」があったのである。私はそこでカトリック教会に持っていた偏見が取り除かれたと思っている。今でもカトリック教会の神学は多くの部分で間違っていると思っているのだが。でもカトリック教会に心が開かれたのである。これは不思議な体験だった。

 さて『教会論」である。まだ全部読み終わっていないが、素晴らしい本だと感じている。読んでいて心に喜びが湧き上がってくる。このような内容の本がカトリックサイドから出ていることをとても嬉しく思う。

 まず著者の終末観だが、「神の支配はイエスと共に到来したが、その完成はまだ待望されている」というものである。現代の多くの学者と同じであるといえる。私もその立場をとっている。C・H・ドッドは、現在において既に実現された徹底的終末論の立場である。要するに、終わりの時の決定的な神の支配は、もはや待たれるのではなく、すでに実現している、とするのである。しかし、著者の終末観は、未来的であると同時に現在的な終末論の立場である。イエス・キリストの到来によって神の国(神の支配)は「すでに」来たが、イエス・キリストの再臨「までは」神の国が来たとは完全な意味ではいえない、という立場である。いずれにしても終わりの時に、神にこの世から呼び集められた人々の集まりが、エクレシア(教会)である。
 神の支配の最後の勝利は教会にとってはまだ到来していない。しかし、決定的な勝利を、教会はその過去に経験している。すなわち、イエス・キリストにおける十字架と復活の勝利である。教会は、救いを経験し、終末論的救いを待望している、救いの共同体である。

 本からの引用。「一つは目に見えるもの、他は目に見えないものという二つの教会があるのではない。目に見えないものが教会の本質であり、目に見えるものだけが教会の姿なのではない。そうではなく、ただ一つの教会がその本質と姿とにおいて常に等しく目に見えるものであり、かつ目に見えないものなのである。それゆえ、信仰の対象である教会はただ一つの教会である。すなわち、目に見えるものの中の目に見えない、あるいはより正確には、目に見えるもののうちに隠された教会である。」

おのおののエクレシア(おのおのの個別的集い、個別的共同体、個別的教会)は確かにエクレシアそのもの(普遍教会、普遍共同体、普遍的集いそのもの)ではない。しかし、それはエクレシアというものを完全に現出させている。地域的エクレシアは普遍エクレシアの「一地域」もしくは「一地方」ではない。地域的エクレシアは決して本来の「教会」の一小区分ではない。普遍エクレシアだけを「教会」と呼ぶのは適切な慣例ではない。これは抽象的・観念的概念の結果である。あたかも教会がおのおのの地域に全体として現存していないかのように! あたかも地域的教会には福音の全部の約束と全部の信仰とが与えられなかったかのように! あたかも地域教会には天の父なる神の全的恩恵が恵まれなかったかのように、あたかもこの教会には全体としてのキリストが現存していなかったかのように、そしてあたかもこの教会には全体としての聖霊が授けられなかったかのように! 否、地域教会は単に教会に従属するのではない。地域的教会は教会なのである。、、、、、他方では、「普遍エクレシア」は地域的諸教会からなる「集積」あるいは「連合」ではない。」

 この文章は本当に素晴らしい。クリスチャンには教会の見方において2種類の極端に走るタイプがいる。一つ目は「見えない普遍的教会」だけを重視するクリスチャンである。このタイプの人は一つの地域教会に属することができない。信仰が抽象的で具体的でない。信仰の実体がないのである。だから具体的に目に見えるキリストにある兄弟姉妹を愛するということが分からない。聖書を読めばはっきり分かるのだが、初代のクリスチャンたちはある特定の地域にある教会に属していた。それはエルサレム教会であり、アンテオケ教会であり、コリントの教会などである。そこで実際的に具体的に神を愛し、目に見える人々を愛していたのである。このタイプは良く言えば視野が広いのだが、悪く言えば自分の足元が見えていない。
 二つ目は「目に見える地域教会」だけを重視するクリスチャンである。地域教会の問題だけを見て、教会はダメであると判断し、教会の偉大さ、神が教会に持っておられる計画などに気づくことができない人々である。要するに地域教会を軽視するのである。それは同時に神ご自身をも軽視することであることに気づかないのである。また一方で、自分の教会のことだけしか考えられなくなる人々もいる。他の教会のことはどうでもいいのである。このタイプは良く言えば足元が見えているのだが、悪く言えば足元ばかりを見ていて視野が狭くなり全体が見えなくなっている。

 もちろん地域教会には問題がある。人間の集まりだから仕方がない面がある。しかし、「教会」についての真理はどこにあるか。正しい教会神学は何か。ハンス・キュンク師が書いている上の文章は私たちに健全な教会神学を提供している。地方教会はどんなに小さく人数が少なくみすぼらしく見えても、イエス・キリストを救い主と信じる正しい信仰を持っている限りにおいて、三位一体の神がその地域教会にご臨在されているという真理である!
 「目に見えない(全世界をおおう)イエス・キリストの教会」がある。「目に見えるそれぞれの地域に置かれている地方教会」がある。しかし、二つの教会があるのではなく、一つの教会があるだけで、教会は一つである、ということだ。