半ば無意味に続けていると思われるもう一個のブログの訪問履歴を辿っていると、非常に興味深いエントリがありました。
社説【麻原被告 刑法第三十九条が拠り所】(opinion)
麻原彰晃の精神鑑定を問題にしたもので、刑法39条の責任能力について考察されています(なお、麻原精神鑑定で問題になっていたのは責任能力ではなく、訴訟能力ですけれど)。
ということで、責任無能力について少し考えてみました。
ちなみに、似て異なる刑罰の発生根拠については以下の応報刑というもので既に自分なりの考えを示していますが、今回の話とはあまりというか全く関係ありません(被害者の人権と加害者の人権を問題にされていますので、それでちょっと関係する程度です)。
なら出すな。
まあ、どうでもいいことはひとまずさておくこととしまして。
この分野で昔から同じような議論が続いているのは、一重に犯人と刑罰の関係という部分において相違、混乱があるからだと思います。
何に相違があり、混乱があるかというと、
①.犯人に対して刑罰が下される という考え方と
②.(犯人の)行為に対して刑罰が下される という考え方においてです。
刑法理論などは②を基調にしていますが、一般的な見方は①の上になりたっているのではないかと私は思います。
で、①と②は一見して分かりにくいですが、責任無能力などの状態を説明する際には区別がはっきりします。
つまり、責任無能力により無罪とされる場合…
①では、犯人の責任能力に問題があるのでそもそも刑罰自体が成立しないということです。ありていに言えば、Aさんが殺された場合に、犯人Bが心神喪失だったとすれば、Aさんが殺されたという事実は処罰の対象にならないということです。
②では犯罪行為自体は処断されるべきものであり、刑罰権は発生するのですが、それを犯人に結びつける段階で責任無能力が障壁になり、具体的に犯人に刑罰を課すことはできない、ということです。つまり、Aさんを殺したという事実は処罰の対象であるのですが、それを具体的にBに刑という形で課す段階で心神喪失が出てくる、Bは刑罰を課すに不適当だということになるわけです。
よく、責任能力のない人間に殺されれば被害者の存在は全く顧みられないことになって不当だという批判がありますが、②に立つ限り、それは必ずしも正しいとはいえないわけですね。
ついでに言うと、②の場合はいわゆる「罪を憎んで人を憎まず」という立場に通じるものですから、例えば死刑廃止論者などはこういう見解を採ることが多いのではと思います。
当然、「何が罪を憎んで人を憎まずだ。そんな馬鹿なことがあってたまるかい」ということで、感情的な厳刑論者(死刑存置論者含む)は、①に拠りたい、と思われるのではないかと思います。「あんな凶悪な奴は死んで当たり前だ」という簡明な理屈などですね。
ただし、現実として考えると、①は明らかに不適当です。
というのも、①の場合は犯人自身に刑が直接かかってくる分、犯罪行為とは関係のない犯人自身の要素で刑罰の内容が変わる可能性があるからです。
もちろん、例えば松本智頭夫や宮崎勤などが仮に土下座して謝ったとしても、彼らの死刑が覆るようなことには中々ならないでしょうけれど、微妙なラインにいる被告人などについて土下座して謝ったことで刑が軽くなるということがありえます。
CDという2人を殺害したEが法廷で心底改悛しているような態度を見せ、土下座して謝罪し、「こいつがここまでやっているのなら」と結果的に無期懲役になったとします。
この場合、CDが殺されたという事実はかえって無視されることになると思いませんか?
そもそも、「あんな凶悪な奴死んで当然だ」という論理自体、被害者不在ですね。
②の場合、あくまで刑罰の対象となるのは「CDを殺した」という行為ですので、そういう意味では被害者ありきの見方といえます。
もちろん、この場合も犯人の態度によって刑罰の軽重が変わってくるのは間違いありませんが、それは刑罰から直接来るものではなく、刑事政策という別の裁量によってかかるものとなります。
行為から刑罰権が発生し、その刑罰権に基づいた刑罰を犯人に課するという二段階のプロセスを踏まえる②においては、犯人が刑罰を課されなければならないかなどを検討するだけの実益があり、当然責任無能力のような考え方が生まれたとしても不思議はありません。
是非の判断ができる状況で犯罪行為をした、これは赦されざることであるというのは普通に成り立つ理屈です。となると、是非の判断ができない状況で犯罪行為をした場合、判断能力が制限された状態で犯罪をした、これは非難しがたいことであるという逆の理屈も成り立つでしょうから。
説明がやや下手ではありますが、とにかく犯人そのものに刑罰が下るのではなく、本質的に刑罰は犯罪行為について発生し、その刑罰が具体的な犯人に下されるということを考えれば、ある程度責任能力とか冤罪理論とかも理解できるのではないでしょうか。
ただし、責任能力の判断基準については現状のやり方にはかなり問題があると思います。そのあたり、心の闇で一応触れたりしたのですが…
鑑定結果がまちまちになるようなものを基準に定められた場合、裁判が不安定となり一般人の裁判不信が強まります。また裁判官が一般感情に配慮して恣意的な判断を下す可能性もあり(凶悪犯について心神喪失、正常という意見が出ていた場合に中々「心神喪失でこいつは無罪」といえる裁判官はいないはず)、逆に被告人にとっても不利となる場合があります。
ですから、責任無能力は再現可能かそれに極めて近い状況、若しくは一見して明らかに異常が認められる場合(誰かの支えがなければ自発的に生命維持ができないような意思のない状況…そういう点では公判中以外の行動を捉えた麻原鑑定には賛成)など、そう考えたとしても合理的である場合に限るべきではないでしょうか。
社説【麻原被告 刑法第三十九条が拠り所】(opinion)
麻原彰晃の精神鑑定を問題にしたもので、刑法39条の責任能力について考察されています(なお、麻原精神鑑定で問題になっていたのは責任能力ではなく、訴訟能力ですけれど)。
ということで、責任無能力について少し考えてみました。
ちなみに、似て異なる刑罰の発生根拠については以下の応報刑というもので既に自分なりの考えを示していますが、今回の話とはあまりというか全く関係ありません(被害者の人権と加害者の人権を問題にされていますので、それでちょっと関係する程度です)。
なら出すな。
まあ、どうでもいいことはひとまずさておくこととしまして。
この分野で昔から同じような議論が続いているのは、一重に犯人と刑罰の関係という部分において相違、混乱があるからだと思います。
何に相違があり、混乱があるかというと、
①.犯人に対して刑罰が下される という考え方と
②.(犯人の)行為に対して刑罰が下される という考え方においてです。
刑法理論などは②を基調にしていますが、一般的な見方は①の上になりたっているのではないかと私は思います。
で、①と②は一見して分かりにくいですが、責任無能力などの状態を説明する際には区別がはっきりします。
つまり、責任無能力により無罪とされる場合…
①では、犯人の責任能力に問題があるのでそもそも刑罰自体が成立しないということです。ありていに言えば、Aさんが殺された場合に、犯人Bが心神喪失だったとすれば、Aさんが殺されたという事実は処罰の対象にならないということです。
②では犯罪行為自体は処断されるべきものであり、刑罰権は発生するのですが、それを犯人に結びつける段階で責任無能力が障壁になり、具体的に犯人に刑罰を課すことはできない、ということです。つまり、Aさんを殺したという事実は処罰の対象であるのですが、それを具体的にBに刑という形で課す段階で心神喪失が出てくる、Bは刑罰を課すに不適当だということになるわけです。
よく、責任能力のない人間に殺されれば被害者の存在は全く顧みられないことになって不当だという批判がありますが、②に立つ限り、それは必ずしも正しいとはいえないわけですね。
ついでに言うと、②の場合はいわゆる「罪を憎んで人を憎まず」という立場に通じるものですから、例えば死刑廃止論者などはこういう見解を採ることが多いのではと思います。
当然、「何が罪を憎んで人を憎まずだ。そんな馬鹿なことがあってたまるかい」ということで、感情的な厳刑論者(死刑存置論者含む)は、①に拠りたい、と思われるのではないかと思います。「あんな凶悪な奴は死んで当たり前だ」という簡明な理屈などですね。
ただし、現実として考えると、①は明らかに不適当です。
というのも、①の場合は犯人自身に刑が直接かかってくる分、犯罪行為とは関係のない犯人自身の要素で刑罰の内容が変わる可能性があるからです。
もちろん、例えば松本智頭夫や宮崎勤などが仮に土下座して謝ったとしても、彼らの死刑が覆るようなことには中々ならないでしょうけれど、微妙なラインにいる被告人などについて土下座して謝ったことで刑が軽くなるということがありえます。
CDという2人を殺害したEが法廷で心底改悛しているような態度を見せ、土下座して謝罪し、「こいつがここまでやっているのなら」と結果的に無期懲役になったとします。
この場合、CDが殺されたという事実はかえって無視されることになると思いませんか?
そもそも、「あんな凶悪な奴死んで当然だ」という論理自体、被害者不在ですね。
②の場合、あくまで刑罰の対象となるのは「CDを殺した」という行為ですので、そういう意味では被害者ありきの見方といえます。
もちろん、この場合も犯人の態度によって刑罰の軽重が変わってくるのは間違いありませんが、それは刑罰から直接来るものではなく、刑事政策という別の裁量によってかかるものとなります。
行為から刑罰権が発生し、その刑罰権に基づいた刑罰を犯人に課するという二段階のプロセスを踏まえる②においては、犯人が刑罰を課されなければならないかなどを検討するだけの実益があり、当然責任無能力のような考え方が生まれたとしても不思議はありません。
是非の判断ができる状況で犯罪行為をした、これは赦されざることであるというのは普通に成り立つ理屈です。となると、是非の判断ができない状況で犯罪行為をした場合、判断能力が制限された状態で犯罪をした、これは非難しがたいことであるという逆の理屈も成り立つでしょうから。
説明がやや下手ではありますが、とにかく犯人そのものに刑罰が下るのではなく、本質的に刑罰は犯罪行為について発生し、その刑罰が具体的な犯人に下されるということを考えれば、ある程度責任能力とか冤罪理論とかも理解できるのではないでしょうか。
ただし、責任能力の判断基準については現状のやり方にはかなり問題があると思います。そのあたり、心の闇で一応触れたりしたのですが…
鑑定結果がまちまちになるようなものを基準に定められた場合、裁判が不安定となり一般人の裁判不信が強まります。また裁判官が一般感情に配慮して恣意的な判断を下す可能性もあり(凶悪犯について心神喪失、正常という意見が出ていた場合に中々「心神喪失でこいつは無罪」といえる裁判官はいないはず)、逆に被告人にとっても不利となる場合があります。
ですから、責任無能力は再現可能かそれに極めて近い状況、若しくは一見して明らかに異常が認められる場合(誰かの支えがなければ自発的に生命維持ができないような意思のない状況…そういう点では公判中以外の行動を捉えた麻原鑑定には賛成)など、そう考えたとしても合理的である場合に限るべきではないでしょうか。
私も専門家の類ではなく、単に興味がある程度です。
結論としては、鑑定結果がまちまちになるようでは裁判不信を招くので、明確な基準のもとでなされるべきということです。鑑定自体は積極的に行ってもいいとは思いますが、錯綜するような状態を基準にすることには慎重です。
リンクについては歓迎ですが、取り扱うものについてかなり移り気なのでそのあたりはご容赦ください。
>ゼシカ様
カリフォルニアの事件…
ノーベル賞受賞候補者になった何とか(…)・ウィリアムス死刑囚のことでしょうか…でないなら、ちょっと分かりません(苦笑)
現在の麻原については、訴訟で自分の権利(有利な事実)を主張できる状態にないということが問題になっているのだと思います。何も理解できないのなら、検察が「こいつは何をした」というのに対して何の反応もないということで公判にならないということになりますので。
ですから、判決後の更生を問題にしたウィリアムス死刑囚とはやや違うことになるのかと思います…
裁くのは事件当時の状態であって現状では情状酌量の判断できないとか。
麻原はあれはフリしてるだけなのか統合失調症なのかわかりませんけど、あのサリン事件はカルフォニアを参考にしてもいいと思うんですが・・・( ̄ω ̄;)
論議つづくんでしょうねー
結論からすると、「鑑定結果が新たな事実をつくるから、明確な異常でない限り鑑定は慎重にすべきだ」ということでしょうか。何度か読ませてもらって、自分のエントリーには追記したいです。今後も参考にさせてもらうかもしれません。リンク設定させてもらいますが、ご迷惑でしたらご一報ください。