18日に1日遅れで宮崎勤の死刑確定についてエントリしました。で、TBされたのですが、その中に新聞記事だったのですけど例の「心の闇」という文句が出てきたわけです。
今日も話はライブドアと牛肉偽装が中心で、その話を繰り返しするのも芸がない。
ということで、このあたりの話でもしようかなと思います。
最初のエントリでも触れましたけど、そもそも心の中なんて絶対に解明できないと私は思うんですね。心の闇なんて言う人達は多いですけど、では自分達の心の中がどういう風になっているのか分かっているのか、と逆に問いかけたいです。
まぁ、例えばもう9時を過ぎていますから、例えば貴方は今日の夕食の献立をどうしてそういうものにして、どうしてそうしようかと思ったのか。その心の動きを全部説明できたりします? 金がないから100円のカップ麺にした? とはいえ、カップ麺にも幾つかあるわけですから、どうして貴方はその種類のカップ麺を選んだの? きつねうどんにした? ただ、天そばも何種類かあるはずですが、何故多くの中からその種類を選んだわけとか突き詰めればきりがありません。で、それを全部きちんと答えられる人はまずいないと思います。
自分のことですらそうであるのですから、他人のことなど分かるはずもありません。それを分かろうというのは自分達が何でもできる、当然犯人の心理くらい分かるはずだという傲慢に至っているのではないかという気にもなりまし、変に分かった気になるとあとで痛い目に遭う場合もあると思います。
いや、もちろん傾向を知るのは大切だと思いますよ。実際、ある程度似た統計などは出ているそうですし。
ただ、彼が何を考えてどうしようとしていたかなんて、当の本人でも完全に分かるわけないのですから、そこをとことんまで突き詰めようとするのは正直無意味な完ぺき主義としか思えません。
結局、心の闇は解明できるものではないのであり(証拠に関わることなどなら別として、動機などの場合に当人が何か言ったその発言が真実だという保証がどこにあるのか?)、それは重大事件の解明の鍵になりそうなことではあるものの、諦めるしかないものだと思います。たとえがちょっと違いますけど、最近日本政府が諦めた地震予知と似たようなものでしょうかね。予知できれば確かにいいですけど、実際問題としてそれはできないということで、結局起きた時に被害を最小限にすることを考えるべきであると。
なるほど、確かに心理状態を突き詰めないと責任能力について分からないという側面はありまそうですね。
しかし、心理状態=責任能力と捉えるべきか、私は実は疑問です。
何故なら、その責任能力に関する鑑定結果がまちまちだからです。
これらは全部、その筋の権威が行ったことであるはずですが、それが食い違うというのはどうしたことか。極端なことを言いますが、彼らは「何となく思った印象をただ言っているだけ」なんではないかとすら思えます。個人的信念と経験に照らし合わせてただ言っているだけ。合理的に信用できるのかと言われれば甚だ疑問です。
これが脳の形などを調べた結果、常人と比べて明らかに形が違うなどが立証されれば、もちろんそれは誰にでも分かることで考慮の余地があるでしょう。また、形などの分かり易い部分に裁量が働く(どの程度の違いを極端に違う形として認識するかの基準など。例えば一部肥大などでも違うとするか、全体が極端に違わないとダメか)のであれば、それは妥当不当は別にしまして、それなりに説得力もあろうかと思います。
が、しかし犯人の心理状態などはそんなもの誰かに分かるものでもない。どこかで擬制しなければならないものなんだと思います。とことんまで迫ろうというのは前述しましたように、時間の無駄であり、傲慢と無知のもたらすものではないかと思います。
ま、ですから、分かるものでもないということを踏まえて、究極的に「人が人を裁くことは無理だ」という理屈に到達するのはある意味仕方ないのですが、現実として裁く以上はそんなことは言っていられない。
責任能力という概念自体は必要だと思います。それがなければ極論すれば殺人と過失致死すら分けることができなくなってしまいますので。
しかしながら、責任能力の判断が曖昧で裁判官以外にはその判断基準が分からないというのは刑事法秩序を根本的に揺り動かす危険な事態であると思います。以前のエントリでも言いましたが、犯人が犯罪をする時にどう処罰されるか明快に分かってこそ抑止力になるわけです。明快に分からないのであれば抑止力にはならないでしょうし、曖昧な上に抑止力としても不安定であれば刑法・刑事訴訟法を取り巻く法秩序自体が信用を失います。
責任無能力で不処罰になることで「何であんな犯罪をして処罰されないんだ」と信用を失うという意味ではありません。明快に分かる事例であれば、一般感情として不当でも責任無能力にすることは仕方ないでしょう。問題なのは明快に分からないことにあるのです。
また、宮崎勤死刑囚については三つの鑑定結果が全て違うものになりましたが、これでは裁判官はどれが正しいのかなど分かるはずもありません。その結果、国民の敵になりたくないということで死刑にせざるをえなくなった部分もあるでしょう。はっきり言うと責任能力が曖昧なことは被告人をも不利にしているといえます。
近いうちに裁判員制度が導入されます。裁判官も精神鑑定などの分野では素人ですが、裁判員は99%それ以上の素人でしょう。
としますと、尚のこと責任能力については明快にすべきでしょう。
そうでないと、法を取り巻く側は分からずに不満を抱き、犯人も裁く側の混乱で結果的に重くなる場合などに不満を抱くわけですから。
明確に分かる場合(その基準自体は判断の積み重ねで解決すべきでしょうが)を除くと、再現できる場合(以前書いたように、何かの刺激物に反応するなど犯人の特殊な状態が忠実に再現できる場合:これもまたどの程度まで忠実に再現できるかは判断の積み重ねによって解決すべき)に限るべきではないでしょうか。
ネタがないから、何か適当に選び、今度は大々的に風呂敷を広げてさあ大変、という私が後で一番「わあわあ」言う典型的エントリでした…(苦笑)
この手のエントリはどこかしら変なところがあるので、見る度に修正されていますが、あまり気にしないでください(笑)
今日も話はライブドアと牛肉偽装が中心で、その話を繰り返しするのも芸がない。
ということで、このあたりの話でもしようかなと思います。
最初のエントリでも触れましたけど、そもそも心の中なんて絶対に解明できないと私は思うんですね。心の闇なんて言う人達は多いですけど、では自分達の心の中がどういう風になっているのか分かっているのか、と逆に問いかけたいです。
まぁ、例えばもう9時を過ぎていますから、例えば貴方は今日の夕食の献立をどうしてそういうものにして、どうしてそうしようかと思ったのか。その心の動きを全部説明できたりします? 金がないから100円のカップ麺にした? とはいえ、カップ麺にも幾つかあるわけですから、どうして貴方はその種類のカップ麺を選んだの? きつねうどんにした? ただ、天そばも何種類かあるはずですが、何故多くの中からその種類を選んだわけとか突き詰めればきりがありません。で、それを全部きちんと答えられる人はまずいないと思います。
自分のことですらそうであるのですから、他人のことなど分かるはずもありません。それを分かろうというのは自分達が何でもできる、当然犯人の心理くらい分かるはずだという傲慢に至っているのではないかという気にもなりまし、変に分かった気になるとあとで痛い目に遭う場合もあると思います。
いや、もちろん傾向を知るのは大切だと思いますよ。実際、ある程度似た統計などは出ているそうですし。
ただ、彼が何を考えてどうしようとしていたかなんて、当の本人でも完全に分かるわけないのですから、そこをとことんまで突き詰めようとするのは正直無意味な完ぺき主義としか思えません。
結局、心の闇は解明できるものではないのであり(証拠に関わることなどなら別として、動機などの場合に当人が何か言ったその発言が真実だという保証がどこにあるのか?)、それは重大事件の解明の鍵になりそうなことではあるものの、諦めるしかないものだと思います。たとえがちょっと違いますけど、最近日本政府が諦めた地震予知と似たようなものでしょうかね。予知できれば確かにいいですけど、実際問題としてそれはできないということで、結局起きた時に被害を最小限にすることを考えるべきであると。
なるほど、確かに心理状態を突き詰めないと責任能力について分からないという側面はありまそうですね。
しかし、心理状態=責任能力と捉えるべきか、私は実は疑問です。
何故なら、その責任能力に関する鑑定結果がまちまちだからです。
これらは全部、その筋の権威が行ったことであるはずですが、それが食い違うというのはどうしたことか。極端なことを言いますが、彼らは「何となく思った印象をただ言っているだけ」なんではないかとすら思えます。個人的信念と経験に照らし合わせてただ言っているだけ。合理的に信用できるのかと言われれば甚だ疑問です。
これが脳の形などを調べた結果、常人と比べて明らかに形が違うなどが立証されれば、もちろんそれは誰にでも分かることで考慮の余地があるでしょう。また、形などの分かり易い部分に裁量が働く(どの程度の違いを極端に違う形として認識するかの基準など。例えば一部肥大などでも違うとするか、全体が極端に違わないとダメか)のであれば、それは妥当不当は別にしまして、それなりに説得力もあろうかと思います。
が、しかし犯人の心理状態などはそんなもの誰かに分かるものでもない。どこかで擬制しなければならないものなんだと思います。とことんまで迫ろうというのは前述しましたように、時間の無駄であり、傲慢と無知のもたらすものではないかと思います。
ま、ですから、分かるものでもないということを踏まえて、究極的に「人が人を裁くことは無理だ」という理屈に到達するのはある意味仕方ないのですが、現実として裁く以上はそんなことは言っていられない。
責任能力という概念自体は必要だと思います。それがなければ極論すれば殺人と過失致死すら分けることができなくなってしまいますので。
しかしながら、責任能力の判断が曖昧で裁判官以外にはその判断基準が分からないというのは刑事法秩序を根本的に揺り動かす危険な事態であると思います。以前のエントリでも言いましたが、犯人が犯罪をする時にどう処罰されるか明快に分かってこそ抑止力になるわけです。明快に分からないのであれば抑止力にはならないでしょうし、曖昧な上に抑止力としても不安定であれば刑法・刑事訴訟法を取り巻く法秩序自体が信用を失います。
責任無能力で不処罰になることで「何であんな犯罪をして処罰されないんだ」と信用を失うという意味ではありません。明快に分かる事例であれば、一般感情として不当でも責任無能力にすることは仕方ないでしょう。問題なのは明快に分からないことにあるのです。
また、宮崎勤死刑囚については三つの鑑定結果が全て違うものになりましたが、これでは裁判官はどれが正しいのかなど分かるはずもありません。その結果、国民の敵になりたくないということで死刑にせざるをえなくなった部分もあるでしょう。はっきり言うと責任能力が曖昧なことは被告人をも不利にしているといえます。
近いうちに裁判員制度が導入されます。裁判官も精神鑑定などの分野では素人ですが、裁判員は99%それ以上の素人でしょう。
としますと、尚のこと責任能力については明快にすべきでしょう。
そうでないと、法を取り巻く側は分からずに不満を抱き、犯人も裁く側の混乱で結果的に重くなる場合などに不満を抱くわけですから。
明確に分かる場合(その基準自体は判断の積み重ねで解決すべきでしょうが)を除くと、再現できる場合(以前書いたように、何かの刺激物に反応するなど犯人の特殊な状態が忠実に再現できる場合:これもまたどの程度まで忠実に再現できるかは判断の積み重ねによって解決すべき)に限るべきではないでしょうか。
ネタがないから、何か適当に選び、今度は大々的に風呂敷を広げてさあ大変、という私が後で一番「わあわあ」言う典型的エントリでした…(苦笑)
この手のエントリはどこかしら変なところがあるので、見る度に修正されていますが、あまり気にしないでください(笑)
こちらのエントリを読ませていただいて、色々考えさせられました。私の書いた文章など稚拙な内容でとても恥ずかしいので、あえてTBはしません。
ただ私もやはり犯罪を犯した者にも人権はあると思いますので、「裁判なしに即刻死刑せよ」などという乱暴な意見には同意できませんし、「精神障害者の偏見を助長するからこういう奴は死刑なんだ」と言ったわけではありませんので、そこらへんはご了承下さい。
ある種の問題提起になれば私としてもない知恵を絞っただけの甲斐がありました。私のもまとまりのない文章でおまけに誤字脱字も多くて恐縮する限りです。
犯罪者と人権については、前のエントリでも書いたのですが、これまた複合的な要素があると思います。単純に犯人vs被害者みたいな構図で捕らえてしまうことについては、正直賛成できません(だから何でも認めろというわけでもないですが)。
元々、意見が近いかなと思ってTBしましたので、特に誤解はないかと思います。