都が移ってからは、そのままになって、あとは田んぼに。
記録として残っている調査は、江戸期。その後、明治になって研究家の調査が新聞に。
保存運動は、大正から始まり、本格的な発掘調査は戦後。調査によって、当初の推定よりも大規模だと。
それが広がって、近鉄電車の車庫やバイパス道路の計画変更・・・
それで、こんなに広いんだ。
それにしても、印象深いのは、明治33年の元旦の新聞記事。
現地を調査していて、現地の農夫の聞き取りで、昔から「大黒の芝」と呼ばれていた、田んぼの中の、少し小高くなっている芝地。
ここが、どうやら大極殿跡地ではないか、というところから発掘調査に至ったと。
「だいこく」という言葉のみが、口伝で残ったことが決め手とは。
千年以上だからね。口伝おそるべし。