ペキニーズGG日記

ビッキーとチャッピーのコミカルな日常

第4部:大阪へ・・・その2(仕事を決めて)

2007年11月30日 00時06分15秒 | 日々反省の日記
大阪での面接から数日経っても返事が来ないので待ちきれずに
こちらから電話してみると『とりあえず、今月からでも来てください』との返事でした。
少し不安を感じる答え方だったのですが、『とりあえず採用って事かな』と思い
大阪行きの準備を始めました。

(あとで分かった事ですが、仕事が決まったショップでは、
 その時期に新しい採用予定は無かった様なのです)

それまで働いていた会社を正式に退職して所有していたGPz750は、
購入先のバイク屋に預かってもらえることになりました。

出発の前日から、トランポに改造した1BOXカーにレース用のマシン(AR125)と
生活に必要なものを詰め込み大阪へ向かう準備を進めていました。

そしていよいよ出発の日、何故か母親より寂しげな父親の姿が印象的でした。

両親に別れを告げて走り出す車のルームミラーに写る二人の姿、
さすがに胸にぐっとくるものがありましたが、すぐに大阪での新しい生活に期待を
膨らませ大阪へと車を走らせました。

ただ、家を出る数日前から子猫を飼い始めていたのが
少し気がかりになっていたのを憶えているのですが・・・

私が大阪に出て数日後に車に轢かれて死んでしまったそうです。

子猫の名前に私の名前から一文字とってつけていたので、
母親が慌てて電話してきた事を憶えています。
私の身を案じての電話でした。

大阪へは一般道を走って約500キロありましたので10時間近くかかり
その上、道路MAPを頼りに初めての道程でしたので大阪に着いてからも
ショップまでかなり時間がかかりました。

なんとか翌日の朝にはショップに到着して社長に挨拶に

いよいよ大阪での生活の始まりです。

つづく
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第4部:大阪へ・・・その1(憧れを現実に)

2007年11月28日 00時20分36秒 | 日々反省の日記
元々、チャンスがあれば田舎をでて上京(大阪だったので上阪?)したい
という気持ちがあったのですが、なかなかきっかけがありませんでした。

22歳を過ぎた頃、高校時代の友人が大阪へ出て行きました。
同じ頃、弟も高校を卒業して大阪へ就職のため出ていきました。

そんな事が重なり、私の大阪への気持ちも益々強くなっていったのです。

そしてレースを始めていた私の思いは、鈴鹿へも向いていました。
後で気が付いたのですが鈴鹿は大阪より名古屋の方が近かったのですが・・・

この頃、鈴鹿サーキットでノービスの夏の祭典で4時間耐久レースが
有名になってきていました。

83年の4時間耐久で優勝したモリワキレーシングの宮城選手と福本選手、
特に宮城選手はスーパーノービスと騒がれた新人でした。

その記事を読んだ頃から私の気持ちは大阪へ行く事を決めていました。

先ず、職探しから始めなければなりませんでした。

当時は、今のようにパソコンで職が探せるような時代ではありませんでしたので
最初はバイク雑誌を調べて人員募集しているところを探し
片っ端から応募したのです。

何軒か返信のあった中で2件ほど面接してもらえるところが決まり
大阪と神戸へそれぞれ面接に行く事になりました。

新幹線に乗り、神戸そして大阪へと一人で出て行くのも初めての事で
期待と不安でいっぱいでしたが、既に決めた自分の気持ちを抑えることは
できませんでした。

神戸での面接は甲子園球場の近くでした。
ここの面接は、結果を待たずこちらから辞退しました。
その理由は、レースで怪我をしたらすぐに解雇と言われ
「これは無理だな」という考えからでした。

大阪での面接は、河内方面にあるショップでした。

面接を終えて田舎に戻り結果を待つ事、数日

連絡がきません・・・

つづく
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第3部:再び2輪へ・・・その6(初レース決勝)

2007年11月26日 20時34分03秒 | 日々反省の日記
前回の続きで、いよいよ初レースの決勝。
クラスはプロダクション125クラスでマシンはカワサキAR125でした。

このクラスでの主力マシンはヤマハのRZ125だったのですが、
カワサキマニアだった私のマシンは当然カワサキ車でした。

性能的な差は、ほとんど無いに等しいと思われるので
あとは乗り手の腕次第のレースです。
もちろん多少のセッティング能力の差はありましたが・・・

この当時のスタートは押しがけスタートといって
1週のウォーミングアップ走行の後、スターティンググリッドに着くと
一旦エンジンを停止させてスタートの合図と同時にマシンを押し
エンジンをかけながらマシンに飛び乗る形式でした。

そして決勝スタート!
合図とともにマシンを押し出す。
以外に簡単にエンジンがかかると同時にマシンに飛び乗り
第一コーナーを目指す。

第一コーナーにはトップで飛び込めた!
初めてのレースで駆け引きは全くわからない。

レース当日までに数回、ここのサーキット(西日本サーキット)は練習走行を
経験していたものの実戦は初めてである。

この日、同行したピットクルー2名も必死でサポートしてくれているはずなのに
ピットサインすらまともに見れていない。

周回は順調にこなされていくなか残り1周までは、トップを維持しながら
最終ラップにはいる。

最終ラップ裏の直線、ストレートの伸びが落ちてきている。

水温を上げる為、ラジエーターに少しカバーをしていたのだが、
水温が上がり過ぎエンジンが熱ダレしてきたのだ。

まだ3月の寒い時期で水温が上がり難かった為の対応策が少し甘かったようだ。

それまであった2位との差がみるみるなくなってくる。

最終コーナーの一つ手前のヘアピンコーナーを立ち上がる頃には
抜かれてしまった。

最終コーナーの飛び込みで追いつこうとしたものの限界でした。

結局、2位でゴール!

それでも不思議と悔しさはありませんでした。
むしろ初レースで2位の結果と達成感で満足すらしていました。

しかしピットクルーの二人は、無茶苦茶悔しがっていましたが・・・

おそらく2位の成績に甘んじる私の性格は、今後の私の人生にも
影響を与える事などこの時は、知る由もありませんでしたが・・・

まあ、それでも初めてのレースに初めての表彰台、そしてトロフィー。

25年前のトロフィーは今も押入れの中に残っています。

次回からは、レースをきっかけに田舎を離れ大阪に出て行き
鈴鹿を走るまでを書いていこうと思います。

つづく
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第3部:再び2輪へ・・・その5(初レース)

2007年11月25日 22時12分32秒 | 日々反省の日記
レースに参戦する為には、ライセンスの所得とチームは必須です。

私は所属したチームが自宅より30分以上かかる程、離れていた為に
チームの人にあまりアドバイスしてもらう事もできず、
こつこつと自分で全て調べて準備を進めていました。

レースに参戦する為のレギュレーションブックを自分で読んでマシン(AR125)の
改造やチームヘルパーのライセンスの手配も自分でしていました。
(改造といっても市販車クラスなので保安部品を取外しゼッケンをつける程度)

ところがレース当日、レースに出走する前に受ける車検で私のマシンが
レギュレーションを満たしていない事が判明して車検落ち。

レギュレーションブックを読んで自分なりに理解して実施したつもりでしたが、
やはり素人判断で間違った解釈をしていたのです。

それは、ミッションオイルのドレンボルトにワイヤーロックができていなかった事です。

このワイヤーロックはボルトの頭に穴をあけて針金を通して固定するのですが
私のマシンは元々、市販車を改造したものでボルトに針金を通す穴が無い。

穴を加工をする工具も持っていなかった・・・絶体絶命。

サーキットの近場で加工が出来る所がないかと思い、車で探しにでたのですが、
当日は日曜日でほとんどの工場や店も休みで、なかなか見つからない・・・

諦めて一度、サーキットへ戻り同じチームの先輩に相談することにしたのですが、
先輩は何処からか工具を借りてきてくれました。

最初から聞いておけばこんな苦労をしなくて済んだのに、
それだけチームメイトとの関わりが薄かったということでしょう。

なんとかワイヤーロックも無事完了して再車検にも無事パスすることができました。

予選も無事に通過、といっても予選落ちするほどの出走台数もいなかったので
決勝のグリッド位置を決める為のものでしたが・・・

予選落ちもなかったせいか、あまり予選の事は憶えていません。

それに、このレースに沢井は参加していませんでした。

ただ、決勝については、鮮明に憶えています。
何せ私の初レースでしたし、トロフィーも残っていますので。

その辺は次回に

つづく
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第3部:再び2輪へ・・・その4(峠からサーキットへ)

2007年11月23日 15時21分05秒 | 日々反省の日記
実際に峠での走りに目覚めてからサーキットを走り出すまでは、
かなりの時間がありました。

しばらくは、峠を走ることに夢中になっていましたので。
それまでは、どちらかというとバイクで走ることが楽しくて、テクニックだとかセッティングだとか
全く気にしていませんでしたが、RZ250で峠を走り始めた頃から少しづつ
バイクを改造し始めていました。

最初は、タイヤをダンロップのTT100に換えてバックステップを自作して取り付け、
ハンドルをスワローハンドルに交換してと・・・
そして個性を出す為にアンダーカウルを取り付ける際に塗装を自分で施しました。

あとはテクニックを磨く為に暇をみつけては峠に繰り出していました。

ただ、この当時は大型バイクにも興味を持ち始めていて限定解除の試験にも
挑戦し始めていましたのでサーキットを走り始めるのには、まだ少し先の話でした。

限定解除の試験に何度か通っているうちに親しくなったバイク仲間の人に
県内にあるサーキットの情報や場所を教えてもらい (サーキットは試験場からは
 比較的近場になるのですが自宅からは相当遠方に位置していました)
そして次のレースの開催日もわかった事で早速、見に行く事にしました。

レース当日は、初めて見るサーキットに大興奮!

それに以前、峠で私が負けた奴(ここで仮名を沢井とします)が、出走するとの事。
プロダクション125クラスでしたが、当時は黒一色の皮ツナギが
一般的なレーシングスーツの時代に沢井は青いレーシングスーツ。
(あとで聞いた話ですが、布スーツに皮パッドがついただけのスーツで
 本来は禁止のものだったそうです)
スーツだけでも目立っているのに沢井はスタートから他を圧倒してブッチギリの優勝。
ポールtoウィンでした。

格好良過ぎでした。
おまけにそのクラスのコースレコード保持者。
私のサーキットへの気持ちは、ますます強くなったのは言うまでもありません。
(というより沢井への対抗心が強くなったと言う方が正しいかもしれません)

そして限定解除も受かりカワサキのGPZ750を購入し大型バイクを手に入れると
いよいよサーキットを走る為の準備にはいりました。

先ずRZ250を弟に安く買い取ってもらい、その資金と手持ち資金を合わせて
カワサキのAR125というバイクを購入。

サーキットを走る為のマシンですが、最初はプロダクションクラスから始める事にしたのです。
もちろん沢井の走るプロダクション125クラスに目標を置いたのは周知の通りです。

同時にライセンスの所得にチームへの加入。
チームは沢井も所属するブルーウィング(仮名)にはいりました。
(私の地元にはレース活動をしているチームが無かったので少し遠方でしたが)
ただ、形だけのチーム加入でしたのでヘルパーの準備も自分で全てやっていたのですが、
これが後に初レース初日に大きな問題を抱える事になるのですが、その辺りは次回に。

つづく
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第3部:再び2輪へ・・・その3(峠へ)

2007年11月12日 23時59分23秒 | 日々反省の日記
仲間とツーリングの帰り道に走った峠道は「八代峠」と呼ばれるところで冬場には
鶴が飛来することでも有名な場所です。

その翌週には、早速一人で走りにでかけました。

それまでも走ることは好きだったので色々と行っていましたが、本格的な峠は
この「八代峠」が初めてでした。

峠に着くといきなり後方から黒いRZが、私を追い抜いていきました。

すかさず、私もシフトを落としそのRZを追いかける。

しばらく後ろについて各コーナーを攻めていると黒のRZが急にスローダウン。

どうやら戦意喪失したらしい。

停止した彼と少し言葉をかわした。

何を話したかは、もう忘れてしまった。
あまり印象に残る内容ではなかったのだと思う。

まだ走り足りなかった私は再び走り出しコーナリングを楽しんでいました。

そこで私のその後の人生を左右する事になる人物に出会う事になるのです。

その人物が乗るマシンはSR400でセパハンにバックステップと
それなりに改造してあるマシンです。
しかし一番驚いたのは、そのライディングテクニックでした。

それまでの私はコーナリングを楽しんではいましたが、人より早く走るとか
レーサーになりたいとかはあまり考えていませんでした。

それが彼の走りについていけなかった事に凄く悔しい気持ちになった自分に
気がつきました。

「もっと早く走りたい」 「負けたくない」 それまで抱いた事のない感覚でした。

彼は、アマチュアでしたがれっきとしたレーサーだったのです。

当然、私もサーキットへと走る場所を移していったのはいうまでもありません。

次回からはサーキットを走り出すまでを書いていきます。

つづく
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第3部:再び2輪へ・・・その2(初めての新車)

2007年11月11日 22時42分19秒 | 日々反省の日記
ヤマハRZ250との出会いが私の人生を大きく変える事になろうとは、
そのときはまだ気がついていませんでした。

このRZ250は発売とともに大ヒットとなったバイクですが、
後にある社会現象を引き起こしました。

それは、「峠族」とも「ローリング族」とも呼ばれました。
格好良く言えば「街道レーサー」と呼ぶ人もいましたが・・・

それまでの2輪のイメージはどちらかというと「暴走族」でしたが、
族とは一線を画した存在でした。

当時、池沢さとし先生の漫画にもなったぐらいです。
1960年代生まれの人なら記憶されている人もおられると思いますが、
「街道レーサーGO」だった・・・かな。

私も当初は、友人達とツーリングや競争をしたりして楽しんでいたのですが、
ある日、ツーリングの帰り道にたまたま通った峠で「峠族」と出会いました。

その時に走っていたライダー達の一人と、後にレース活動を一緒にする事になろうとは、
そのときは知る由もありませんでしたが・・・

そして私も「峠族」になっていったのは言うまでもありません。

峠での話は次回に

つづく
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第3部:再び2輪へ・・・その1(初めての新車)

2007年11月10日 21時40分47秒 | 日々反省の日記
18歳のときに事故を起こして免許取り消しになったので普通免許しか
取り直していなかったのですが、再び2輪に興味をもちはじめて自動2輪の
中型免許を所得しました。

後に限定解除(大型自動2輪)や大型自動車免許も所得しました。

中型免許を所得して最初のうちは父親が所有していたスズキのGT185というバイクを
乗っていました。
このバイクは高校生の頃、よく乗り回していたバイクですが4輪に乗り始めてからは
ほとんど乗っていませんでした。

しばらくは、そのバイクで通勤したりチョイ乗りに使っていましたが、
段々と物足りなくなっていたのですが、ちょうどその頃でした
ヤマハから衝撃的なオートバイが発表されました。

そのマシンは水冷2サイクルエンジンを登載したRZ250です。

世の中が2サイクルから4サイクルマルチへと移行していたのに逆行して
2サイクルマシンを発表したのです。

たちまちそのバイクに夢中になり、GT185を下取りに出してすぐに注文しました。

新車です。
生まれて初めて買った新車でした。
子供時代より自転車すら中古でしたから、新車は全く初めてだったわけです。
本当に嬉しかった。
(勿論、ローンでしたけど)

当時750キラーとまで言われていたバイクにより、その後の私の人生は
大きく変わっていくのでした。

その辺りは、また次回に

つづく
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第2部:社会人デビュー編その6(チューンナップ)

2007年11月09日 23時02分39秒 | 日々反省の日記
3台目になる車は前にも書きましたが、トヨタのスターレットSTGでした。
この車は、かなり本格的にチューンナップしました。
先ず、最初は足回りからですが、タイヤ&ホイール交換から強化サスにアブソーバーも
減衰力の高いものに交換。

次にエンジンのチューニングに取り掛かったのですが、スクラップのエンジンを探してきて
出来る限り自分で行いました。

3K型エンジンは1200cc未満のエンジンでしたから、排気量を増やす手段は
ボアアップでしたがピストンは2T型エンジンの物をコンロッドを改造して組み込みました。

シリンダーヘッドもポートの加工に燃焼室の加工を施し圧縮比も相当高くしたのですが
数値的な事は、さすがに忘れましたが・・・

フライホイールとクランクシャフトも軽量化とバランス調整にだしてコンロッドもバランスを
表面研磨とバランスを取り直しエンジンを組上げました。

組み上がったエンジンを載せ変える際に強化クラッチも組み込みマフラーもタコ足EXと
一緒に取り付けました。

で、初めてエンジンに火を入れる為にセルスターターを回そうとしたら圧縮比の高さと
あたりがでていない摺動部の重さが加わりノーマルのセルとバッテリーでは負荷が
重くて回りませんでした。

仕方なくバッテリーをもう一つ用意して直列につなぎ24ボルトにして再度トライするも
それでも回らない・・・

最後の手段で点火プラグを緩めて圧を抜きセルを回したら、やっとエンジンがかかった。
(デコンプの要領ですね)

その後も暫くはエンジンをかけるときは、かなり気をつかいました。

エンジンのチューンナップが終了した後、バケットシートを友人から安く譲ってもらい
組み付けて基本的なチューンナップは終了。

それなりに車は早くなったのだけど結局、改造していく過程が楽しかったのだと思う。

改造が終わって暫くして知り合いに売ってしまった。

それに、どんなに手を加えても新しい高性能な車がでれば、かなわないし
車検の際に元に戻すのも大変だったので手放してしまいました。

実は私は、非常に飽きやすい性格だったのです。

次は、ふたたび2輪に目覚めた頃を書きます。

つづく
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第2部:社会人デビュー編その5(車と共に)

2007年11月07日 22時29分41秒 | 日々反省の日記
普通免許を取り直してから最初に購入した車は以前、自損事故で廃車にした
車と同じ車種でした。

マツダ・ルーチェGS?2ドアハードトップです。

アルミホイールは廃車した車から外しておいたハヤシ製のスポークタイプのものを履かせて
リヤスポイラーを取付けてハンドルも交換して全塗装してと色々と自分なりに改造して
楽しんでいました。

外観だけでなくキャブレターも交換してディストリュビューターも変えてCDI点火方式に
交換して強化クラッチも入れて足回りもショックアブソーバーを交換して・・・と
随分とつぎ込んだのですが、結局この車も車検切れの際に廃車にしました。

その次に購入した車は3台目の愛車になるのですが、トヨタの初代スターレットSTGで
クラス的にはSRよりひとつ落ちるのですが、5速でキャブもソレックスのツインでした。

当時、日産のサニーに対抗するクラス車種でツーリングカーレースでもよく争っていました。
ただし、サニーがOHVエンジンをチューナップしていたのに対してスターレットはヘッドを
DOHC化したうえ直立型にマウント方式も改造していました。

本来、OHV方式では高回転型に向かないと言われているのですが、
それだけサニーのA12型エンジンが優れていたのでしょうね。

あとで考えてみればサニーを購入しておけば良かったと本気で思った時期もありました。
なにせトヨタのチューナップ部品より日産の方が安かった事も理由にあげられますが・・・

で、自分のスターレットが、どう改造されたかは次回に詳しく書きます。

つづく
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第2部:社会人デビュー編その4(3度目の就職)

2007年11月06日 22時10分21秒 | 日々反省の日記
高校を卒業して1年で3度目の職場、ここから5年間をその職場で過ごす事になり
その間、色々な人と出会い、色々な事を経験しました。

その会社は、繊維機械の部品を製造する会社でメッキや研磨が主な仕事でしたが、
元々、技術系の仕事が好きな私でしたので結構楽しく働く事ができました。

今と違って休みも少なく日曜日と時々、祭日が休みだったくらいで
給料も賞与も安かったのですが仕事が自分にあっていたのでしょうね。
ある目的ができて大阪に出て行くまでは、その職場で働き続ける事ができました。

この職場にいる間に車の免許も取り直し、自動2輪の限定解除免許も取り
車の大型免許まで所得しました。

でも一番、大きな変化は就職してから2年目くらいだったと思いますが、
同じ職場の上司に紹介された合気道との出会いでした。

それまでも習い事は色々しましたが、ほとんど長続きしませんでしたが・・・
でも合気道だけは、違いました。
力だけでは説明できない不思議な魅力に本気で夢中になりました。

それと、この頃から車を自分でチューンナップする事も始めていました。
元来、メカが大好きな私は自分でエンジンの積み降ろしから足回りの交換、
できる事は全て自分でやっていました。

市販のチューナップキットを使うだけでなく自分で使えそうなパーツを選定して
手を加えてエンジンに組込む。

どうしても自分だけで出来ないところはプロのエンジニアに頼みましたが・・・

とにかく、自分で組上げる喜び、そしてそれが正常に動いたときの喜び
車を走らせている時間より整備している時間の方が長かったようにも思えます。

レースにも出てみたいと本気で思っていた時期もあるくらいでした。

実際にレース活動は2輪で始める事になるのですが、その辺りは次回に

つづく
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第2部:社会人デビュー編その3(クビから再就職)

2007年11月05日 23時26分06秒 | 日々反省の日記
居眠り運転で事故を起こして入院生活を2週間程過ごしたあと、
重傷の友人より先に退院した私は、再び職場に戻る事はありませんでした。

前回、パトカーとのチェイスのあと何度か警察が職場にも来ていましたし
助手席とはいえ人身事故を起こした事になりますので、上司に辞表を
書くようにいわれ依願退職のかたちでしたが、いわゆる「クビ」でした。

それから3ヶ月程度、無職のまま職探しをしていました。

その間に陸上自衛隊の試験も受けたのですが、警察のブラックリストに名前が
挙がっていたせいか、不採用でした。

普通、陸上自衛隊は多少、アホでも入れるのですが警察沙汰を起こしていると
よほどコネがないと入れないようです。

結局、見つかった仕事はガードマンでした。

最初、ガードマンの仕事がどんなものか、あまり知らなかったので
実際に働き始めてその内容に結構、驚かされました。

ガードマン=警備員と思っていましたので道路工事の現場で交通整理をしたり
するとは正直思っていませんでした。

おまけに同僚にアル中の人がいたりタコ部屋みたいなところで寝泊りしたりと
かなりのカルチャーショックでした。

このガードマン時代には、あまり良い思いではありませんし
結局、数ヶ月で退社しました。

そして地元で新しい仕事を見つけ、そこから新たな青春時代に突入していきました。

つづく
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第2部:社会人デビュー編その2(車)

2007年11月05日 22時47分11秒 | 日々反省の日記
就職先に初出勤の日には既に車を無くしてしまっていた私ですが、その後も懲りずに
父親が所有していたダイハツ・コンソルテ(トヨタのスターレットと同じ車種)を夜な夜な
持ち出して走り回っていました。

この当時、就職先の研修所にいるときに知り合っていた家出中の女の子の家に
よく遊びに行っていたのですが、忘れもしない6月12日の帰り道の途中で
居眠り運転で電柱に激突!

しかもこの時は、助手席に乗っていた友人の車で友人は足を複雑骨折、
私もマブタをメガネのレンズで切ってしまい血まみれの状態。

もちろん車は廃車です。

そして、生まれて初めて救急車に乗せられて救急病院へ運ばれて
そして初めての入院生活を強いられる事になってしまったのです。

それでも、私は性懲りもなく看護婦をナンパしたり友人の彼女の友達を
紹介してもらったりと入院生活をエンジョイしていました。

余談ですが、この入院生活中に面白い事がありました。

当時、ボクシングでフライ級の世界チャンピオンだった具志堅選手が
ある人物のお見舞いにきていたのです。

そのある人というのは、ヤクザの親分です。

この時、私はボクシング等の興行にヤクザは切っても切れない縁がある事を
改めて知る事になったのです。
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第2部:社会人デビュー編その1(車)

2007年11月04日 20時01分36秒 | 日々反省の日記
高校を卒業して私が最初に就職した先は某自動車メーカーのディーラーでした。

元々、車が好きだったので自動車関係の仕事を選んだわけです。

実は、私の自動車歴は高校卒業前から始まっていました。

最初の車はマツダ・ルーチェGS?で12Aロータリーエンジンを搭載した
2ドアのハードトップモデルでした。

卒業式の朝も車で学校に行きました。
もちろん校則違反でしたが・・・

就職までにアルバイトはしていましたが、アルバイト料だけで車は買えません。

そこで親に立て替えてもらったわけですが、実は父親もその車を
乗ってみたかったようで快く立て替えてくれました。
ただ、母親は快く思っていなかったようですが・・・

案の定、そのルーチェは初出勤のときには既にスクラップになっていました。

暴走につぐ暴走、パトカーとのチェイスがもとで警察が自宅や職場に来たりと
無茶苦茶でした。

その挙句に自損事故(横に一回転しました)を起こして車は廃車になりました。

普通、ここまですれば反省すると思うのですが当時の私は狂っていたのかもしれない。

その後も更に親を泣かせるような事を続けてしまうのですが、続きはまた。

つづく
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第一部:青春真っ盛り編その8(殴り込み)

2007年11月02日 22時25分20秒 | 日々反省の日記
高3のときだったと思うのですが、他校の生徒が私のいた高校に殴り込みに来ていた。

どうも以前、私と揉めた2年の生徒と一悶着あったようで仕返しに来ていたようだった。

ここまでの話なら、不良学生同士の喧嘩で何処にでもある話しで終わりなんですが、
その殴り込みに来ていた奴が、後に刑事役で役者デビューしたのです。

私が小学生の頃から放送していた「太陽に吼えろ」という刑事ドラマで
ブルース刑事のニックネームで・・・

今は、もう亡くなりましたが
その当時は本当にびっくりしました。

どちらかというと警察にお世話になるような男だったのに
まさか刑事役でデビューするとは世の中、なにが起こるかわかりません。

高校生時代の思い出深い話は、とりあえずこれくらいにして
明日からは卒業後に話を移していきます。
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