ここまで、「八卦の解説」、「序卦伝」、「特別な卦、乾為天と坤為地」と進んで来た。これからは残りの六十二卦ということになる。最初にも述べたが、易の理解には順序が大切であり、やみくもに取り組んでいけば、必ず途中で挫折する。今までの部分は易の基礎であり、原理原則を説いているものなので、解らなくなったら、何度でも繰り返して読んで頂きたい。
さて、これからの六十二卦であるが、おそらく「何だこれは」とか「つじつまが合わない」と感じるだろうと思う。何故なら、この易は3000年前に出来上がったものであるので、時代や風習が今とは大きく違っている。そして、易は元々占いのために使われていたものと考えられるからである。
とは言うものの、なかなか理解できないことがある。それは易の言葉は短い。簡潔に過ぎる。もっと解りやすくと思うのだが。考えられるのは易が作られた頃には紙がなかった。竹簡といって、竹のへらに書き記したものなので、なるべく字数を少なくしたものだろう。
現在取り組んでいる易経は孔子が解説を加えて出来たものである。孔子は最初に易を読んで、「これは人の道を説いたものではないか」と感動したものと思われる。恐らく孔子一人ではなく、弟子たちとグループで易の研究にとりかかったものだろう。そして、易を単なる占いの書ではなく、儒教の聖典としての易経に仕上げたものだろう。
孔子たちが、易の解説として、彖伝(たんでん)と象伝(しょうでん)を著わしている。彖伝(たんでん)はその卦の意味を、そして、象伝(しょうでん)は上下の八卦からの形(象)を説いている。この「さわやか易」では、紛らわしいので、解説として加える場合は、いづれも、「孔子の解説によれば」として紹介している。
元々の易の言葉をそのまま使っているので、どうしてもつじつまが合わない部分も出て来るし、期待外れの部分も出てくる。ですから、易を理解するには、理論的に考えるだけでなく、想像力を巡らすことが肝心である。例えば、ある爻辞に婚媾(こんこう)という言葉が出てくる。婚媾とは結婚という意味だが、どうしても違和感を感じる場合がある。それは、結婚ではなく、強く手を結ぶ又は協同するという意味の方が相応しいと思えることがある。
時には「そんなことはあり得ない」と思う部分も出てくる。その時はそれはたとえ話で実際より大げさに表現していると考えるのだ。大事なことは、全体の意味であり、何を言いたいのかということだと思う。私が参考にしている「易経講話」の著者・公田連太郎先生は「気分」が大切だと述べている。そんなことを心に置いて、取り組んで頂けたら、幸いです。長い旅にお付き合い頂くことになりますが、よろしくお願いいたします。
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