※ 以前のブログ記事を転写します。
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「フェルメールの絵は一般的な寓意や解釈が当てはまらない絵なのでは?」
画集にて、『手紙を描く女と召使い』の絵をじっと観ていた。
やっぱり感じられない。
恋や愛のオーラを私は感じられない。
確かに手紙を書いている女性は上品なイメージで、素敵な女性である。
だけど
どうしても
恋文を書いているようには見えないのだ。
「17世紀の絵画で手紙を書いている女性の絵があれば、それは恋文を書いている絵である。」
それが美術評論家にとって、常識的な解釈であった。
だから
本来ならば“最後の審判的な感覚で、重要な意味を示唆する画中画”であるはずの『モーセの発見』が、
愛人との和解を女性に促す絵画と解釈されてしまった。
手紙を書く女性と召使いのモデルの女性は、叡知に長けた女性である。愛や恋の魔力は、知ってはいるが、それよりももっと重要な宇宙的な愛に目覚めた女性である。
私は、あの女性から、愛人である誰かを想像出来ない。
きちんとした旦那さんが、いるような気がする。きっと子供は3~5人くらい。
家事や育児が大変なので、召使いを雇っているような気がする。
恋や愛のオーラの出ていない、女性は、一般的な寓意の解釈は押し付けられ、彼女が書いているのは恋文であるということになってしまった。
因みに『眠る女』は、頬杖をついている女性が、17世紀の絵画の寓意では“怠惰”を現すものであるということから、目を閉じている頬杖をついている女性に対し、“居眠りをしている女性”という解釈が当てはめられたらしい。(近くに飲みかけのワイングラスがあったから、失恋してやけ酒という解説もある。)
世の人に訴えたい。
フェルメールの絵画は一般的な寓意や解釈が当てはまらない絵なのではないか?
何故なら
フェルメールは
曖昧さを芸術に取り入れる
そのことを
こよなく愛していたから。
彼の前世のレオナルド・ダ・ヴィンチから受け継がれた高貴なる魂である。
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