モナリザを母にしようプロジェクト

モナリザを聖なる母にしようという
プロジェクトを立ち上げました。

そろそろダ・ヴィンチの魂を解放してあげて下さい。

2015-09-30 16:46:29 | 日記

2010/12/05 12:55
GREE日記より

《そろそろダ・ヴィンチの魂を解放してあげて下さい。》

仮にモナ・リザの絵画が
1000億人の人々の心を魅了したとしても

たった一人
ダ・ヴィンチの魂が救われていないとしたら…
ダ・ヴィンチが、そのタイトルによって、傷つき苦しんでいるとしたら…
それは、とても哀しいことだと思いませんか?

そろそろダ・ヴィンチの魂を解放してあげて下さい。

モナ・リザというタイトルは、
誰かの権力を誇示する為に
誰かの至福を肥やす為に
付けられたタイトルかもしれません。

ダ・ヴィンチは
モナ・リザはモナ・リザ(ジョコンダ夫人)でないという証拠をいたるところに残していました。

しかし
歴史的にそれは
隠蔽され続けられました。

だけど
歴史は変えられます。

新しい神学は広められるでしょう。

宇宙の真理は人々の心を溶かすでしょう。

最新の科学は
最大限の力を貸すこととなります。

『来世の母』(※正確なタイトル)に
新しい歴史は始まります。

霊感で書きました。

モナ・リザの真相(魂の共存)

2015-09-30 16:39:47 | 日記

この内容を、奇跡体験アンビリバボーや「モナリザ・ミステリー」の筆者で、美術家のKKさんに、お手紙にて伝えましたが、連絡はありませんでした。

信じて頂けないのは、当然ですよね。レオナルド・ダ・ヴィンチの霊がかりだなんて…(*_*)

2009/10/24 05:45
GREE日記より

あるの日の交信内容

偉大な芸術家の魂は、初日に比べ、やや冷静さを取り戻し、モナ・リザの真相を、丁寧に事細かに語ってくれました。

『来世の母』のモデルには、二人の人物が存在します。
首から上は、自分(ダ・ヴィンチ)を女性化したイメージで忠実に描きました。首から下は、生み母であるカテリーナを若返らせデッサンし、柔らかな、ふっくらとした女性そのものを描きました。

自分と、生みの母カテリーナ、二人の人物、二人の魂を融合、融和させ、共存した形、その姿を描き『来世の母』をイメージした人物像が出来上がりました。母に愛されずに過ごした幼い頃の淋しい心の傷を埋める為に、描くことを思いついた絵でした。自分の魂と生みの母の魂を、その女性像の中により、一体化させることにより、魂の共存した絵を描くことで自分は慰められました。

周りの景色は、来世を想像し描いたものです。懐かしい故郷の景色をイメージしました。来世、自分はどこの国で生を授かるのだろうか?どんな時代に、優しい母に出逢えるのだろうか?想像を膨らませました。『来世の母』を描きながら、このような母に出逢いたいと、強く強く祈っていました。

しかし…

微笑みだけは、どうしても描くことが出来ませんでした。あたたかな優しい微笑みを浮かべた母親の表情を描くつもりでした。だけど…自分は母の笑った顔を一度も見たことがありません。微笑んだ顔を描きたいのに、どうしても暗い表情になってしまいました。微笑んでほしいのに、心の中では微笑んでいないような複雑な表情となってしまいました。
微笑みの部分だけ、何年もの歳月がかかり、なかなか完成しませんでした。
哀しい魂の傷跡を背負った、どこか物憂げな、淋しい曖昧な微笑みとなりました。

『来世の母』の曖昧な微笑みは、意図したものではなく、偶然の産物でした。




あの時の悔しい気持ち

2015-09-27 16:25:27 | 日記

小学校の低学年の頃の話


とてつもない、悔しい気持ちを味わった経験があります。


私は9歳上の姉に
言いました。

モナ・リザの絵(新聞に画像が掲載されていた)を指差し「この人は、モナ・リザなんかじゃない。」そう言いました。


私は、可笑しな事を言う妹だと笑われました。


「だから…お母さんなんだって!お母さんの名前までは覚えてないけど(>_<)」


そう思って必死で反論したかったのだけど、有名過ぎるタイトルに私が負けました。


ネットを色々と検索していたら、
モナ・リザはカテリーナだと論じる専門家や、絵画好きの素人の方が、結構多いのに驚きました。


沢山の方が
モナ・リザに対する見方を、変えはじめています。


多くの研究者の方達は、様々な研究をされて、モナ・リザは本当にモナ・リザなのだろうか?ということを探り出そうとしています。


私が提供する情報は、そういった学術的なものとはかけ離れているかもしれません。


私の原点は小さい頃の魂の記憶です。


(約420字)

極上の幸福感

2015-09-25 20:58:33 | 日記

私が今生で、生きていて一番幸せだと思った瞬間は、長女が生まれた時でしたが、それより以前に、極上の幸福感に包まれる感覚を、幼少期に体験しました。
その時感じた幸福感は例えようがないものです。この世のものとは思えない感覚を、夢のなかにて味わいました。
額の中央付近が、じんわりとあったかくなって、生きているか死んでいるか分からない状態で、ふんわりとした感覚でした。

それは夢であるはずなのに、不思議と現実味を帯びた感じのことを体験するように椅子に座っている父親(※夢のなかでの父親です。現実として存在しているみかん農家を営む父親とは違います)の後ろに立ち、父親の洋服を触っていました。

ひらひらとした縦状のものが幾つかあり、私は、右ら左へと(指編みをするように)右手人差し指を這わせました。
次は、左手のばん、
私は、先ほどと同じ動作をします。
規則正しく、まるで編み物をするかのように、互い違いに指を這わせ、洋服の感触を楽しんでいました。

突然夢から覚めた私、
「ここはどこ?」と大慌てで木靴を探して走りました。

何故、こんなにも細かく覚えていたか?その理由は、
天使の声が聞こえたから。
天井のほうから「決して忘れてはいけないよ」と…

それから暫く月日が流れ、ある時、親戚の方より、長崎土産の「ザビエル」というお菓子を戴きました。

当時「大人の味」と感じたお菓子、私は食べることが出来なかったけど、箱が、とりわけ気にいりました。
あの日あの時
この世の感覚と違った別世界にいた時に自分が触っていた、昔のお父さんの洋服に、そっくりな手触りだと感じました。
恐る恐る
私は母に尋ねました。
ザビエルの箱を見せ「この箱に、触った感じが、そっくりな洋服ってある?」
すると母は、忙しかったのか?「ないよ。ない。ない。」と、ものすごくむげにあしらわれました。
それからちょっとして母は、思い出したように言いました。
「ちえよ。あるよ。ビロードに似とるなぁ」
私は、子供には難し過ぎたカタカナの言葉を、忘れかけたら聞いて、忘れかけたら聞いての繰り返しで、ビロードという言葉を覚えました。

現実として、あの時、私が触っていた洋服に、本当によく似た洋服のデザインに私は巡り会うことが出来たのは、2004年、京都市美術館、フェルメール展にて

『絵画芸術』
その絵に描かれていた画家の後ろ姿を見て、私の魂は、この光景を夢の中で知っていると思いました。

モナ・リザのモデル歴史的解釈

2015-09-25 20:07:33 | 日記


ある本の文章を転写させて頂きます。


レオナルドの代表作とされる《モナ・リザ》の大部分は、彼が2度目にミラノに滞在した5年間のうちに描かれた。それはアルプスの山岳風景を遠景に一人の婦人を描いた作品だが、誰の肖像なのかについては諸説あって、真実は謎に包まれたままである。

確かなのは《ラ・ジョコンダ》と呼ばれているものの、この女性がフィレンツェ人フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻でないことだけで、イザベラ・デステを含めて多くの人の名前が挙げられている。

(中略)

この作品が誰を描いたものであれ《ジネヴラ・デ・ベンチ》同様、この女性も俗にいう美人ではない。しかし、彼女から喚起されたイメージは鑑賞者の心に生き続けている。



この本の文章が興味深いのは

《誰を描いた肖像画であるか真実は謎に包まれている………確かなのはジョコンド婦人ではないということ…》

と、明確に書かれていることです。


歴史的に
やっぱり
モナ・リザは
モナ・リザではないのです。


ダ・ヴィンチは『モナ・リザ』の絵画について、誰であるかを、明確に記した手記等を遺していません。

(約470字)