モナリザを母にしようプロジェクト

モナリザを聖なる母にしようという
プロジェクトを立ち上げました。

レオナルド・ダ・ヴィンチからのメッセージ

2015-06-30 22:49:06 | 日記

※ 真偽は、確かめようがないですけど、私が感じたことです。


絵を観て、絵で学べ。
決して他の者の解説に流されることなく、自分の目で、絵に気付きを得るように。
しかしながら、絵を識るにおいて、
歴史を勉強されることは、
大いにされよ。


先人の知恵を侮るでないぞ。


自然の力を侮るでないぞ。



それぞれの時代において
熟練された術を持つ者は

才能もあったであろうが、
たゆまぬ努力の積み重ねをし、

その時代のなかで、最も画期的だとされた道具や
技巧をふんだんに用い、
芸術が花開いた。



神との語らいにより
、それぞれが、それぞれの個性を羽ばたかせ
芸術家の魂が具現化されたのが、個々の作品でもある。



神聖な作品に対して、極めて個人的で、いいかげんで、ふざけた解釈をするのは
芸術家への冒涜であると共に
神への冒涜に値する。


何百年、何千年と
自然を蔑ろにしてきた行いを重ねたように
人間は、
まだ、愚行を重ね続ける気なのか?



科学技術が、発展したことを
自惚れるでない。
それらを得た代わりに
多大な損失を、我々がした事、
むしろ、過去の過ちを悔い改めがよい。



本質を見極める目を、喪うでないぞ。



自然の摂理、
それらの営みは、
実に、繊細で巧妙である。


それらは、本来あるべき姿であり、
理に、かなった働きをする。



私が一番愛したものは
言うまでもない。
自然である。



それにしても
自然を愛した、私が、
500年先の未来の、最先端のテクノロジーを使っていると
風潮されるようになるとは
何と、皮肉なことであろう。





ダ・ヴィンチの想いが理解されていない。

2015-06-30 00:18:10 | 日記
タイトル

「ダ・ヴィンチの想いが理解されていない。」
2011/11/02

ブログを転写

人々がモナ・リザというタイトルが、ダ・ヴィンチが描いたあの有名な絵画に相応しいタイトルであると感じることは、何百年という歳月と共に愛され続けたから…それ以外の何物でもない。
しかし
ひとたび
ダ・ヴィンチの想いが理解されはじめたら…
人々は
モナ・リザというタイトルに対して、とてつもない違和感を感じるに違いない。
ダ・ヴィンチが描いた、微笑の女性の重要なキーワードは?
聖母
受胎告知
母カテリーナの幻影
ダ・ヴィンチ自身の自画像
未来、糸車の聖母に繋がる橋
繋がるヨハネの首
キリストを呼ぶ
ヨハネ
宗教を越えた宗教画
肖像画ではないイメージ画像
天と地を繋ぐ柱
黄金比率
リッタの聖母が原型
他にも、様々なキーワードがあるが、大切な点だけでもこれくらいはある。
再び大切な啓示をしよう!
ダ・ヴィンチの真実の想いが世の中に理解され、それが浸透されはじめさえすれば…
モナ・リザ(ラ・ジョコンダ)というタイトルに対し、人々は、大変な違和感を持つ。不可思議なタイトルということに気付き、目覚める人々が増えれば増えるほど、ダ・ヴィンチの遥かなる、聖母への想いは、伝わるに違いない。
縺れ合い絡み合った糸は、もうじきほどかれるであろう。




未来からの使者からのメッセージです。

モナリザのモデルは誰なのか? 追記 『モナリザは心の鏡である』

2015-06-28 20:59:49 | 日記

これも、ある日のブログより転写

モナリザのモデルは誰なのか?

※追記

『モナリザは心の鏡である』

誰の姿でもない。
しかしながら
モナリザは
誰の姿にも通じています。
つまり
モナリザは
あなたです。
モナリザは
私でもあります。
心穏やかな時に
モナリザを見ると
モナリザは、慈悲深げに見えます。
心に疚しいことがある時に
モナリザを見ると
モナリザは、怒ったような顔つきに見えるかもしれません。
つまり
あなた自身(私自身)の
心の投影
まるで「鏡」のような絵だと思います。
外見的には美しさを極めたような顔立ちではありませんが
それゆえに
心の奥底にある
琴線にふれるような
「内面の美」
「内観」
を感じ取ることが出来るのだと思います。
http://blog.m.livedoor.jp/kochie-141016/article/50331787?guid=ON

モナリザのモデルは誰なのか?

2015-06-28 20:51:54 | 日記
タイトル
「モナリザのモデルは、誰なのか?」
2013.12.06記述
以前書いたブログを転写します(*^o^*)
タイトル「モナリザのモデルは、誰なのか?」
結局のところ、モナリザは、誰の姿でもなかったのだと
世の人は、理解するでしょう。
はじめから、モデルは誰なのか?という論戦自体、必要がなかったのですね。
ダ・ヴィンチは、特定の人の姿を、描いたのではなかったのだから、、、
しかしながら
面白い話です。
誰の姿でもない絵画は、誰の姿でも
ある絵なのですから。あの絵画は、鑑賞者にとって、変幻自在なモデルとなります。誰の姿でもない絵は、誰の顔にも見えてしまうから不思議です。
何度も書いた内容です。
元々あの絵は、ダ・ヴィンチが
自からへの慰めの為に描かれた絵画です。
自分の魂と、母カテリーナの魂を、 融合させ、来世での再会を
神に祈った絵画でした。
来世で、巡り合う
来世の母の姿です。
しかし、最終的にダ・ヴィンチは
来世の母を、自からだけの来世の母にとどめる事なく、世の人々に
普遍的な光を与える
全てに通じる母の姿にさせました。
絵画は、パズルのように他の絵画と、交じり合ったり組み合わさったりします。さりげに
イエス・キリストとマクダラのマリアの真実も封じ込めました。
モナリザのモデルは、
ダ・ヴィンチが絵画制作着手時には、純粋に
追憶の母への思慕的なものだったのかもしれないのですが
発展し進化し、だんだんワンネスへの道しるべ的な全てを現す絵画となったのです。ダ・ヴィンチが、絵を描くあいだに体感した、数多くの悟りが、あの絵画を生み出した背景なのでしょう。
もはや、モナリザのモデルを限定しようと考えることすら
馬鹿らしくなるように
ダ・ヴィンチの発想は万人の思考を超越したものでした。宇宙の真理や、宗教のあるべき姿や、歴史の真実を、モナリザと呼ばれる絵画に、まるで隠し絵のように、閉じ込めたのです。
しつこいようですが、何度も書きます。モナリザは、元々肖像画ではありませんから、誰であるかに拘る必要はないのです。
肖像画より、むしろ宗教画に近い絵画です。
しかしながら、神と人との境界線を持たない絵画だから、当時の世相においては、宗教画の特徴が多い婦人ということで、反感をかうでしょうね(^_^;)

今の気持ち

2015-06-26 22:27:27 | 日記

私は、はやし浩司さんの反論を色々書いていたわけですが、
はやし浩司さんに対して、個人を攻撃しているのではなく
はやし浩司さんが、論じている内容や主張に対し、立ち向かっているだけです。
ですから、誤解しないで下さいね。

先のブログに書いたような気持ちをずっと何ヶ月も、引きずって今に至りました。


しかし、状況は変わりました。

現実に、今日本に
アンギアーリの戦いの模写と
カッシナ(カッシーナ)の模写に来てます!


どれほど、私が反論しても、なかなか伝わらなくて、もどかしかった想い。
それは、私が反論している、ひとつの意見ではなく


「はやし浩司氏の証明は、あり得ない(※アンギアーリの戦いとカッシナの戦いにおいて)内容である。」


ってことを、絵画自身が、物語り
、証明することが出来る。



大袈裟な言い方をすれば

ああ、芸術とは
なんと素晴らしいことなんだろうと、

科学よりも、人間の力を
確かめれる重要な
ターニングポイントになるような
画期的な展覧会だと思います。


まぁ、私がじたばたしなくても
真実の絵画を観て判断下されば、人々には、
自ずと答えが伝わる、、、そんな流れになってくると思います。


東京富士美術館

多数の来場者数が、ありますように・・・