カネログ~日々もくもく~

カネモク社員が日々感じたことを“もくもく”っと綴っていきます。
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『赤壁の戦い』

2008-11-20 | Weblog
日本でも高い人気を誇る中国の史伝・英雄譚「三国志」。その中でも最も有名な合戦である「赤壁の戦い」を、名匠ジョン・ウー監督の手で映画化。『レッドクリフ』は大ヒット中だ。

西暦208年。曹操軍に追われる劉備軍は孫権軍と同盟を結ぶため、軍師の孔明を孫権のもとに遣わした。しかし孫権軍では曹操に脅威を感じているものの非戦を唱える臣下が多く、同盟は容易に成立しそうもない。そんな中、孔明は赤壁で孫権軍の司令官・周瑜と出会い、そのカリスマ性に魅了される。一方の周瑜も孔明の人柄と戦術眼に驚嘆し、その存在を意識するようになる。そして二人は信頼を深め、共に戦う事を決意するのだった。

赤壁の戦い(せきへきのたたかい)は、中国後漢末期の208年、長江の赤壁において曹操軍と孫権・劉備連合軍の間の戦いである。諸葛亮が一夜にして大量の矢を手に入れたり(夜霧に乗じて船を出し、曹操軍から十万本の矢を船に射掛けさせて矢を回収した)、また、苦肉の計を用いて、黄蓋に偽の降伏を申し出させ曹操軍内に下らせた。火計を効果的にするために、当時まだ野にいた龐統を使い、曹操に対して船上ですぐに酔ってしまう兵士達のためにと船同士を鎖でつなげる「連環の計」を進言し実行した。祭壇を作り祈祷し東風を起こし(諸葛亮はこの時期に東南の風が吹く日があるのを初めから知っていた)、機は熟したとばかりに黄蓋が藁を積んだ船に火をつけさせ火計を実行、「連環の計」で互いの切り離しが間に合わない曹操軍の船は次々と炎上する。更に東南の風で地上に配していた陣にも火が燃え広がり、曹操軍は散々に打ち破られた。なお周瑜が自分を殺そうとしている事を察知した諸葛亮は、東南の風が吹いた直後にその風を利用して劉備の下へ逃げ去った。

『三国志』にまつわる故事成語は多く、
【苦肉の計(苦肉の策)】[人間は自分を傷つけることはない、と思い込む心理を突いた計略]
 赤壁の戦いの際、司令官である周瑜により、鞭打ちの計に罰せられた黄蓋(こうがい)は、敵である曹操軍に投降するが、それは曹操軍に放火するという作戦の為だった。
【三顧の礼】[必要とする人材に対して、依頼者が礼を尽くすこと]
 劉備が孔明を軍師として迎え入れるため、三度に渡り、孔明を訪ねることから生まれた言葉。
【水魚の交わり】[必要不可欠な人(君臣の信頼関係)の存在の例え]
 劉備と孔明の信頼関係を、水と魚に例えて生まれた言葉。
【白眉】[大勢の中で最も傑出した者。兄弟の中で最も優れている者]
 劉備に仕えた馬良(ばりょう)が優秀な五人兄弟の中でも最も優れており、その眉が白かったことから生まれた
【老いて益々盛ん】[年を老いても、衰えるどころか、若者を凌ぐほど、意気盛んな様子]
 「赤壁の戦い」の後、劉備に仕えた将軍「黄忠(こうちゅう)」の、老いても勇猛果敢だったことを物語る
【泣いて馬謖を斬る】[私情を挟まず、全体の規律を保つためにやむを得ず、愛する者でも処罰すること]
 有能な部下として認めていた馬謖が、命令に背き大敗を招いた際、軍罰の厳しさを示すため、孔明は涙をのんで、馬謖を処刑した。
【死せる孔明、生ける仲達を走らす】[偉大な人物は、生前の威光が死後も残っており、人々を恐れさせるということ]
 孔明の死の知らせを聞いた魏の司馬仲達(しばちゅうたつ)は、退陣しようとする蜀軍の追撃を開始したが、反撃の構えを見せた蜀軍の動きに「孔明の死」という知らせの裏には何かの策略があると疑い退却した。
【危急存亡の秋】[危機が迫り、存続か滅亡かの瀬戸際である状況]
 劉備の死後、その子、劉禅が帝位についた蜀は、三国の中で劣勢の地に立たされていた。
その際、孔明が「魏を打つべし」と奉呈(ほうてい)した「出師の表(すいしのひょう)」の中にある言葉。
【破竹の勢い】[勢いに乗って勝ち進む、勢いが激しく、とどめることができないさま]
 晋の杜預(どよ)率いる軍勢が、百年来の敵である呉の首都、建業(けんぎょう)に陸路と海路から一気に攻め込み、呉を勢いに乗って滅ぼしたこと。
などがある。


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