KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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「女子マラソンの五輪代表は毎度毎度なぜモメるのか」

2012年02月10日 | マラソン時評
週刊ポストの2月17日号の新聞広告に上記のタイトルの記事があるのが目に留まり、コンビニで購入した。内容はおよそ想像がついたけど、たぶん、谷口源太郎氏のコメントが掲載されているだろうな、と思ったら案の定だった。

例によって、米国の「1本勝負」の代表選考を礼賛し、スポンサーの放映権料を目当てに選考レースを複数化する日本陸連の姿勢を批判しているが、この人、四年に一度、必ず同じ事を言っているなあ。

アメリカのような「一発選考」こそ、ベスト、という意見には、僕は異議あり、である。

「なんで、五輪のマラソンで金メダルを獲れない国の選考方式を見習わんとアカンのや?」

選考レースを複数化し、強豪選手を分散化させることが選考を分かりにくくしていると言うのだが、分散化できるほど強豪選手が多数いる、ということだからいいのではないか?

どうして、日本の代表選考方式を批判する人は、今の女子マラソン強国、ケニアやエチオピア、ロシアや中国の代表選考方式を詳しく教えてくれないのだろう。

しかし、今や、事情は変化してきた。アメリカは男子においては、マラソン最高記録も10000mの最高記録も日本記録を上回った。北京五輪でも日本代表に先着した。元世界記録保持者のハリド・ハヌーシやアテネ五輪銀メダリストのメブ・ケフレジキらアフリカからの移民の活躍が刺激になったのか、白人の強豪ランナーが多数台頭してきた。彼らの指導をしているのが、'80年代のマラソン・ヒーローだった、アルベルト・サラザールだと言えば、思わず身を乗り出す人もいそうだ。

それはさておき、谷口氏は日本陸連が選考レースを多数実施することで金儲けをすることが良くないことと思っていらっしゃるようだ。それならば、アフリカのランナーに世界最高記録を出させることのみに血道を上げている欧米の都市マラソンや、それらの大会の上っ面だけを真似して、「経済効果」を求めている日本国内の都市マラソンについては、どうお考えなのか聞かせていただきたいと思う。欧米の都市マラソンのディレクターたちには、自国のランナーの強化と育成ということは眼中になさそうである。

高校駅伝の弊害も語られているが、これは野球界における甲子園の功罪論と全く同じ。優秀な選手を多く、燃え尽きさせていると言われる一方で、じゃあそれを無くしてしまったらどうするんだ、という堂々めぐりの議論の元である。

今のマラソン界、かつてと様相が変わっているのは、女子ランナーの大学進学率が高くなった、ということだ。高校卒業後に実業団入りして、2~3年でマラソン・デビュー、というランナーが減少したのは、駅伝の強豪校出身のランナーが、大学に進学してから、実業団入りし、20代後半で初マラソン、というパターンが増えてきたからだ。

「有名校出身のランナーは故障だらけ。」

というのは事実だろう。しかし、それを強調するために、先の大阪国際女子マラソンで優勝した重友梨佐が、岡山の興譲館高校時代に全国高校女子駅伝大会の優勝メンバーである、という事実を隠しているのは、それが「不都合な真実」だからだろうか。

そうなのだ、このての記事というのは、結論を初めから決めて、それを裏付ける事実を収集して作られるのだ。そこでは、結論とかけ離れた事実は黙殺される。どうしてその事に気づいたかというと、僕も同様の手法でこのブログの記事を書いていたからだ、なんてね。

女子マラソン界がかつてとは様相が変わってきたのは、大学卒のランナーが増えてきたことだ。昨年の横浜国際女子マラソンで優勝した木崎良子は、大学女子駅伝の強豪である佛教大時代に、駅伝大学日本一を経験している。昨年の世界選手権で5位入賞で、現時点で五輪代表の最有力候補である赤羽有紀子は城西大時代に、3年前の世界選手権で入賞して、名古屋で赤羽らと代表の座をかけて戦う加納由理は立命館大時代に大学日本一を経験している。

そういった、女子マラソン界の「変化」を無視して、4年前、8年前の記事から写してきたような事ばかり書かれててもなあ、と思う。よほど。マラソンを4年に一度しか見ない人が多い、ということだろう。世界選手権の後に名古屋に再挑戦する赤羽や、横浜の後、アピールのために都道府県対抗女子駅伝に出た木崎を「過密日程」と言われてもなあ。川内優輝のことを知らないのか、と言いたくなる。

ただし、今や日本の女子マラソンは、レベルが落ちている。これは事実だ。先の大阪国際女子マラソン、優勝した重友は確かに見事な走りだったが、30kmも行かないうちに彼女が独走してしまった。2時間22分のペースに中間点までついていけたのが重友と福士加代子と野尻あずさのみ、というのは実に寂しかった。

二宮清純氏は、

「誰を選ぶかよりも選んだ選手を陸連がちゃんと管理しているかが重要。」

と指摘していたが、これは北京五輪での失敗を踏まえてのことだろう。野口や土佐の体調不良を陸連が把握していなかった、というのは、まさに「マラソン界の常識は他の競技の非常識」だったのかもしれない。マラソンというのは個人と個人との戦いだ。同じ国の選手もライバルだ。ライバルに自身のコンディションを明かしてはいけない、という気持ちが裏目に出てしまったのが、「北京でのマラソン・ニッポン惨敗」だったと僕は理解している。

そんな反省と、昨年の世界選手権でメダルを独占したケニア勢の走りを見たからか。増田明美さんは「チームプレー」で戦うことを提案しているが、どうだろうか。これには違和感を覚えた。自転車のロードレースのように、エースを勝利に導くために、他の2人が献身的な走りをせよと言う事か?それをすると、マラソンがマラソンでなくなるのではないかと僕は危惧する。国別対抗戦(ワールドカップ)も兼ねている世界選手権ならその戦術でねいいが、もともと、僕は五輪のマラソンでは、かつては日本の選手よりも以前からひいきにしていた外国のランナーを応援したことがあったからだ。それって、反日?いや、繰り返すけど、マラソンというのは個人と個人の戦いだ。「なんとかジャパン」などという名称とは無縁の競技のはずではないか。

まあ、正直言わせてもらえば、こんな週刊誌の記事よりも、このブログの過去記事の方がよっぽど面白くてためになりますよ。マスコミの皆様は、今回もまた、選考から漏れたランナーを「悲劇のヒロイン」扱いするのだろうが、それもいいけど、きちんと選ばれたランナーをシンデレラの義姉扱いするのは止めて欲しい。アテネの時はひどかった、本当に!


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