KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

マラソンを愛する皆様、こんにちは。
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あなたもマラソンランナーになれる・・・わけではない vol.15~2532日ぶりのスタートライン

2018年11月23日 | あなたもマラソンランナーになれる
2001年4月15日、30代最後のマラソンとして長野マラソンを完走して以来40代にはフルマラソンは年に一度愛媛マラソンのみに出場大会を絞っていた。スティーブ・モネゲッティーの真似をしたわけではない。単に経済的事情によるものである。

(モネゲッティーは1990年のベルリンマラソンで優勝後に、翌年のロンドンマラソンに多額の出場料と世界記録更新ボーナスを提示されながら、
「私はフルは年1回しか走らない。1991年のマラソンは東京での世界陸上に決めている。」
として依頼を断った。東京での結果は11位。)

40代に走った10回の愛媛マラソン、完走7回棄権3回。最高タイムは2003年の3時間12分33秒。ワーストタイムは2010年の4時間56分36秒。この年から愛媛マラソンは大幅にリニューアルされて、コースも松山~北条に変更。制限時間も6時間に拡大した。しかしながら、12月に左の太腿ハムストリングスを肉離れし、完治しないままテービングとサポーターで患部を固めて出走し、このタイムで完走。前年までなら20km関門でタイムオーバーだった。しかし、2年連続リタイアだけはしたくなかったので氷雨の中、歩きながらゴールまでたどりついた。僕の過去5回のマラソンリタイアは全て、制限時間3時間30分~4時間のレースでの関門タイムオーバーである。マラソンを5時間かけて完走することがこんなにキツイものだということを初めて知った。

(このカテゴリーのvol.14は、その時のレース直前の不安な気持ちを書き綴ったものである。)

2011年の東京マラソンに、40代最後のマラソンのつもりで申し込み、運良く当選。愛媛マラソンをサブフォーギリギリで完走して、昨年のリベンジを果たした3週間後。初めての月2度フルマラソン出走だったが4時間19分1秒で完走。5月5日、満50歳の誕生日にどこか大会はないかと思って見つけた加古川のリレーマラソン、400mのトラックを105周半で42195m走るリレーマラソンに「単独参加の部」があり、エントリーした。1人で105周半を4時間25分で完走。

以後、6年9か月、東京マラソンから数えれば約7年、僕はフルマラソンを走ることは無かった。

2012年、第50回の愛媛マラソンへのエントリー申し込み。公式サイトにはアクセスが殺到してなかなか繋がることが無かった。エントリー開始から4時間で定員オーバー。頭の中が真っ白になりそうだった。まだ、郵送エントリーという道が残されていたが、応募者多数のため抽選で落選。連続出場が18で途切れて上に、この数年来楽しみにしていた「50歳で第50回愛媛マラソンに出場(愛媛マラソンの回数は僕の満年齢と同じ)」という目標が奪い取られた。

昨年までは定員割れをしたのに、どうしてこんなにも突然ランナーが大量に出現したのか?主催者が「ゲストに高橋尚子が出場」と、エントリー開始前に発表したのが原因だろうか?

いずれにしても、この瞬間から僕の「ランナー生活」が歪み始めた。

大会当日は、丸亀ハーフマラソンに出場。1月前半に体調を崩して走れなかったせいか15km以降ガス欠して1時間49分34秒でゴール。1993年に小豆島で初めて走ったハーフのタイムをオーバーしてしまった。

愛媛を走れなかった悔しさを散々ネットで毒づいて発散し、「愛媛だけがフルマラソンじゃないぞ。」と気持ちを切り替えて走り始めた。4月のまつの桃源郷ハーフで1時間39分でゴールし丸亀のリベンジを果たして、秋には福知山マラソンに27年ぶりにエントリーした。

ところが7月に右足を痛め、それがなかなか完治せずに夏場にほとんど走ることが出来ず、福知山への出場を断念。ついに、1994年以来続けてきた「年に一回フルマラソン出場」も途切れてしまった。2013年から愛媛マラソンは抽選制度が導入されたがそれにも落選。この年は「厳正で公平な抽選」を行ったために、僕の知人のサブスリーランナーも軒並み落選。主催者に抗議が集まった。その回にはボランティア・スタッフとして参加。初めて沿道から愛媛マラソンを走るランナーを眺めた。

その時点ではまだ足に痛みが残っていたが、「来年は応援される側に戻る」事を目指して3月に練習を再開。ところが翌月、ボストンマラソンのテロ事件に衝撃を受けた直後に左足の中指を骨折。またしても長期休養を余儀なくされる。

2014年の愛媛マラソンも落選。この年より、「アスリート・エントリー制度」が導入される。
男子は3時間30分以内、女子は4時間以内の公式記録を2年以内に出していれば、先着2000名は抽選の対象から外れるという制度。しかしながら、僕が最後に3時間30分を切ったのは2004年の愛媛マラソン。既に、僕とは無縁なルールとなっていた。

愛媛マラソンのリニューアルは嬉しかった。自分の住む町に近いエリアを走る上に、制限時間が延長されたことで、連続完走も増えるだろう。ところが出場希望者が大量に増えて、定員を1万人に増やしても2倍の競争率になることは全くの想定外だった。ランニング仲間の一人が

「愛媛マラソンも誰のおかげで50回も大会が続いたと思っとるんや。かんちゃんみたいに、誰からも注目されん頃から毎年陸連登録費払って参加してきた人らのおかげやないか。」

と慰めてくれたが、もはや「長年走ってきた」からといって優遇措置を得るのは「既得権益
」と批判されかねなくなってきた、2014年は高知龍馬マラソンにエントリーしたが、父方の伯母の葬儀と重なり欠場。しかし、おそらく出場していても完走に5時間以上かかっていただろう。4月のまつの桃源郷ハーフは2時間17分59秒の自己ワーストを更新し、12月の坊ちゃんランハーフでは自己計測で2時間29分と衰えが止まらなかった。長引く故障で身体はなまり、練習を再開すればまた故障。一番の目標である愛媛マラソンには出場出来るかどうかも不透明ではモチベーションは下がっていくばかり。体重は、ランニングを始める前と同じレベルに戻っていた。20年かけて貯めていた貯金を放蕩生活で全て使い果たしたようだった。

2016年の愛媛マラソン、遂にエントリーをし忘れた。Facebookでは「落選した」と書いたが、実際には申し込もうとしたら締切が過ぎていた。もはや、締切日も忘れるくらいに関心度が低くなっていた。

自分が走れなくなると、マラソンそのものへの関心度も低下していった。拙ブログの更新も途絶え気味になり、年末の「マラソン大賞」も一夜漬けの情報収集で何とか続けていた。所属するクラブチームでは「代表責任者」になっていて、かろうじてランニング界とつながりを保っていた。2016年には自分の母校が杜の都女子駅伝で優勝、クイーンズ女子駅伝には自分の勤務先の東京本社が優勝という快挙が続いたのに、その「感動」を拙ブログに記す気力も失われていた。twitterでストレスを晴らす日々が続いていた。

2011年以降の年間走行距離の推移である。

2011年  1545km
2012年  1044km
2013年   546.5km
2014年   490.5km
2015年   284km
2016年   357km

2015年と2016年の走行距離、一番多く走っていた時期の1ヶ月の走行距離以下である。


転機になったのは2017年の年明け。同居していた母親が体調不良で病院で診断してもらった所即、入院。命に係わるほどの重態だったのだ。3ヶ月の入院を経て一命は取りとめたものの、それまでは時間をかけてかろうじて出来ていた身支度(着替え、トイレ、入浴等)を自力で行う事が困難になり、兄や姉と相談した結果介護施設のお世話になることを決めた。幸いにも母親が受け取る年金(父親の遺族年金を含む)が月々の支払額より安い施設への入居がすんなり決まった。それによって僕の生活も大きく変わった。56年生きてきて初めて、単身生活をすることとなった。

元・妻が病弱だったので代わって家事を覚えていたし、食事の支度も母親に代わって自分がしていたので不便とも苦痛とも感じなかった。むしろ、いつかは一人で暮らしていかなくてはいけなくなることは覚悟していたが、意外に思ったのは一人暮らしになればランニングする時間も減るだろうと思っていたが全く逆だった。

40代から自宅で両親と3人暮らしになっていて、母親が食事の支度やら洗濯をしてくれるからランニングが出来るのだと思っていた。実際、父親が10年前に亡くなって2人暮らしになり、母親が日毎に衰えていく中、なるべく不用の外出を避けるようになっていたことも、練習量の低下の原因になっていた事に気がついたのだ。自分の安い給料で生活費を賄うことで、食費も切り詰めていくことが体重減にもつながった。

まずは走れる身体を取りもどすために、自転車に乗ることから始めた。

体重が2年9ヶ月ぶりに80kgを切った5月の朝霧湖ハーフマラソン、2時間切りは無理でも当時のマラソン世界最高記録である2時間2分57秒、もしくは日本最高記録2時間6分16秒切りを目指してスタートした。5kmを29分40秒、10kmを1時間0分2秒と日本最高記録の真半分のペースで駆け抜けたが後半やや失速して、ネットタイムで2時間7分52秒でゴール。当時ゲストだった、初マラソンを控えていた神野大地に、

「神野君、これくらいでは走ってみろよ。」

と言えるくらいのタイムを残せた。

6月以降、それほど多く走り込んだわけでもないのに、体重がすとんすとんと落ちて行った。
かつてはなかなか走り込んでも切れなかった「体重70kgの壁」を越えそうな勢いだった。

体型が変わったことで、運気までもが変わったのだろうか?

9月の末に第56回愛媛マラソンの当選通知が届いた。



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