KANCHAN'S AID STATION 4~感情的マラソン論

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あなたもマラソンランナーになれる・・・わけではない vol.11~「1Q94」②

2009年07月26日 | あなたもマラソンランナーになれる
正確に言うと、僕が初めてフルマラソンの距離を走ったのは、1994年の1月8日。1ヵ月後に迫った愛媛マラソンのコースを試走のつもりで走り通した。36km過ぎから歩き始めて、4時間21分59秒でゴールしている。その時の脚の筋肉痛がレース本番まで回復せずに、本番の愛媛マラソンでは30km関門でアウトになったわけだが、
「初マラソン初完走していたら、もうその時点でランニングを止めていたかもしれない。」というのも、少しハッタリが含まれている。自分のマラソン歴が「挫折」から始まった事は確かだが、実は翌月に開催される、京都国際ハーフマラソンにエントリーしていたのだ。平安遷都1200周年を記念するイベントとして開催されたこの大会、僕にとっては、大都市の中心部を走る「都市型マラソン」の面白さを最初に味わった大会であった。この大会を目指すことで、初マラソンリタイアの悔しさをとりあえず忘れることが出来た。一回限りのイベントのはずが、あまりにも好評だったために、関門制限時間を2時間に短縮して、翌年以降も「京都シティハーフマラソン」として継続された。今年の大会を最後に幕を閉じたが、いずれこの大会のメモワールもこの欄で記すつもりである。

4月にボストンマラソンのテレビ中継を見た。当時はテレビ東京が生中継で放映していて、地方局もその番組を購入していた。前年、谷口浩美さんが4位に入賞したレースはテレビ愛媛でも放映されたが、僕は未見である。この年は広島テレビでも放映された(解説は広島県人であり、ボストン優勝者である采谷義秋氏だった。)。ボストンが生中継されたのはこれが最後だったかもしれない。

これは僕のマラソン観をくつがえすほどの激しいレースだった。前年優勝のデティ、元10000mの世界記録保持者のバリオス、バルセロナ五輪金メダリストの黄らが集団を形成し、「心臓破りの丘」を5km14分台のハイペースで駆け上る姿に圧倒された。
「これが世界のマラソンか!」
女子の優勝が1ヶ月前の京都で優勝し、表彰台の上でのインタビューで
「おおきに!」
と話していた、ウタ・ピッピヒがドイツの国歌(外国の国歌で一番メロディが好きだ。)を涙を流して聞いていた。

この辺りから、「マラソン」が僕の生活の中で重要な位置を占め始めていた。

ジョガーのための情報誌も1年前から定期購読し始めていたが、この時初めて、陸上競技専門誌を購入した。毎年6月号(5月14日発売)は、春の海外マラソンがメインの特集だが、この年の表紙は、ロッテルダムで当時の日本最高記録で優勝した朝比奈三代子さんだった。以後、6月号の表紙を日本のマラソンランナーが飾った事はない。それを書店で買い、読みながら僕は小豆島へと向かっていた。小豆島オリーブマラソンというハーフマラソン(未公認)に出場するためである。

前年のこの大会が僕のハーフマラソンデビューだった。当時は島のペンションに宿泊して前夜を過ごした。その月、日本初のプロサッカー・リーグであるJリーグが開幕したばかりである。ペンションのテレビでもJリーグの試合を見ていた。思えば、僕がランナーとして成長していく過程と、日本のサッカーが「世界の舞台」へと近づいていく過程とはある時期重なっていた。僕がマラソンの自己ベストを記録した4ヶ月後に、サッカー日本代表はジョホールバルでイランに勝ち、ワールドカップへの出場権を得た。テレビで見ていた僕も嬉しかった。勝って良かったというよりも、彼らが4年前のドーハの時のように試合後ピッチに倒れて泣きじゃくる姿を見なくて済んでほっとしたのだった。NHKの山本浩アナも名実況を残した。
「ここにいるのは“彼ら”ではありません。“われわれ”です。」

5回目のハーフマラソンとなる'94年の小豆島ハーフで初めて1時間30分を切る1時間28分36秒でゴールした。一年前の初ハーフの記録を20分も縮めることができた。

走ることが面白くなってきた。

前年の1月より、当時2誌あったランニング情報誌を定期購読するようになっていた。老舗であるR誌は、雑誌編集者であり第一回の東京国際女子マラソンにも出場した女性ランナーが、カメラマンであった夫と共同で作り、創刊号は青梅マラソンの会場で配布した、という歴史を持つ、まるで「ロッキング・オン」のような雑誌だったが、当時は大手出版社が刊行していたC誌の方を熱心に読んでいた。C誌は大手出版社ならではの財力が強みか、毎号のトレーニングの特集において、直近のレースで結果を出したランナー、ならびにその指導者がアドバイスをしていたのが売りものになっていた。R誌でも、往年の名ランナー、喜多秀喜さんによるトレーニング講座を連載していて、その連載の途中に出場した、兵庫県三田のハーフマラソンでゲスト出場していた喜多さんに会うことができたのは感激ものだった。当時、神戸製鋼の陸上部の監督も退いていた喜多さんは'連載終了後にサロマ湖100kmマラソンに出場。リタイアに終わったがその直後に帝京大学の駅伝部監督に就任。陸上競技の指導の現場に帰ってきた。

C誌のトレーニング記事にしばしば登場していたのが宗兄弟であり、「元祖、箱根の山の神」大久保初男氏であった。大久保氏から、クロスカントリーを取り入りることを勧められ、車で愛媛マラソンの発着点である運動公園まで出かけていき、そこにあった1周2.5kmの「クロカンコース」に休日毎に出かけていった。6月に入って最初の土曜日、メインスタジアムは何やら騒がしかった。そうだった。今日は県高校総体だった。高校を卒業して14年過ぎている。すっかり忘れていた。トラックを覗くと、ちょうど女子3000mのゴールだった。松山商業高校のワンツー・フィニッシュの瞬間を見ることが出来た。通りすがりと思しき爺さんが
「マッショーは野球ぎりやのうて、おなごの子が走るんも速いんやのう。」
と感心していた。翌日の新聞で二人の名前を覚えた。一人は2年生の黒星郁恵さん。彼女は卒業後に三井海上に入社した。そしてもう1人は主将である3年生、

土佐礼子さんだった。

走る距離を少しずつ伸ばすことが出来たのは、C誌のおかげだと思う。当時の同誌には「本誌読者のランニングカレンダー」という記事が毎号掲載されていた。
備え付けの応募用紙に、その月の目標走行距離と、一日毎の走行距離を記入し、レースに出場した際には、その結果も記載し応募する。2ヵ月後には応募者全員の名前が走行距離の順に掲載され、レースの結果も掲載される。毎月抽選で数名ずつに、誌名の入ったボールペンやタオルが貰えた。僕も何回か当選した。

「そんなもの、どうせ他人には分からんから自分で適当に数字書いて出してもええんやないの?」

と思った方は、多分、「ランナー」になる資格はない。

雑誌に名前が載ることを励みに走り続けて、毎月応募していた。今なら、ネットで同様のことをしているサイトがあるはずだ。この企画も数年後には無くなり、編集長も変わり、名物記者も契約切れとなってからC誌を読まなくなり、ほどなく休刊となった。この辺りは大手出版社らしく思い切りが早い。今の「ランニングブーム」を当時のスタッフはどのような想いで見つめているだろうか。

ランニング・カレンダーのプレゼント当選者にある月、「横浜市・及川恒平」という名前を見つけた。似たような名前の人がいるものだと思った。'60年代に小室等さんや四角佳子さん(吉田拓郎さんの最初の奥さん)らとフォーク・グループ「六文銭」を結成し、上條恒彦さんと共演した「出発の歌」をヒットさせた、その「出発の歌」の作詞者であるシンガー・ソングライターである。小室さんから「文部省唱歌みたいだ。」と言われたことのある、彼の代表曲「面影橋から」や「ひとりぼっちのお祭り」などの曲は好きだった。

'80年代以降は、彼らと同世代のフォークシンガーは音楽シーンの表舞台からは遠ざかっていた。'90年代、かつての名盤がCDで再発され、彼らに脚光が浴び、「あのフォークシンガーは今」というある雑誌の企画で及川さんの近況が紹介されていたが、ソングライターとして活躍(「ドラゴンクエストⅢ」にも参加)する一方で、テニスクラブのインストラクターの仕事もしていて、フルマラソンも完走したことがあったのだという。なんと、同姓同名の別人ではなく、ご本人だったのだ。ちなみに、フルマラソンのベストは3時間6分台。

走行距離を少しずつ伸ばしていった。そして、暑い夏が迫っていた。

(この項つづく)




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