カウンターの中から客をのぞくといろんなことが見えてくる

日本人が日本食を知らないでいる。利口に見せない賢い人、利口に見せたい馬鹿な人。日本人が日本人らしく生きるための提言です。

オリンピックが子供たちの勇気になるように教育することこそ、大人の役割だと思う。

2012-07-26 | 人間観察
今、テレビでは、なでしこの試合をやっている。

たくましい女子達は、決して最初から逞しかったわけではない。

苦しみぬいてここまでの強さを身につけたに違いない。

大津のいじめ、寝屋川のいじめと、最近特にいじめが問題になっている。

いじめるほうが悪いに決まってるが、僕には、《いじめられ体質》の存在を明確にしないといけないと考えている。

いじめる連中に、いじめはいけないと言ったって、何の効果も無いのだ。

大人ならいざ知らず、いじめる子供にも、何の罪の意識も無いからだ。

僕は、いじめられる側の正当性ばかり訴えていても、いじめがなくなるとは思えないのだ。

子供の世界でも、大人の世界でも、
また、スポーツの世界でも、多かれ少なかれ、いじめはある。

暴力だけではなく、言葉のいじめや、無視するいじめなど、いじめはどこにでも存在する。

そして、いじめられる側は、仲間が出来ない限りいじめられ続けるのだ。

僕も中学から本格的にスポーツをやってきた。

中学では陸上と水泳の大会で活躍した。

柔道を覚えてからは、格技に目覚め、柔道も空手も有段者となった。

大学では日本拳法をやり、大学院から始めたアメフトは、33歳まで続けた。

今考えると、いじめはあった。

スポーツの世界では、弱いものがいじめられる。

強くなければ殴られる。

強くなければ無視される。

弱い人間は、口も聞いて貰えない。

社会はそういうふうにできているのだ。

いつの世も、強いものの言いなりになるのが、弱者であろう。

僕は、いくら道徳的な話をしても、もうなんともなら無い時代になっているのだと感じている。

弱いものを強くすることを考えなくてはならないと思っている。

いじめられない子供を育てる、と言うと、暴力的な子供を育てるように勘違いする親も多いのだが、実は、子供がもっと楽しくなれることを考えなくてはならないのだ。

僕は、子供のころから病弱だった。

だからいじめの対象でもあった。

しかし、僕はいじめを逃れるために、勉強に励んだ。

勉強が出来れば、誰もいじめなくなる。

スポーツの出来る奴らはいじめられない。

世の中は、そういうものなのだろう。

だから僕は、子供にスポーツをやらせたい。

涙を流して、悔しさを身体に叩き込み、誰にも負けないようになるまで頑張ってみる。

頑張っている姿を見て、その人をいじめるなんてことは出来ないのだ。

このオリンピックは、いじめをなくす、大きなチャンスでもあるのだ。

子供にオリンピックを見せて、どんどんスポーツに参加させよう。

なでしこは、多くの女の子に勇気を与えてくれた。

頑張れば、女だって男に負けないと言う勇気を。

オリンピックを見せ、子供の好きなスポーツをさせ、親はそういう子供を応援しなくてはいけない。

いじめなんか、まるで関係の無い世界に飛び込ませればいい。

クラス全体が仲良くする必要など無い。

自分の好きなことを成就すること。

それを覚えさせることで、子供は強くなる。

いじめなんか、されてもしても、馬鹿げたことだと気が付くはずだ。

強くなれ。

日本の子供よ、強くなれ!

大人たちよ。子供を強くしたいなら、正々堂々と戦える子供を育てよう。

青白い子供たちに未来は無い。

ニセモノで満足している日本人。

2012-07-25 | 人間観察
7月27日は、土用の丑。

簡単に言うと、《うなぎを食べる日》。

確かにこの数年、うなぎは高くなってきている。

この夏に、3度ほど専門店でうなぎを食べた。

昨年は、長焼き定食が確か4000円くらいだったと思う。

今年は、春に4200円に上がって、またこの夏、4500円になっていた。

僕は丼が好きでない。

名古屋のうなぎのタレが甘く、ご飯が甘くって食べたくなくなってしまうからだ。

だからいつでも、長焼きとご飯と、肝吸いを頼む。

お酒を飲むときは、うざくとうまきは欠かせない。

お酒がもう一本進むと、半助と肝焼きを追加する。

僕は桑名にある《丑松》という店に行くのが通例になっている。

あっさりして、一本丸々出てくるからだ。

年に10回くらいしか来ないのに、僕はここで食べるうなぎは大好きだ。

値上がりしたといっても、たかだか300円か500円。

一回のコーヒーをやめれば簡単に調整できる価格だ。

それでも今年は、やたらマスコミはうなぎの値上がりを声高らかに叫んでいる。

毎日食べるお米は、昨年から10キロ当たり700円も値上がりしているのに、
誰も何も言わない。

油も、てんぷら粉も、ガソリンも、紙もみんな値上がりしているのに、
どうしてうなぎだけ、これほど大騒ぎしたがるのだろう。

まるで、シーズン真っ只中のうなぎ専門店の営業妨害じゃないのかって思うほどおかしい。

そしてもっと変だったのは、僕の店の客の一人がとんでもないことを言い出したのだ。

44歳、主婦。

自称、気前がよくて、金持ちで、大学の先生しか友達はいない、と言って自慢する少しばかり頭の構造が普通の人とは違う人だけれど・・・・。

「今年はうなぎが高いから、スーパーで豆腐のうなぎってのがあるのね。それにしようかって、話し合ってるの」

「年に一度のことくらい、うなぎを食べたらいいじゃないですか」

僕は当然のように返事をして、周りの客も、うなずく。

「でも高いのよ。スーパーだって2000円もするのよ。コンビにでも1400円もするし、穴子でもいいって感じね」

「そんなのいやだよ。せめてうなぎくらいは、本物を食べなくっちゃぁ」

「だって高いのよ」

この人には何を言っても通じないくらいは誰もがわかっている。

それでも、他の客は土用の丑の楽しみを語ろうとする。

「だってうちでは3人分なのよ。一人2000円かかっても、6000円もかかっちゃうのよ」

あきれてものが言えなくなった。

500円の差なんて、どうにでもなると思っている。

少なくとも僕は・・・・。

僕は外食するには、ルールがあると思っている。

家で食べられないもの。

専門の店でしか味わえないもの。

それが、うなぎ屋であり、すし屋であり、てんぷら屋であると思っている。

ましてや、日本人の文化である、土用の丑の大イベントに、どうして好き好んでニセモノを食べなくてはならないのだ。

うなぎなんて毎日食べるものじゃないからなおさらだ。

僕が回転寿司を嫌うのも同じ理由だ。

本物じゃないからだ。

ご飯になま物を乗せたものが寿司ではない。

ふんわりと握られたシャリは、口の中でやさしくほどけ、しっかりとした仕込のしてあるものこそ寿司であり、腹を膨らませにいくところではないからだ。

ちなみに寿司屋と言うのは、店のオヤジを食べに行くところなのだ。

それが日本人の日本文化なのだ。

うなぎをコンビニに買いにいくのも僕は納得がいかないが、
うなぎを食べる日に、わざわざニセモノを食べる必要なんてあるのだろうか。

マスコミも、これらのニセモノを一生懸命に褒めちぎっている。

これがマインドコントロールでなくて、一体何だと言うのだろう。

戦後、占領軍が日本人に対して、民族意識を壊滅させるために、教科書を墨塗りした話は誰もが知っている。

いまなお、日本人が日本人の文化を守ろうとすることを、どうしても阻止しようとする力が働いているのではないかと疑ってしまう。

本物を食べよう。

僕は客と話し合い、26日と27日にイベントをすることにした。

国産うなぎの懐石コースだ。

一人5000円。

5種類のうなぎ料理と、お造りを添えて、食べてもらおうと言うものだ。

早速メールを送った。

早々に、11人の予約が入った。

本物はわかる人だけがわかればいい。

しかし、そんなことは言えない時代になってきた。

わからない人にも本物を食べさせないと、日本民族は崩壊してしまうのではないだろうかと、僕は心配になってきてしまった。

夜が怖い貴女のために、僕は月の光になりたい。

2012-07-24 | 人間観察
市場で河豚をもらった。

河豚というのは、一年を通して獲れるのだが、冬のものとして考えられているようだ。

なべとして食べるから、河豚漁は冬しかない。

市場では、白子を持つ春先に一番売れるらしく、今年も年明けにたくさん仕入れたらしい。

しかし、不景気風のせいか、なかなか売れなくて、水槽にたくさん残ったままになっていたのだ。

かといって、冬まで泳がせることなどできるはずもなく、死ぬ前に売りさばきたいのだ。

しかし、夏でも客に鍋を出す店で、しかも、ふぐの処理士の資格を持っている店にしか売れない。

そういうわけで、僕に話が持ち込まれたのだ。

「思いっきり安くするから、何とか使い切ってもらえないか」というわけだ。

僕も悩んだが、とことん安値で交渉し、1ヶ月で、50尾ほどを仕入れる約束をした。

僕は早速客にメールを送り、季節はずれの河豚コースを実施した。

破格の価格のせいもあるが、たくさんの人が来た。

そしてその中に、久しぶりの女性客が来た。

8年ほど前、彼女は大学生のとき、演劇をとるか、就職を選ぶかで悩んでいた。

結局、どちらつかずの方向にしか進めず、携帯電話の代理店で受付業務をしながら、演劇もやめられないという中途半端な生活をしていた。

僕の娘と同じ年で、女房の大学の後輩ということが縁で、親しみをもって接することができた一人でもあった。

大学を出て数年して、今度は結婚と仕事と演劇のハザマで悩んでいた。

何度か相談をされたが、会計士の一人娘というお嬢様の彼女には、なかなか独立することはできなかったようだ。

「まだ結婚もできないし、演劇もやめられないの。仕事も内勤事務に移って、なんとなく続いてる。
社内恋愛もやったし、親には言えないけど、上司との不倫もした。でもまだ自分がこれからどうしていいか迷ってる」

きっと、彼女なりに悩んでいるのだろう。

以前彼女が悩んでいるときに、「抱いてくれませんか? 今の彼と清算するきっかけがほしいから」といわれたことがある。

そんなことをしても、彼女にとって何のプラスにもならないと、僕は彼女を避けた。

客とそんな関係にはなりたくなかったから。

でも彼女は言った。

「プラスになるかどうかわからないけれど、少なくとも、私は助かる。好きだと思っていた男の価値を知るためにも、一度だけ」

若い子が何を考えているのか僕には理解できなかった。

好きでもない男に、しかも当時23の女の子が、46歳のおじさんに抱いてくれなどという言葉が出るのが不思議でならなかった。

僕は無視した。

足しげく通ってくる彼女をとことん無視した。

しかしある日、「今夜、知らない男に抱かれて、吹っ切ることにしました。ありがとうございました」

そう言って帰っていった。

僕はその言葉が本気だと感じたので、店が終わって電話をした。

「今、ホテルに入るところです。怖い」

「戻れ、今すぐもどれ、俺が抱く」

思わず言ってしまった。

彼女がタクシーで店に着いたのは、午前2時を回っていた。

泣きながらしがみついて震えていた。

まるでドラマのシーンのように、彼女は体中が震えで止まらなかった。

たったそれだけのことだったが、娘のようなかわいい彼女を抱くなんてできるはずがなかった。


彼女はまた時々顔を見せてくれるだろう。

彼女は今、暗闇の中で、足元さえ何も見えなくなっている。

遠くを眺めるなんてできるはずもない状態だ。

僕はこの子が、足元を見誤らないように、月の光になって照らしてあげたいと思った。

雨の日は、雨雲を吹き飛ばすような風になってあげたいと思った。

初老男の未練たらしい想いは、誰に伝えることもなく、きっと心の中でそっと持ち続けるに違いない。

この子は、これからどんな人と、どんな恋愛をして、どんな家庭を築いていくのだろう。

ずっとずっと眺めていたいと思った。

僕には《海子》という名の、守護神がいると、信じている。

2012-07-23 | 人間観察
中京競馬場の開催最終日には本当は行きたかった。

寸前まで行くつもりだった。

深夜まで専門紙を隅から隅まで読み込み、予想を立てる。

競馬という遊びの中で一番充実感を感じるときだ。

女房にも、ついて行ってくれるように頼み、そのつもりだった。

しかし、駐車場に歩いていくときに、膝に違和感を感じた。

「痛くなる」

直感的に感じてしまった。

以前にもあった。痛くなることを予期しながら、無理をして、救急車で病院に運ばれたことがあった。

だからやめた。

女房も、肩透かしを食ったような気分だったに違いない。

それでも、無理をして、女房に迷惑をかけることは避けたかった。

そして、中止したのにはもうひとつ、大きな理由があった。

《海子》の存在だ。

目に見えない、心の中の守護神だ。

誰に話しても馬鹿にされるだけなので、人には話すことはなくなってしまったが、
子供のころから、僕の心に話しかけてくる女性の神だ。

そんなことを書くと、非常に宗教がかってるように思えるだろうが、
実は僕は、信心深い人間ではない。

小さいころから、いつも僕は海子の存在を感じ続けている。

困っているとき、危険に遭遇するとき、大きな悩みがあるときなど、いつも海子に助けてもらった。

はっきりとした言葉で伝えてくれるのではない。

和服の女の人が、テレパシーのようなもので伝えてくれるのだ。

小学生のとき、先生の出した問題をずばりと当てたことがあった。

先生は僕に、なぜ質問の内容を知っていたかを尋ねたが、僕の答えには納得してもらえなかった。

深夜、試験前の徹夜でも海子は傾向を教えてくれた気がする。

入試のときも、面接のときも、すべて海子が一緒にいた。

その海子が、じっと僕の脚を見つめていた。

とても心配そうな表情で。

だから不安になってしまったのだ。

人に言わせれば、第六感というのかもしれないが、僕にはそうではないという確信がある。

理由などない。

海子の姿も想像に過ぎないし、どんな顔をしているのか、年齢は幾つなのかも全くわからない。

それでも、僕は海子の力でここまで生きてこられたと思っている。

さすがに、今日は脚が痛くて外には出る気にはなれなかった。

きっと、広い競馬場で歩き回れば、今頃は間違いなく病院だ。

残念ではあるが、よかったと思っている。

僕は、一生懸命に生きているし、不真面目でもないと思っている。

しかし、おそらく、同い年の仲間よりも、多少は多くの性体験を持っていると思う。

それは今でも、聖人君子ではない。

女性を片っ端から引っ掛けようとか、誰でもいいということはしない。

自然に任せてなるようになってきた。

家庭を持っている僕から、積極的に女性に迫ったことなど一度もないし、
金目当てで誘ってくる女性にも手を出したことはない。

だから女房にはかなり失礼なことをしているにもかかわらず、一度も危険なことに出会ったことがない。

決して、上手く立ち回っているわけでもないし、女房に嘘をついて女を漁りに行くこともない。

本当に自然な流れの中で、お互いが求め合うときに重なるだけのことだ。

お互いに、安堵感のような安らぎが生まれる。

しかも、僕たちは尾を引くことはない。

これも、海子という守護神がいるからだと信じている。

30代後半のとき、短大の教え子だった卒業生に言い寄られたことがあった。

自由奔放な子で、発想力の豊かな子だった。

すごく惹かれた。

すごく悩んだ。

しかし、海子がそれを止めた。

結局彼女は、他の先生と関係を持ち、それが回りに知られ、先生は退職、家庭も壊してしまった。

僕が悩んでいたときから、数ヵ月後のことだった。

あの時、もしかしたら、僕の身に災いが降りかかっていたのかもしれないと、今でも思っている。

医師に死を宣告されて、痩せこけて、起き上がることもできなくなったとき、海子は、僕におしゃれをするように薦めてくれた。

僕は這い蹲るようにして、以前から好きだったイタリアントラッドの服を買いあさった。

そして、奇跡的にかなりの回復を見た。

担当医は、今になっても、あのときのことを口にする。

「絶対にだめだと思ったよ。末期の表情だったから」

僕はまだまだ生きられるかもしれない。

僕が死んだら、海子も死んでしまうのだから。

海子が少しでも長く生きられるためにも、僕は死なない。

好きと感じたら、セックスしなくちゃならないの?

2012-07-22 | 人間観察
久々に、心から楽しいと思えた日だった。

午前中に原稿を仕上げて送信できた。

1週間の重い気持ちが吹っ飛んだ気分だ。

そして夜も仕事をした。

土曜日なのに、店をやった。

実は河豚が手に入ったので、《真夏の鍋をやります》というメールを送った。

次から次へと客が来る。

まさか、これほどみんな河豚が好きなのか?

それとも、僕の酔狂に付き合ってくれただけなのか?

アッコちゃんが、お母さんを連れてやってきた。

トモちゃんが彼氏?と一緒にやってきた。

ミカちゃんもだんなを連れてやってきた。

そのほか、男性陣も次から次へとやってきた。

馬鹿医師が来なかったせいかもしれないが、みんなはしゃいでくれた。

そして話題は恋愛に。

「すぐに好きになっちゃうんだ」

「早く結婚しなよ」

「でも長く続かないのよ」

「いい男見つけたら、すぐにやっちゃってさ、責任とってもらえばいいじゃん」

「でも、付き合ってみると、欠点ばかりが見えてきてね。長くても3ヶ月も持たない」

「じゃぁ、やりっぱなしだね」

「そんなんじゃないけど、好きな人とは、やはり、早くセックスして、相性を確かめないとね」

「性格の相性じゃなくて、セックスの相性?」

「大事なことよ。セックスの相性って」

「セックスする前に、性格ってわからない?」

「そんなの時間がもったいないでしょ? 好きだと思ったら、すぐにセックスするほうがいいんじゃない?」

女性同士の会話って、こんなものなの?って感じ。

いまや、女子高生が、通学途中に大きな声で、セックスの話をしてるというが、
世の中、こんなつまらないことが真面目に語られるなんて、不思議なことだ。

好きだからというだけでも、セックスしたってかまわないけれど、
セックスしてから、好きかどうか確かめるっていうことの意味がわからない。

でも、そうなのかもしれない。

僕だって、あわよくば、って考えることは少なくない。

僕だけじゃないと思う。

男なんてものは、そんなものだろう。

もちろん、想いが実現するかどうかは別として。

そう考えれば、女性だって同じなのかもしれない。

愛を確かめ合うという言い訳で、セックスに走ったって、そう不思議なことではないのかもしれない。

しかも、男と違って、女性が男性に言い寄っていけば、高い確率でセックスできると思う。

それでも不思議なのは、好きになったからって、セックスがすべてじゃないと思うのだ。

セックスは大事なものだからこそ、もっと慎重になってもよさそうなものだと思う。

僕もいつの間にか、どんどん古い人間になっていくのだろう。

それでも、今日は少しも不快に感じることもなく、心地よい疲れを感じることができた。

明日もこんな気持ちが続いてほしいものだ。

ちなみに、日曜日は、中京競馬場に行ってみるつもりだ。

脚が不安ではあるけれど。

明日が中京開催の最終日。

女房についていってもらおうと考えている。

一日5000円のバイト代を払って・・・・・。