これほど、病が自由を奪うとは
正直なところ、想像をはるかに超えていた。
9年前に立ち上がれなくなったとき、
20年前に、通勤さえ出来なくなって
仕事を止めなくてはならなくなったとき、
そのときでさえ、
これほど未来に不安は感じなかった。
モルヒネの効果は絶大で、
痛みこそかなり和らぐが、
全身を覆う疲労感は
心も蝕んでしまう。
そして最近のニュースは
日本人の心を蝕んでしまうことばかりが目立つ。
そしてそのことに
日本人の多くが気が付いていないことに気が付いた。
日本には日本だけの文化【花鳥風月】が存在する。
それを忘れてしまうと言うことは
日本人でなくていいということだ。
日本独自の自然というか、
四季があるから花鳥風月が存在する。
春に桜が咲き、
4月には青葉が美しく、
夏には海水浴で楽しみ、
川では鮎を楽しむ。
そんな日本の素晴らしさを無くしてなるものか、と思う。
金曜日と土曜日に店を開けた。
その時に話題になったのが、
西日本の駅の中に500店舗のセブンイレブンを作るというものと、
SEIYUが
客が不満を持った商品は返金するというものだ。
若い人は「いいことだ」といい、
「つまらない戦略だ」という人はわずかだった。
僕は以前豊橋に行くことがよくあり、
駅の中にあるスタンドでおでんを食べるのが楽しみだった。
想像を絶するような大きな大根が
驚くような柔らかさで、ダシが染みてとても美味しく、
熱燗のコップ酒と合わせて
寒い日に身体を温めるのが好きだった。
そこには薀蓄があった。
「この大根は豊橋で作られた大根で、
冬は甘く、夏は辛味が美味しく、
早朝から4時間かけて煮込んで
初めてこれだけ美味しくなる」
こんな薀蓄さえなくなってしまうのが悲しい。
誰もが同じものを手にし、
誰もが同じ生活をし、
季節の無い暮らしをすることが
それほどいいことなのか?
夏は辛味大根が美味しく感じられ、
冬は甘い大根が美味しい。
冬は寿司屋で
ブリやマグロを味わい、
春はシンコやサヨリに舌鼓を打
10月のみかんは皮が堅く、
酸味が強い。
3月のイチゴは酸味が強く、
5月のイチゴはとろけるように甘い。
子供は春には蝶を追い、
夏には蝉やカブトムシを探す。
お盆前には山のせせらぎを飛び回る羽黒トンボが季節を謳い、
9月には草に隠れて虫が鳴く。
「イチゴが酸っぱい」
「りんごが堅い」
「白菜に虫がついてた」
全て花鳥風月の妙味のなせる業で。
それが日本人の楽しみであるはずだ。
不満を感じたら返金するというのは、
自然に対するおごりだ。
無農薬の自然栽培で作ったものを
良心的に販売している本物志向の店は、
全て店を閉めなくてはならなくなる。
日本人の心をなくし、
個人商店の生活を破壊し、
四季の味わいをなくしてしまうことが
僕にはいいこととは思えない。
日本中がコンビニで埋め尽くされ、
季節の無い食材しか食べられなくなってしまう文化を
僕は望まない。
ある30代前半の未婚女性が言った。
「コンビニは便利ですよ。
ストッキングから簡単な下着、化粧水まであるんですから。
もっとたくさんコンビニがあってもいいわ。
小さな商店って、こちらから積極的に
欲しいものを探さなくてはいけないのよ。
客を馬鹿にしているわ」
30になったばかりの男性は
「気に入らなければ食べてから返金してもらえばいいんだから。
SEIYUはいい事やるよ。
個人店なんかいらないよ。
気に入らなくても返金してくれないんだから。
この前、地下街で買ったキウイなんか酸っぱくてさ、
もっと甘いキウイを期待してた僕なんか、がっかりだよ」
この人たちは、
もう日本人じゃない。
四季・季節の味・花鳥風月を感じないこと、
そして、自分の好みの食材を探せない無能、
それらを自慢することが、
幸せだと考えているようだ。
それでもブルジョア家庭で育ったユキちゃんは反論した。
「私は惣菜なんかをスーパーで買いたくない。
季節のものを、お母さんに作って欲しい」
すると前述の女性が言う。
「バカネェ。
私だってマックスバリューなんかで惣菜は買わないわよ。
惣菜は私の家の近くのスーパーで買うことにしてるの。
マックスバリューより安くて美味しいのよ」
この人は惣菜を家で作るということなど、
考えてはいないようだ。
ユキちゃんのお父さんは、
遊んでいる土地で果物を作ったり、
山に野草を採りに行ったりする粋な人だ。
魚は自分で釣ったものや、
魚屋で新鮮なものを買って
自分で捌く。
日本の家庭はそういうものだった。
焼肉のタレなど、
20年前はどこの家でも作っていた。
季節の果物を摩り下ろし、
お父さんの仕事だった。
そこには四季があった。
花鳥風月があった。
家族があった。
喜びがあった。
ウナギをコンビニで買うことなんて、
考えたことも無かったはずだ。
正直なところ、想像をはるかに超えていた。
9年前に立ち上がれなくなったとき、
20年前に、通勤さえ出来なくなって
仕事を止めなくてはならなくなったとき、
そのときでさえ、
これほど未来に不安は感じなかった。
モルヒネの効果は絶大で、
痛みこそかなり和らぐが、
全身を覆う疲労感は
心も蝕んでしまう。
そして最近のニュースは
日本人の心を蝕んでしまうことばかりが目立つ。
そしてそのことに
日本人の多くが気が付いていないことに気が付いた。
日本には日本だけの文化【花鳥風月】が存在する。
それを忘れてしまうと言うことは
日本人でなくていいということだ。
日本独自の自然というか、
四季があるから花鳥風月が存在する。
春に桜が咲き、
4月には青葉が美しく、
夏には海水浴で楽しみ、
川では鮎を楽しむ。
そんな日本の素晴らしさを無くしてなるものか、と思う。
金曜日と土曜日に店を開けた。
その時に話題になったのが、
西日本の駅の中に500店舗のセブンイレブンを作るというものと、
SEIYUが
客が不満を持った商品は返金するというものだ。
若い人は「いいことだ」といい、
「つまらない戦略だ」という人はわずかだった。
僕は以前豊橋に行くことがよくあり、
駅の中にあるスタンドでおでんを食べるのが楽しみだった。
想像を絶するような大きな大根が
驚くような柔らかさで、ダシが染みてとても美味しく、
熱燗のコップ酒と合わせて
寒い日に身体を温めるのが好きだった。
そこには薀蓄があった。
「この大根は豊橋で作られた大根で、
冬は甘く、夏は辛味が美味しく、
早朝から4時間かけて煮込んで
初めてこれだけ美味しくなる」
こんな薀蓄さえなくなってしまうのが悲しい。
誰もが同じものを手にし、
誰もが同じ生活をし、
季節の無い暮らしをすることが
それほどいいことなのか?
夏は辛味大根が美味しく感じられ、
冬は甘い大根が美味しい。
冬は寿司屋で
ブリやマグロを味わい、
春はシンコやサヨリに舌鼓を打
10月のみかんは皮が堅く、
酸味が強い。
3月のイチゴは酸味が強く、
5月のイチゴはとろけるように甘い。
子供は春には蝶を追い、
夏には蝉やカブトムシを探す。
お盆前には山のせせらぎを飛び回る羽黒トンボが季節を謳い、
9月には草に隠れて虫が鳴く。
「イチゴが酸っぱい」
「りんごが堅い」
「白菜に虫がついてた」
全て花鳥風月の妙味のなせる業で。
それが日本人の楽しみであるはずだ。
不満を感じたら返金するというのは、
自然に対するおごりだ。
無農薬の自然栽培で作ったものを
良心的に販売している本物志向の店は、
全て店を閉めなくてはならなくなる。
日本人の心をなくし、
個人商店の生活を破壊し、
四季の味わいをなくしてしまうことが
僕にはいいこととは思えない。
日本中がコンビニで埋め尽くされ、
季節の無い食材しか食べられなくなってしまう文化を
僕は望まない。
ある30代前半の未婚女性が言った。
「コンビニは便利ですよ。
ストッキングから簡単な下着、化粧水まであるんですから。
もっとたくさんコンビニがあってもいいわ。
小さな商店って、こちらから積極的に
欲しいものを探さなくてはいけないのよ。
客を馬鹿にしているわ」
30になったばかりの男性は
「気に入らなければ食べてから返金してもらえばいいんだから。
SEIYUはいい事やるよ。
個人店なんかいらないよ。
気に入らなくても返金してくれないんだから。
この前、地下街で買ったキウイなんか酸っぱくてさ、
もっと甘いキウイを期待してた僕なんか、がっかりだよ」
この人たちは、
もう日本人じゃない。
四季・季節の味・花鳥風月を感じないこと、
そして、自分の好みの食材を探せない無能、
それらを自慢することが、
幸せだと考えているようだ。
それでもブルジョア家庭で育ったユキちゃんは反論した。
「私は惣菜なんかをスーパーで買いたくない。
季節のものを、お母さんに作って欲しい」
すると前述の女性が言う。
「バカネェ。
私だってマックスバリューなんかで惣菜は買わないわよ。
惣菜は私の家の近くのスーパーで買うことにしてるの。
マックスバリューより安くて美味しいのよ」
この人は惣菜を家で作るということなど、
考えてはいないようだ。
ユキちゃんのお父さんは、
遊んでいる土地で果物を作ったり、
山に野草を採りに行ったりする粋な人だ。
魚は自分で釣ったものや、
魚屋で新鮮なものを買って
自分で捌く。
日本の家庭はそういうものだった。
焼肉のタレなど、
20年前はどこの家でも作っていた。
季節の果物を摩り下ろし、
お父さんの仕事だった。
そこには四季があった。
花鳥風月があった。
家族があった。
喜びがあった。
ウナギをコンビニで買うことなんて、
考えたことも無かったはずだ。