カウンターの中から客をのぞくといろんなことが見えてくる

日本人が日本食を知らないでいる。利口に見せない賢い人、利口に見せたい馬鹿な人。日本人が日本人らしく生きるための提言です。

夜が怖い貴女のために、僕は月の光になりたい。

2012-07-24 | 人間観察
市場で河豚をもらった。

河豚というのは、一年を通して獲れるのだが、冬のものとして考えられているようだ。

なべとして食べるから、河豚漁は冬しかない。

市場では、白子を持つ春先に一番売れるらしく、今年も年明けにたくさん仕入れたらしい。

しかし、不景気風のせいか、なかなか売れなくて、水槽にたくさん残ったままになっていたのだ。

かといって、冬まで泳がせることなどできるはずもなく、死ぬ前に売りさばきたいのだ。

しかし、夏でも客に鍋を出す店で、しかも、ふぐの処理士の資格を持っている店にしか売れない。

そういうわけで、僕に話が持ち込まれたのだ。

「思いっきり安くするから、何とか使い切ってもらえないか」というわけだ。

僕も悩んだが、とことん安値で交渉し、1ヶ月で、50尾ほどを仕入れる約束をした。

僕は早速客にメールを送り、季節はずれの河豚コースを実施した。

破格の価格のせいもあるが、たくさんの人が来た。

そしてその中に、久しぶりの女性客が来た。

8年ほど前、彼女は大学生のとき、演劇をとるか、就職を選ぶかで悩んでいた。

結局、どちらつかずの方向にしか進めず、携帯電話の代理店で受付業務をしながら、演劇もやめられないという中途半端な生活をしていた。

僕の娘と同じ年で、女房の大学の後輩ということが縁で、親しみをもって接することができた一人でもあった。

大学を出て数年して、今度は結婚と仕事と演劇のハザマで悩んでいた。

何度か相談をされたが、会計士の一人娘というお嬢様の彼女には、なかなか独立することはできなかったようだ。

「まだ結婚もできないし、演劇もやめられないの。仕事も内勤事務に移って、なんとなく続いてる。
社内恋愛もやったし、親には言えないけど、上司との不倫もした。でもまだ自分がこれからどうしていいか迷ってる」

きっと、彼女なりに悩んでいるのだろう。

以前彼女が悩んでいるときに、「抱いてくれませんか? 今の彼と清算するきっかけがほしいから」といわれたことがある。

そんなことをしても、彼女にとって何のプラスにもならないと、僕は彼女を避けた。

客とそんな関係にはなりたくなかったから。

でも彼女は言った。

「プラスになるかどうかわからないけれど、少なくとも、私は助かる。好きだと思っていた男の価値を知るためにも、一度だけ」

若い子が何を考えているのか僕には理解できなかった。

好きでもない男に、しかも当時23の女の子が、46歳のおじさんに抱いてくれなどという言葉が出るのが不思議でならなかった。

僕は無視した。

足しげく通ってくる彼女をとことん無視した。

しかしある日、「今夜、知らない男に抱かれて、吹っ切ることにしました。ありがとうございました」

そう言って帰っていった。

僕はその言葉が本気だと感じたので、店が終わって電話をした。

「今、ホテルに入るところです。怖い」

「戻れ、今すぐもどれ、俺が抱く」

思わず言ってしまった。

彼女がタクシーで店に着いたのは、午前2時を回っていた。

泣きながらしがみついて震えていた。

まるでドラマのシーンのように、彼女は体中が震えで止まらなかった。

たったそれだけのことだったが、娘のようなかわいい彼女を抱くなんてできるはずがなかった。


彼女はまた時々顔を見せてくれるだろう。

彼女は今、暗闇の中で、足元さえ何も見えなくなっている。

遠くを眺めるなんてできるはずもない状態だ。

僕はこの子が、足元を見誤らないように、月の光になって照らしてあげたいと思った。

雨の日は、雨雲を吹き飛ばすような風になってあげたいと思った。

初老男の未練たらしい想いは、誰に伝えることもなく、きっと心の中でそっと持ち続けるに違いない。

この子は、これからどんな人と、どんな恋愛をして、どんな家庭を築いていくのだろう。

ずっとずっと眺めていたいと思った。