ンデンデキ外伝

僕の話をしよう。

これから、札幌で、鬱売る時は、少しは質に気ぃつかえよ

2006年10月30日 12時57分26秒 | 糞ぼやき関係
鬱で始まって鬱で終わるそんな文章は書かないようにしています。
書いても人には決して見せないようにつとめています。

自分がそういう文章を読んだときに具合が悪くなってしまうからです。
でもきっと現存するブログの多くをそういう文章が占めていたりするのでしょうね。
自分もまったくそういう文を晒さなかったかと言われると口をつぐんでしまいますが・・・。

例えばもしネット上に「死にたい」などとのたまい晒す輩がいたら、たとえそれが友達でも反射的に「死になさい・・・」とか、または「大丈夫?元気出してo(^O^)o」って言いたくなっちゃうものです。
そういう文章を見てしまったときの自分の中での折り合いの付け方がいまひとつ分からずに戸惑い続けていたのですが、またひとつ兄弟に良い事を教わりました。



彼は大体こんなかんじのことを言っていました。




良いか。

俺たちのようにエンターテイメントを求め続ける人種もいれば、人の鬱日記を求めている人種もいるんだ。

言ってみればそれがそいつらにとってのエンターテイメントなんだ。

実際俺もあるサイトの鬱日記を読んでいたが、もうやめた。のろけ話やらなんやら・・・質が落ちてしまったんだ。

良いか。

お前が人の鬱日記を読んで辛く感じたり悩んだりする必要はまったくない。

ただの趣味の違いなんだ。

お前が「この人はどうしてこんな文章を晒すんだろう」などと考える必要はまったくない。

その種の文章を求めている人がいるんだ。

需要があれば書き手は書かなくてはいけないだろう?

そういうことなんだよ。










確かに大昔から喜劇と同様かそれ以上に、悲劇が多くの人たちに愛され楽しまれてきました。

こいつは納得だ。
確かに僕が頭を抱えたりそわそわする必要なんてありはしないんだ。
もともと何も出来ないのに何かしてあげなくてはと思索をめぐらす必要はないんだ。
ナーバスになりすぎていたんだ。
基本的な命題に帰れば答えは簡単だった。

森羅万象一切衆生総じてエンターテイメントなり!


なのでその種の文を書く人も晒すときに質に気をつければ、それもアリだと思います。

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